第5章 43
かつての教え子に声をかけられ、訓は教会から離れた所にある井戸へと向かっていた。
「お前の嫁さんが、その水を飲んだって?」
先導する青年が、井戸の水に異味があると相談にきたのだ。
「はい。でも、幸いなことに体の不調はないそうです」
「よかった。だが、危険だな」
彼の妻は二人目の子を腹に宿している。
「吐かせるなりして、体外に水を出した方がいい」
「あいつは体が頑丈だから、そこまでするには及びませんよ」
いやに冷淡だった。
「でも、毒でも混ざっていたらことですからね」
木の蓋を開けて、青年がさっさと水を汲んだ。用意していたらしい器に水を注ぎ、二、三度揺らしてから訓に渡した。
「僕が飲んでも、何の味もしなかったんですがね」
「そうか……」
器に口をつけて少しずつ飲んだが、訓も首を傾げた。
「いつもと変わらない気がするな」
「でしょう。大袈裟に騒がなくてよかった」
「泥が少し溶け出していたのかもしれないな。浄水桶でも作って……おく……か?」
訓の手から空の器が転がり落ちた。理解が追いつかないまま、訓はその場にへたり込んだ。
足に力が入らない。指が、石になったみたいに固まってしまった。胸の動悸がやけにうるさく耳に響く。
大粒の汗をだらだら流しながら、訓は目だけをやっと動かして教え子を見上げた。
「……勇文……?」
青年はふふんとあざ笑った。そして、訓の前に屈み込み、衣の内側にとりつけた巾着を引きちぎった。
巾着を裏返すと、輝く宝玉が現れた。
「大事な物を隠す場所、ずっと変わらないんですね。訓先生」
「お前……」
訓は唖然として勇文を見つめた。「その玉……どうする、つ、も、り……」
「これを持って宮廷軍のところに行けば、僕は官人になれる」
受洗した頃と変わらない顔で得意げに笑い、勇文は短刀を抜いた。
「あなたに恨みはないけれど、今は戦時ですから」
振り上げられた短刀がぎらりと光った。訓は思わず目を瞑る。しかしその時、ヒュッと鋭い音が走り、勇文があっと叫んだ。
訓が恐る恐る目を開くと、勇文は腕を押さえてのたうち回っていた。そこへ飛び込んできた数人の兵士たちがあっという間に勇文を羽交い締めにした。地面に取り落とされた短刀を誰かが蹴り飛ばした。
駆け寄ってきた年配の男__明の父燈がぶっきらぼうに訓に尋ねる。
「無事か」
「は……はい」
差し出された手にすがっても、力が抜けた体を起こすのは無理だった。
「何をされた?」
「薬か何かを……飲まされたようです」
燈が即座に部下に命じた。
「解毒薬を」
取り押さえられた勇文は、大声で訓たちを罵った。燈が軽蔑しきった目で彼を見下ろす。
「殺せ」
「待ってください……」
不自由な舌を精一杯回し、訓は燈に反対した。「きっと……ただの気の迷いなんだ。許してあげてほしい……」
勇文には妻がいる。子どもも、老いた父母もいる。家族のために褒美に目をくらませただけなのだ。
ただ、それだけのことであるはずなのに。
燈は首を横に振った。
「どこかに連れて行け。こいつに見えない場所でとどめをさせ」
訓の願いを退けた燈は最後に冷ややかに言い放った。
「生かしておく理由がない」
話はそれでおしまいだった。うなだれる訓に、なるべく早く皆が集まる場所に来るようにと告げ、燈は文懐の元へ戻っていった。代わりに、兵士が薬を持ってきてくれた。真水と共に飲んで深呼吸すると、痺れが少しとれた気がした。
取り返した玉を再びしまい、衣を整え、訓は少しの時間顔を両手で覆った。耳をすますと、誰かの断末魔の悲鳴が聞こえる。
「…………勇文の家族に、会わなくては」
勇文が殺されたことを、彼の帰りを待つ者に伝えなければ。それは訓に課せられた役目だ。自分のために死んだ教え子に報いるために。
指の隙間から、白い小道がまっすぐに伸びているのが見えた。この道を行けば、何がある? 今や、自分がどこに向かっているのかさっぱり分からない。分かりたくもなかった。




