第5章 38 阮訓
別れの翌朝、森はがらんとして見えた。
秀の墓の前で目覚めた訓は、猛烈な寂寞感と空虚さにしばしぼうっとしていた。聖歌隊を華僑に託した今、おはようと挨拶する相手がいない。多くはない自分の飯を、食べ盛りの子どもたちに分けてやる必要もない。一つ一つの当然だった習慣が消えてなくなり、自分一人が取り残されている。
だが、そうした幸福を手放したのは、他でもない自分だ。その判断は決して間違いではなかったと信じたい。
華と共に嘉定に出立する直前の明が会いに来た。訓を責めたいのか、後ろめたいのか複雑な表情で、そのくせ彼はどこか溌剌として見えた。若さとは別の理由があることは彼が口を開く前に察した。
もう、何も思わない。口をつぐみ、いつも通りに振る舞っていればいい。そのうち忘れ去ることができる。華のことや__もっと大昔の、子どもだった頃の思い出も、何もかも。
ガランガランと鐘が鳴った。破壊された教会の残骸から、苦労して掘り出した大事な鐘だ。若いカテキスタが、拾った太い枝で叩いている。
今朝はミサがあるのだったか。ぐちゃぐちゃに踏み倒した草むらからやっと立ち上がり、秀にしばしの別れを告げた。今日が何曜日かも忘れていた。自分以外のまめな聖職者は、戦乱のさなかにいてもしっかりと日付を勘定しているのだろう。
教会の跡地に到着した時、他の聖職者たちは全員既に集まっていた。そっと近づいた訓にカテキスタが白い目を向けた。
「遅い」
萬呂司祭の叱責で、同僚が一斉に訓を見た。高文司祭が肩をすくめ、そっと厳格な萬呂司祭の腕を引いた。
「ミサの準備を」
司祭はうなずき、まだ不機嫌の残る声でカテキスタたちに指示を出した。文懐たちへの連絡を命じられた訓に、高文司祭が近づいた。
「萬呂司祭が、ミサの後に話があるそうじゃ」
「私にですか?」
「他に誰がいる? 墓地の前においで。人目につかないように」
訓は思わず空を仰いだ。ろくな話でないのは分かっている。
ミサの参加者は日に日に減っている。あまりにも多くの人間が、祈る側から祈られる側に移ったからだ。生き残った信徒でも、軍議や重要な任務を担う者は参加を免除されている。文懐は二、三回に一度ほど顔を出す。マルシャンやフランスから来た宣教師は、インド基地の軍人に会うと言って朝から不在だった。
集まった信徒たちの前に新米の司祭が立った。緊張を隠せない顔で人々を見回し、彼は汗を拭いた。それでも、説教の内容は立派だった。
嘉隆帝も、ただの阮福暎だった頃、時折ミサに参加したらしい。それでも、最後までキリスト教に改宗することはなかった。やがて大南の皇帝になる男として、西洋からもたらされた宗教を警戒していたのだろうか。
ミサは祈りで締めくくられた。それぞれの仕事に皆が解散した後、訓は教会の裏の集団墓地へと足を運ぶ。生い茂った木の葉が日を遮り、死者の家族が心を込めて切り出した石や木の十字架に永遠の陰を落としている。不信心な子どもが肝試しに来ては、幽霊が出ると騒いで司祭に叱られる場所でもある。
「先に来ていたか」
シダをかき分け、萬呂と高文の両司祭が現れた。
「ひとまず、座りなさい」
訓は切り株に腰を下ろした。司祭たちは立ったままだ。
「時間がないから、早速本題に入ろうか。訓、聖歌隊の子どもたちはどこに消えた?」
訓は思わず目を逸らした。
「今朝から__いや、昨夜からあの子らの姿がどこにもない。全滅するほどの怪我はしていなかったはずだが……」
高文が眉をひそめた。萬呂は慌てて咳払いする。
「いや、今のは無神経だった、失礼。だが、八人もの子どもが姿を消したとなると非常に心配だ。だから、お前なら何か知っているだろうと思ってな」
高文は一言も発さない。だが、にこやかな瞳の奥から訓の表情をじっと観察している。
「気がかりな点が一つ。莫随龍ら華人商人の一団も、やはり昨夜出発したそうだ。もし子どもたちが奴らにかどわかされたのなら、我々は断固としてあの子らを取り戻さなければ」
「……その必要はありません」
訓は呻いた。
「私が聖歌隊を逃がしました。華僑に同行させてもらえるよう頼んで……。この反乱は子どもには危険すぎます」
秀が殺されるまで、英路が死んでも気づかなかった。愚かな自分を呪いながら、訓は白状した。
「社にいた非信徒の子どもたちのほとんどは、親と共に嘉定の方へ避難したでしょう。秀たちも、もっと早く戦いから遠ざけるべきでした」
司祭が大きな溜息をついた。
「訓……もう何度目だ」
「はい?」
「一体何度、お前一人が勝手な判断をして、我々の誰にも相談せずに、大事なことを決めた? あの子らの活躍を頼りにしている兵士や支援部隊が困るとは考えなかったか。我々がお前と同じように子どもたちを案じているとは思わなかったか」
訓は口をつぐんだ。反論しても仕方が無い。かといって、素直に非を認めるのも癪だった。
「訓、お前は身勝手な行動が多すぎる。この間無断で嘉定に行ったことも、まだ忘れてはいないぞ。他のカテキスタたちにどう申し開きをする?」
「どうもしません。私は自分のすべきことをするだけです」
萬呂司祭は少しの間黙った。それから、ゆっくりと、
「本来なら、命令無視で聖職剥奪でもおかしくはない素行だな。……そうできない理由は分かっているな?」
その瞬間、どうしようもなく腹が立った。
「……はい」
厄介な子どもに言い含めるようにして、萬呂司祭はゆっくりと口を動かす。
「偉大なるピニョー猊下の遺児だからこそ、辛うじてお前を置いてやっているのだ。そうでなかったら……」
高文が首を横に振り、司祭の次の言葉を封じた。
訓が父親の話を嫌っていることは、萬呂も高文もよく知っている。
「お父上の名に恥じない行いをしなさい。とんだ面汚しだと後ろ指をさされたくはないだろう?」
人の話し声が風にのって聞こえた。駄目押しのように司祭がぐっと顔を近づけて囁いた。
「ピニョー猊下は、今のお前を見てさぞがっかりしていることだろう」
最後まで口を開くことのなかった高文が、乾いた額を押さえ、やれやれと溜息をついた。




