11(奇襲)
訓とセシリアが急に走りだし、残されたアンヌとミゲルは茫漠と顔を見合わせた。
「何があったのかしら」
「さあ……」
状況に取り残された二人の側を、二人連れのカテキスタがゆっくり通り過ぎた。深刻な顔で話し合いながら。
「とにかく、私はあの女を受け入れるのは反対ですよ。阮訓が言い出したことなら尚更……」
「あいつ、女を愛妾にでもするつもりなんじゃないか。あのぼろ小屋に閉じ込めてさ」
アンヌとミゲルは下らない憶測を広げるカテキスタたちを睨みつけた。
「ひどい、先生をあんな風に言うなんて!」
珍しくアンヌが腹をたてている。
「もう戻ろうよ。怜ちゃんが心配だし」
ミゲルはアンヌの背中を押した。
とうとう怪しい人影を見失った訓は、荒い息をつきながらその場で止まった。追いついたセシリアは涼しい顔をしている。
「何があったの? 先生」
「林の中に、誰かがいた。勘だが、この社の人間じゃない気がする」
「まさか、マリアが言ってた追っ手?」
「かも……しれない」
「だったら、休憩している場合じゃないわ。さあ、家に急ぎましょう!」
若いセシリアは残酷にも、すっかり息が上がった訓の腕を引っ張って促した。
「ま、待ってくれ。胸と腹が痛くてかなわん」
「情けない! 年取った証ですよ」
「うるさい。そんなに急ぎたいなら、先に行け」
「はいはい」
からかうように訓を振り返り、セシリアは駆けて行った。小鹿のようにしなやかな背姿を見送り、訓は大きく深呼吸をした。それからまもなくして、ミゲルとアンヌが走ってきた。
訓の家に戻ったセシリアは、よくよく周囲を見渡してから戸を叩いた。中からマリアの声が返った。
「合い言葉は?」
「えー、そんなのあったっけ?」
「さっき作ったんだよ」
「分かるはずないじゃない!」
「まあ聞きなよ。十二使徒の名前は?」
「ピエトロ、ジャン、アンドレ、ヤコブ、ピリポ、バルトロメオ、マタイ、トマス、ヤコブ、えーっと、ユダ、シモン、裏切り者のユダ」
「正解」
扉が開かれた。ずかずかと上がり込みながらセシリアは文句を言う。
「これって合い言葉? 試験みたい」
「でも、効果はありそうでしょ」
戸をぴしゃりと閉めたマリアがにやりと笑う。
「まあいいや。怜ちゃん、調子はどう?」
床から出て座っていた怜は微笑んだ。
「おかげさまで、ずいぶん良くなったわ。ありがとう」
「怪しい奴は来てない?」
ジャンが首を振る。
「今のところ、誰も。もう別の社に向かったんじゃないかって__」
「甘いわ。まだ近くにいるかもしれない」
セシリアの張り詰めた声に、皆が凍りついた。
「訓先生が、怪しい人影を見たって。だから、警告しに来たの。怜ちゃんを捜しにきた追っ手かもしれない!」
家の中に落ちた恐ろしい沈黙を破ったのは、乱暴に戸を叩く音だった。
思わず小さな悲鳴を上げたセシリアを奥に押しやって、ジャンとピエトロが戸の前に立つ。音はだんだん大きくなっていく。
外の者がわめき散らした。
「開けろ! おい、さっさと開けるんだ! ここに怜がいるのは分かってんだぞ!」
がたがた震え出した怜をカトリーヌが抱きしめた。外に向かって答えるのはピエトロだ。
「怜って誰だ? そんな人、ここにはいないぞ!」
「嘘をつけ! 噂になっているんだよ。あばずれの怜が、この家に隠れているってな!」
噂。不安になって顔を見合わせた。誰が広めたんだろう。
カトリーヌが怒鳴った。
「帰ってちょうだい! 何と言われようと、ここに怜はいないから!」
「なら、中を見せてみな。怜がいないか隅々までよっく確かめてやるから!」
外の男が唾を吐く、不快な音がした。
「なあ、怜や。お前、見事にこの社のガキどもを丸め込んだもんだなあ? お前のしたことを巧妙に隠して。お前が、情欲に溺れた爛れ女郎で、股も頭も腐っていると知ったら、一体誰が庇ってくれるだろう?」
「……嘘よ」
怜が顔を覆って呟いた。彼女の背中を労るようにさすりながらカトリーヌが囁く。
「しゃべっちゃ駄目。あいつの思う壷だから」
だが、男の企みはある意味では功を奏したようだ。怜は、子どもたちの軽蔑の視線を痛いほどに感じていた。それが例え彼女自身の妄想であったとしても、冷ややかないくつもの刃として、怜の心を切り刻んだ。
「私は……」
「しゃべるんじゃない!」
ジャンが叱りつける。
「怜はなあ、金に目が眩んで股を開いた相手から、死病の毒をもらったんだぞ。おっそろしい毒だ。怜の側にいるだけで病が移るぞ。全身にいやらしいできものができて化け物みたいな醜い姿になるんだぞ。おれはこんな奴に騙される人間が可哀想だから、はるばる紅河から追ってきたんだ。まだそいつを匿うのか」
男の言葉が、家の中に悪夢のごとく広がった。子どもたちは怒りに震えながらも、反論できないでいる。男自身がまき散らす毒が、いつの間にか誰の中にも忍び込み、じわりじわりと恐怖を育てる__。
「耐えて」
カトリーヌは自分の慰めの空虚さに打ちのめされた。いつまで男に対抗していればいい? こいつが怜を諦めることがあるんだろうか?
そもそも__私たちが、怜を守る理由は何だ?
カトリーヌはそっと怜を抱く手を緩めた。一瞬の、罪のない迷いがとどめを刺した。
怜はばっと起き上がり、戸を中から大きく開いた。止めることはできなかった。
戸の前で待ち構えていた男が、現れた怜に笑いかけた。その邪悪な笑顔を全員が目にして慄然とする。
その男の顔に表れた全ての感情__歓喜、憎悪、期待が彼の面相を大きく変えていた。マリアでさえ、一瞬相手が誰だか分からなかった。
「おまえ__」
男は怜の傷だらけの顔をつかみ、乱暴に引き寄せた。
「やっと見つけた。もう逃げることはないよなあ?」
怜の小さな背中が、恐怖と諦めを物語っている。
「お前は、一生、おれの物だ」
セシリアの見開かれた目が怒りに尖る。
「……お願い、この子たちには何もしないで」
その場に固まったカトリーヌの目から涙がこぼれ落ちた。途方もない罪悪感が彼女を苦しめている。私のせいだ。私が怜をつき離した。
男はせせら笑い、怜の顔の傷を撫でた。
「悔しいなあ。畜生なんかに先を越されちまった。おれなら__」
どこからともなくとりだした短刀で、怜の衣を叩く。
「全身に傷をつけて、おれだけの物って分からせてやる。おれの名前をお前の胸に刻んで……」
「やめて……」
懇願したのはカトリーヌだった。
「お願い、怜さんを放してあげて!」
「カトリーヌ」
ピエトロがそっとカトリーヌの口を塞いだ。そして耳元で囁く。
「一、二の三で、怜さんを連れて逃げるぞ。ほら数えて、一……二……」
三?
その瞬間、男が前に倒れ込み、短刀を取り落とした。ジャンがぱっと躍りかかって怜を引き離し、家の中に向かって叫ぶ。
「行くぞ!」
力強い号令に体が反応した。カトリーヌは、セシリアやアンヌと共に飛び上がって怜に駆け寄った。ジャンに支えられた怜は、頭を押さえて呻く男からよろよろと身を引いた。
男の後ろに、訓がいる。握った拳をもう一度男に振り下ろし、子どもたちに命じた。
「早く行け! こいつは俺が何とかする!」
怜を真ん中に、一つの塊となってカトリーヌたちは走った。ミゲルとアンヌが訓の側に残っている。
子どもたちが飛び込んだのは、教会だった。祈りを捧げていた司祭たちが邪魔されて怒っていたが、断固として譲らなかった。教会の隅に団子になってうずくまる聖歌隊と怜を、信徒が好奇の目で眺めた。
大南人の老司祭が近づいてくる。
「何があったのじゃ」
「怜ちゃんを狙う……なんかものすごい男が……」
「訓先生の家に押しかけてきたんです!」
司祭の顔が険しくなった。
「そやつは今どうしている?」
「訓先生が何とかしてくれるって……」
「様子を見てくる」
教会を出ようとした司祭を、ジャンが引き留める。
「今行ったら危ないですよ!」
「では訓はどうなのじゃ。一人でそやつと戦っているというのかね」
もう一人の司祭が、呆れたように彼の肩に手を置いた。
「腕っぷしの強い信徒を向かわせよう。貴方が危険に飛び込む必要はない」
司祭たちは、怜を疑いの目で見た。
「これほどに執心されている理由は何だね? やはり__貴女は囚人なのか?」
怜は力なく首を振った。




