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第5章 53

 双__太利と名を明かしたこの男は、短剣を何度も抜いては刺して、呻き声を漏らす文懐を踏みつけて地面に倒した。そのまま文懐の口を塞ぎ、また手当たり次第に深く刃を突き立てる。

 気が遠くなっていく文懐の耳元で、太利は囁いた。

「逆賊め、この場で完全にとどめを刺してやろう」

 文懐は目を見開いた。そうでもしないと視界が霞む。意識を手放してしまう。

 まだ、生きていなければならないのに。反乱はまだ続いている。兵士を鼓舞し、戦の総指揮をとり、周囲の協力をとりつけなければ。それが文懐の果たす役目なのに。

 まだ死ねない。そう決意するも体には既に力が入らない。体中を苛む刺し傷の痛みが、文懐に終わりを告げる__。

「まだ……戦わ……ないと」

 太利がせせら笑った。文懐が動かした右腕を容赦なくたたき折る。激痛に悲鳴を上げる力すら、文懐にはない。

「訓……を、呼んで……」

 まだ自分は死なない。死なないんだ。駄々っ子のような思考が白い霧に蝕まれていく。誰でもいいから、ここに来てくれ。文懐は祈った。誰か、この裏切り者に気がついて……


 太利は、文懐の体から最後の力が抜けたのを確認し、その場を離れた。死体はそのままにしておけばいい。大元帥サマの死は反乱軍全体を揺るがしてくれるだろう。回収はその後でいい。

 太利は双子だった。戦時下に嘉隆帝の重臣である父親は嘉隆帝の皇后の女官と結婚した。双子のもう一人の片割れは嘉定で育てられたが、太利は幸運にも明命帝の乳兄弟となった。双子の弟よりも、明命帝の方に親しみが感じられた。年に一度しか会わない兄弟など、何の利用価値もないと思っていた。成長してから、太利は明命帝の間者として働き始めた。特殊な訓練を受け、暗殺や防諜に通じた太利は、明命帝と仲が悪かった黎文悦の監視を命じられた。

 双__弟が総鎮城の下っ端として働いていたのは好都合だった。弟を丸め込み、自分の分身として利用し続けた。双も双で、太利を便利に思っていたようだ。ただ双が愚かなのは、自分が漁に出たり休息をとりたいときにしか兄の存在を使おうとは考えなかったことだ。忠誠心はともかく、双子でもこんなに頭の差がつくのかと太利は弟を馬鹿にしていた。

 その夜、弾薬庫の前で双と会う約束だった。双はこんな時でも、兄に会うことを単に楽しみにしているようだった。兄が反乱軍最大の敵だとは夢にも思っていないのだ。

「お待たせ、双」

 小屋の前で待っていた双が、駆け寄ってくる。

「久しぶり! 二年くらい音沙汰がなかったね。心配していたんだよ」

「そう、ありがとう」

 近づいた双は、太利の全身にこびりついた返り血に気がつき、さっと顔を曇らせた。

「それ……どうしたんだ? 怪我でも……?」

「いいや」

 太利は笑い出した。愚かな弟、愚かな文懐。最も笑えるのは、今この瞬間身の破滅が忍び寄っていることに気がつかない阮訓だ。

「人を殺したんだ。誰だと思う?」

「え……まさか、僕の側の誰かじゃないだろう?」

 無邪気に確認する双を絶望させる瞬間の、刹那すぎる快楽といったら!

「殺したのは、黎文懐だよ。お前の主人のな」

 双が呆然としている隙に、太利は身を翻して駆け去った。途中で口笛を吹き、待機させていた仲間を呼び寄せた。

 勝負は短時間だ。この日を太利以上に待ちわびていた者たちがいる。

「__待ちくたびれました」

 かすれた声で、初老の男女が太利に言った。

 太利は、山犬の扱いに不慣れな彼らが背中にまたがるのを手助けしてやった。自分は別の山犬にひらりとまたがり、「走れ」と命じる。山犬は指示されなくても行き先を知っていた。以前殺し損ねた相手は決して忘れない。

「子を奪われた恨み、存分に返してやるといい」

 山犬にしがみつく身なりのいい男は、すっと背筋を伸ばした。

「勿論ですとも」

 彼の背中に抱きつく妻も、口をきゅっと引き結びうなずいた。

 山犬が足を止めたのは、兵士たちが眠る小屋だった。

「この中にあなた方の仇がいる。中で物音を立てるんじゃないよ。周りを起こしたら面倒だから」

「心得ています」

 太利が渡した眠り薬を手元に忍ばせた夫婦が、抜き足差し足で鼾軒昂な掘っ立て小屋に消えていった。それからほんの数分で、彼らは二人がかりで訓を担いで小屋から出てきた。森の中がにわかに騒がしい。双が文懐の死体を見つけたのだろう。

「よくやった。陣営に戻ったら、殺さない程度に憂さ晴らしをするがいい」

「ありがたいご配慮です」

 その郷紳には子どもが二人いた。名前は英路と翠瑠。二人とも、阮訓によってキリスト教徒の道に引きずり込まれ、夫婦の元には戻らなかった。

 英路が死んだと聞かされた日、翠瑠がキリスト教徒どもに連れて行かれた日。その悪夢のような時間は夫婦の胸に刻み込まれ、深い怨念の瘴気を吐き出し続けている。

 強い薬を嗅がされ、ぐったりと動かない訓を彼らは軽蔑の目で見つめた。

「決して殺すんじゃないぞ。そいつは順化に連行する。顔が見たいと陛下直々のご命令だ」

 訓を山犬に縛り付けながら、太利は釘を刺した。

「こいつは一体何者ですか?」

「ただの逆賊さ」

 澄ました顔で太利は答える。


 文懐を仕留めた。碧翅がいつ森を攻撃してもいいように準備は整っている。長く続いた反乱ももうおしまいだ。



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