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10(禁教令)

少し前、三人の生徒たちを置いて訓が教会に入ると、マルシャンがなぜか睨んでいた。

 視線が合うと、手招きして訓を呼び寄せる。

「いかがしました?」

 訓が素直に側に寄ると、マルシャンはその彫りの深い顔を必要以上にぐっと近づけた。思わず半歩退がる。するとまた彼は足を踏み出した。

「君は聞いたか?」

「な、何をです」

「皇帝が、禁教令を出すつもりだと」

「誰がそんな話を?」

 マルシャンの視線の先には、同僚の司祭がいた。訓と目を合わせるのを露骨に避けながら、彼は隣の老司祭に耳打ちした。

 ここ大南で、キリスト教が禁じられる。

 そんな噂が流布し出したのは、いつ頃からだろうか。

 極東の島国での悲劇のように、多くの信徒が迫害されるとか、司祭の入国自体が不可能になるとか。布教聖省の方針が大きく転換し、この地域での宣教が取りやめになるとか。ムスリムの軍団が西から押し寄せてきて、大南をあっという間に征服してしまうだとか。実に様々な悪い予想が今までに流れてきた。

 子どもの頃は、全てを真に受けてかなり熱心に祈っていた。いつから必ず来る官憲の魔の手を恐れ、同年代の子どもたちと他愛のない隠れ家を作ったこともある。

 迫害の歴史は、学校でかならず聞かされる。

 遥か遠いローマで、初めの使徒が酷い死に方をしたこと。悪い皇帝に陥れられ、猛獣に生きたまま噛み裂かれた哀れな信徒たち。野蛮人に八つ裂きにされた宣教師。宣教地を追放され、惨めに戻ってきたイエズス会士。 

 悲劇ばかりを繰り返し聞くのは苦痛だった。だって、自分がもしそんな局面に置かれたら、どうしたらいい? 子どもだった時も、そして今だって、自信を持って私は喜んで殉教しますなどと言えない。死ぬのは怖い。拷問されるのはもっと怖い。かと言って、キリスト教を棄ててまで生きながらえたくもない。

 とにかく、今ある生活を脅かされるのがたまらなく恐ろしく感じたのだ。

 皆も同じだ。キリスト教迫害の噂が広まると、決まって一人二人の棄教者が出る。体制に背いてまで神を信じていられないということだ。精神が弱いと非難するのは容易だが、しかし……。

 狼が羊を襲いに来たと嘘をつく牧童の如く、司祭は頻繁に禁教令の兆しを警告する。しかし、現実になったことは未だにない。今回も同じだと訓は話を聞く前に判断した。

「では、食糧の確保と避難経路の確認が必要でしょうね」

 平坦な声で言うと、マルシャンは煩わしげに首を振った。

「守りに入るだけでは意味がない。分からないのか? 日本の悲劇が繰り返されるかもしれんのだ」

司祭たちは彼の叱責にうつむいた。ただでさえ西洋人には弱い。

 教会の外で信徒たちがざわめいている。マルシャンはまだ興奮しきったまま彼らの前に出ていった。司祭たちが慌てて追いかけ、マルシャンの言葉を通訳した。

「明命帝は儒教者だ。我らカトリック教徒を憎悪している。彼の願望を都で聞いたぞ。キリスト教徒をこの国から一人残らず殲滅したいのだ。そんな男が支配する地で、食糧や避難が何の役に立つ?」

 マルシャンは演説でもするように胸を張り、通りの良い声を響かせた。ミゲルたちも興味津々で彼を見つめている。

「神は自ら助ける者を助く。迫害者と戦うのだ。この手で、神を守るのだ! 我々には、戦う大義も武器もある」

 誰かが息を呑んだ音がした。

 もう言いたいことは全て言ったと、マルシャンは満足気に司祭たちを見渡した。端でぼんやりしている訓に目を止めて、彼はわずかに片頬を歪め舌打ちをした。アドラン司教の息子の癖に意気地がない、そう思われている気がした。

 マルシャンは短慮だ。とても口には出せないが。何度目かの禁教令の噂(あくまで、噂に過ぎないのに!)だけで皇帝に背こうとは恐れ入る。フランスではそう簡単に民が反乱を起こすのか?

 年かさの大南人司祭が、穏やかな声で諭した。

「猊下。今はまだ、報を待ちましょう。皇帝陛下がお心を変えられるかもしれません」

 マルシャンは頷く。まだ肩を怒らせたまま、茅葺きの集会堂に向かって歩いていく。

 司祭たちから離れた所で、子どもたちが囁き合う。

「何を言ってたの?」

 外国語に秀でたミゲルに、アンヌとセシリアがこっそり聞いた。

「そうだなあ、武器はあるから皆で戦おうって」

「誰と? クメール人?」

「ううん、えっと……皇帝、陛下だって」

 たまりかねて訓は割り込んだ。

「お前たち、明に挨拶しなくていいのか?」 

 アンヌがはっとした。

 明がこのクレティアンテを出発するのは今日だ。マルシャンが去った後、信徒たちが大勢彼の周りに集まって別れを惜しんでいた。優しく信心深い明は誰からも好かれている。

「でも先生、私たち戦をするの?」

「心配するな。そんなことはありえないよ」

 アンヌのうさぎのように柔らかい顔立ちが笑みを取り戻す。セシリアがアンヌに抱きついた。

「明先生のところに行こうよ。誰かさんに独占される前に」

「う、うん」

 明の周りが落ち着いた頃合いを見計らって、訓と生徒たちは近づいた。明にまとわりつくジャンヌが憎たらしく舌を出したが、明は笑って彼女を制した。セシリアがジャンヌの足を引っかけて転ばせた。

「こら、セシリア!」

 セシリアはアンヌに片目をつむり、掴みかかるジャンヌに応戦する。明の笑みが苦笑に変わった。

 アンヌはいそいそと明の前に進み出る。ミゲルも彼女に続いた。

「あの、先生……今までありがとうございました……」

「こちらこそ、アンヌ。いつも熱心に授業を聴いてくれたよね」

「先生……の、授業がとても好きでした!」

 明は子どものように無邪気に破顔した。

「すごく嬉しいな。そう言ってもらえたこと、この先ずっと忘れないよ」

 アンヌは顔をもう真っ赤にして、うつむいた。もう十分だろうとミゲルが口を開く。

「僕も、明先生の授業が好きです。フランスに行っても、頑張って下さい」

「ありがとう」

 訓と明の目が合った。

「まずは嘉定に戻るんだったな?」

 明は頷く。

「ええ、両親に会ってきます。そのために二、三日の猶予をいただけました」

「くれぐれも気をつけて。その……獣や熱毒にやられないように」

 馬鹿なことを言った。嘉定で育った明なら当然分かっていることばかり。それでも、明は大きく頷いてくれた。

 ジャンヌを追い払ったセシリアが戻ってきて、やはり明に挨拶をした。

 ふと横を向くと、林の奥に人影が見えた。目を凝らすとそれはふいといなくなった。分厚い衣の裾が揺れた気がした。なんとなく胸がざわつく。

 この社では、典礼の時を除いて聖職も信徒も上着など着ない。暑苦しいからだ。丈の長い衣を毎日まとっていては、熱にやられてしまうし、身軽に動けない。

 訓は明の側をそっと離れ、林の中に分け入った。生い茂った藪や無節操に伸びた蔦が視界を遮る。それでも、慌てたように身を低くして逃げていく者の気配は隠しきれていなかった。

「誰だ!」

 訓は大声で呼びかけ、開けた道から後を追った。セシリアが何事か叫び、追いかけてくる。


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