第5章 51(黎文懐)
「訓」
夜までかかった軍議をお開きにした後、訓は文懐に呼び止められた。燈や側近たちが礼をして下がっていく。ほんの短時間でその場は二人だけになった。
「何でしょう?」
首を傾げた訓に向かって、文懐は例の書簡を雑に振ってみせた。
「これについて。どう返事すればいいか、半日考えてもまだ皆目見当がつかない」
文懐の眉間には深い皺が寄っていた。
「まだ時間はあります。休息を挟んでまた向き合えば、今よりも良い考えが浮かぶのではないでしょうか」
「寝てから考えてもな。結局選択肢は二つしかないじゃないか。この要求を呑むか、断るか」
「曖昧な返答で結論を延ばし、その間に更に援助を引き出すのも一手でしょう」
「それで相手が納得すると思うか?」
「納得しなくても、大南でフランスをまともに相手するのは我々しかありません。いずれ得られる利益のことを考えれば、向こうだってこちらに強く出ることはないのでは?」
明命帝を戴く順化の宮廷がフランスと条約を結びたがるとはとても思えない。西洋の勢力を特に忌み嫌う明命帝だ。
「国との取引は、難しいな……」
今日何度目か分からない溜息を盛大に吐き、文懐は立ったままの訓を見上げた。
「座れよ。話が長くなりそうだから」
「それは、文懐様のお心次第ですね……」
やんわりと文句を言いつつ訓も腰を下ろした。
「外国人との貿易やシャムとの小競り合いはお手の物だと思っていた。だが、得体の知れない遠国との関係をどう保てばいいかは不慣れでね」
「皇帝になったおつもりで向き合ってみるといいかもしれませんね」
「皇帝のつもり、ねえ」
文懐は肩を回し、凝りをほぐした。
「いずれ順化にまで到達すれば、大元帥どころか皇帝になることも遠い夢ではないのですから」
「そんな時が来ると思うか?」
「文懐様は思わないのですか?」
文懐は、しばらく黙っていた。訓も急かさない。
皆の前で力強い熱弁を振るった文懐が、弱音を吐こうとしている。
「……大龍将軍にかつて言われた通りだ。この反乱には未来がない」
訓はまだ黙って耳を傾けた。
「宮廷を覆したとして、その先に自分が皇帝になろうと考えたことはなかった。少なくとも西山阮氏の光中帝は、黎朝を廃して新しい王朝を創るという気概があったというのに」
文懐は苦しげな表情をしていた。自分を信じてついてきた者への後ろめたさだと、訓は解釈した。
「父を侮辱された怒りだけで、今の今まで戦ってきた。俺には、南圻以上の広い土地を治めるほどの賢さはない。こうして条約一つ結ぶだけでも四苦八苦している」
大南の民全てを幸せにする術を、俺は知らない__吐き出された声はひどく弱々しい。
そんな彼が痛ましく思えて、また同時に人間臭さにいっそう親しみが湧く。訓に言わせれば、皇帝に向いていると自称する人間ほど胡散臭いものはない。
「簡単に考えてみましょう。民は何を欲しがっていると思いますか?」
南圻の範囲だけでもいいですよ。そう言うと、文懐は真剣な表情で沈黙した。
そして、
「……自由と、豊かな暮らしだ」
と答えた。
「では、それを与えられる君主を目指せばよいのです。広さなど、きっと大した問題ではないのだと思います」
「それほどの富と力が俺にあるだろうか?」
「必要なのはそんなものではありません」
訓は断言した。
「嘉定では、何か特別な報酬を民に与えていましたか? そんなことはありませんよね。何をせずとも民は畑を耕し商いをして、自分に必要な富を得ていたでしょう。自由に動いていいという保証さえあれば、皆自力で豊かになっていくのです。幸せも、自力でつかみ取っていくのです、上に立つ者は、ただ彼らの生活を外敵から守り、寛大な目で見守るだけでいいんです。__それが、」
訓は息を吸い込んだ。
「良い国のあり方というものだと、私は信じています」
文懐は穴の開くほど訓を見つめていた。
「お前は、いつもそんなことを考えているのか」
「子どもの頃から……考え込み過ぎる癖がありまして」
「変わった奴だとは思っていたが」
文懐は笑った。何の気負いもない、子どものような笑みだ。
「楽しいな。お前と喋っていると、何故か元気になる気がする」
「私の残り少ない元気を文懐様に吸い取られているんです」
訓は肩をすくめた。
「……そうだよな。勝手に弱って心配かけた。もうこんな話はしないよ」
「これでもカテキスタですから。説話には慣れております」
「いつもこうやって……何というか、いいことを言うのか?」
「からかうのはやめて下さい」
憮然とした表情の訓を見て、文懐は手を叩いて面白がる。その後、ふと真面目な表情になった。
「約束するよ。お前たちが信じてくれているのなら、俺も反乱の成功を信じる。例え大南中を敵に回しても、民のために……そして自分のために、戦いを続けよう」
文懐は、訓が自分を凝視しているのに気がついた。律儀に正座を崩さないこの男が、珍しく迷っているようだ。
そう言えば、ずっと謝れていないことがあった。大龍軍と最初に刃を交えた時に、訓を卑怯者扱いした件だ。あの時の彼の動きがなければ、大龍将軍にやられていただろう。
「訓__」
口を開いた時、躊躇っていた訓がきっと顔を上げた。
「……私には、ずっと秘匿していたことがあります」
「何だ。宮廷軍の間者をやっていたのか? それとも、食糧をちょろまかしたとか?」
文懐の軽口にも反応しない。訓は真剣な表情で、次の言葉を紡いだ。




