フッた男に恋する女 フラれた女に恋する男
「ごめんなさい。私、好きな人がいるの」
真白日菜子はそう言って、告白してきた男子高校生の気持ちを無碍にした。
高校三年生の時の話だ。卒業間近の三月、一学年下の男子――黒木紀から告られたのである。
彼とは同じ『冒険部』という部活をやっていて、それなりに仲が良かった。
しかし日菜子にはすでに思いを寄せている人物がいた。だから、断った。
「そ、そんな」
絶望に近い表情を浮かべて、紀がガックリと俯く。
彼が傷つくであろうことは最初からわかっていた。でも、こうする他なかったのだと日菜子は自分に言い訳する。
「私以外にだって素敵な女性はいるわ。だから……」
だが、紀はそのまま何も言わずに走り去っていってしまった。
明日にでもしっかり謝ろう。そう思ったが紀は翌日から部活に姿を見せなくなり、まもなく退部。
なんというか、どうしようもない罪悪感を胸に抱えたまま、日菜子は高校を卒業することとなったのだ。
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日菜子は大学へ行き、見事に恋を実らせた。
彼氏とはよく気が合ったし、いつまでも関係を続けていられると思った。しかし彼氏の両親のことですれ違い、結局円満にお別れ。
悔しくて仕方なかったが、その時はどうすることもできなかった。
――そして数年後、すっかり大人になった日菜子は社会人としてとあるオフィスへ勤めることになる。
仕事はそつなくこなせたし、日菜子の人生は順風満帆だった。一つ問題があることといえば、あれ以来全く恋の気配がないことくらいか。
でも日菜子はそのことを全然気にしていなかった。
そんなある春のこと。
一人の新人社員が彼女の働く部署へやってきた。その顔を見た日菜子は、唖然となる。
だって彼が、高校時代にフッた黒木紀だったからだ。
「紀……?」
思わずそう声を漏らした日菜子に、相手の方も目を見開いた。「……あ」
どうやら彼は、意図して日菜子のいるこの会社へ来たのではないらしい。完全に偶然という感じだった。
彼ともう少し言葉を交わそうかと思ったが、やめた。周りに他の社員もいたし、第一に過去のことを掘り返したくなかったから。
同じ部署で二人は、互いへ向けてチラチラと視線を走らせていた。たまに目が合っては顔を伏せ、目が合っては顔を伏せ。
なんとも気まずい雰囲気で数日が過ぎた。
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紀は、意外にも頼り甲斐のある男になっていた。
高校時代はちょっとイケメン気味のチャラ男、という印象だったのが、すっかり働き者になっていたのだ。
仕事を教えればちゃんとやったし、周りとの付き合いもいい。声をかけることは両者ともできなかったが、何かにつけ彼の視線を感じる。
……彼は今、私のことをどう思っているのだろうか。
日菜子は仕事中、そんなことを考えていた。
女子に人気がありチヤホヤされている紀。そんな彼の姿を見て、日菜子はなんだか変な気持ちになったのだ。
これが『意識している』というやつなのだろう。正直癪だが、紀に惹かれてしまった。
嫉妬? それもあるかも知れない。でも長らく独り身の日菜子にとって、かつての知り合いであり立派な男になった紀に興味がないわけがなかった。
「何考えてるのよ。あいつは歳下だし、それにフッたのは私じゃないの」
真剣に告白してきた彼を、裏切ったのだ。今更近寄るなんてこと、できない。
「これはただの勘違いよ。女に囲まれてる紀を、ちょっと羨ましく思っただけ。そう。そうなのよ。だから忘れなさい」
自分にそう言い聞かせた日菜子は、紀の方をまたチラリと見やった。彼は仕事に打ち込んでおり、今はこちらを見ていない。
誰にともなく大きく頷いて、彼女は自分の心に蓋をすることに決めた。
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高校卒業後、数年間適当な大学へ通ってようやく受かったのが、その小さな会社だった。
初めてオフィスへやってきた時、黒木紀は驚愕することとなる。
「……あ」
それは、かつて高校生の時に同じ部活の先輩だった真白日菜子だった。
彼女は紀の憧れだった。彼女に恋していた。胸が焼け焦げるほどの、熱い恋情を抱いていた。
しかし拒絶された。「好きな人がいるから」なんてきっと嘘に決まっている。
彼女は俺が嫌いだったんだと大きく落ち込んだ。だから紀は後輩たちのことをそっちのけで部活を辞めた。
でも一年後、彼氏と並んで歩く真白先輩を見てしまった。
肩を抱き合って、楽しそうに。
ああ、本当だったのか。
初めて彼女の「好きな人がいるから」というのが言い訳ではなかったと知った紀は、またもショックを受けた。
それからというもの紀は彼女のことを忘れようとした。しかし、先輩への恋心はいつまでも色褪せることはなかった……。
そして、再会してしまった。
一体どうしたらいいのだろう。気まず過ぎて喋れないし、向こうも何も話しかけてこない。
忘れられているわけではないことだけはわかった。が、何を話したらいいか。
そう悩んでいたある日、紀は衝撃の場面を目にしてしまった。
真白日菜子の彼氏が、別の女と一緒にいた。とても楽しそうに。
その瞬間、紀の胸の中で何かが音を立てて弾ける。
それは怒りの炎だった。
もう躊躇っている場合ではない。そう思い、皆のいる社員食堂で突撃することに決めたのだ。
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「真白先輩、どうしても話したいことがあるんすけど」
社員食堂でいると、突然紀が話しかけてきた。
何だろう。日菜子は胸がドキドキした。
「な、何? 私ちょっと今忙しいんだけど……」
「いいから聞いてくれ! 先輩の男が、女と並んでるのを見たんだ!」
日菜子はポカンとなった。大きな口を開けて、ポカンと。
だらしないと思い慌てて口を閉じる。そしてゆっくり頭の中で状況を整理し、やっと理解した。
「ああ。あれは元カレなのよ。今は別れたわ」
てっきり今も付き合っていると思っていた彼が、浮気していると勘違いしたのだろう。
紀は「ああ」と言って、顔を赤らめながら頷く。大勢が見ている中でこんなことを言い出すなんて、馬鹿みたい。
でも彼が、日菜子のことを心配してくれているんだとわかった。でもだからと言って、何が変わるだろうか? いいや何も変わらない。
彼女は逃げるようにして、紀の傍から立ち去った。
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「真白先輩、独り身なのかよ……」
紀は顔から火が出そうな思いだった。勝手に勘違いして騒いでしまうなんて、なんとも情けないことだ。
でも、彼女がフリーであることはわかった。
もしやもう一度告白したら受け入れてくれるのではないだろうか? そんなことを思ったが、それはつけこむようで悪い気がした。その上、もしも今度も断られたらと考えると怖くて怖くて。
そんな時、紀の脳裏にふとある考えがよぎった。そうだ、もうすぐ真白先輩の誕生日ではなかったろうか?
日付を見ると、彼女の誕生日は明後日に迫っていた。
「誕生祝いか」
単に彼女の誕生日を祝いたい、そう思った。
大の大人が誕生日なんてくだらないかも知れないが、本心ではきっと彼女と二人きりになる機会が欲しかったのだろう。
真白先輩に負担にならない程度のプチイベントを用意したい。
そこで紀は、来たるべく明後日のために急ピッチで準備を開始した。
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「買い物って……、どこへ?」
社員食堂での接触から翌日。
またもや紀が変なことを話しかけてきたので、日菜子はドギマギしてしまった。
もしかしてこれは、デートのお誘い?
「真白先輩さ。確か明日が誕生日だったろ? だから一緒にケーキでもどうかと思って……」
相手の顔が赤い。が、恐らくこちらもかなり赤面しているに違いなかった。
高校時代、誕生日を祝ってもらったことはない。部活に入っていたのが一年だけというのもあったが……。
しかし何故だか嫌な気はしなかった。それにちょうど明日は休みだ。
「わかった。じゃあ明日ね」
そう答えると、紀はらしくないほど歓喜した。「やったぜぇ!」まるでほしいおもちゃを買ってもらえた男の子のようだと日菜子は思った。
こうして誕生日のお出かけが決定したのだ。
――翌朝。
軽い荷物を片手に駅へ向かった日菜子は、先に来ていたらしい紀を見つけて声をかけた。
「おはよう。ずいぶんと早いのね」
「昔からの習慣で。真白先輩、洋服似合ってるっすね」
紀は日菜子のワンピースを指差しながら、そんなことを言った。
日菜子は照れ隠しに笑い、話題を逸らす。
「で、今日はどこに行くの?」
「デパートっすよ。とりあえず電車に乗ろうぜ」
こういう雑なとこ、昔から変わってないなあ。
そんなことを思いつつ、日菜子は紀の後に続いて電車に乗り込んだ。
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お買い物はものすごく楽しかった。
デパートで色々と買い物に付き合ってもらってしまった。
小さなケーキなんかも一緒に食べたし、男と並んで歩くなんてどれほどぶりだろうかと思ってしまう。まるで恋人同士みたいだった。
「何言ってるの。私の方からフッたのよ?」
今更好きだなんて卑怯すぎる。
紀といる時間は甘美なものだった。でも同時に胸を締め付ける思いがある。
だが、やがて買い物は終わってしまった。
もうそろそろ帰らなくてはならない。なんだか寂しいような気持ちの日菜子に、紀は言った。
「最後にちょっと料理屋にでも食いに行こうぜ。腹減ってません?」
「確かにちょうどお腹空いたかも。行きましょうか」
正直、先ほどケーキを食べたばかりだからそこまで空腹ではないのだ。
しかし、数分でも数十分でも数時間でも、一緒に過ごす時間を伸ばしたい。そう思う自分が、日菜子は嫌で嫌で仕方なかった。
デパートのすぐ近くの中華料理店へ足を運ぶ。紀いわく、ここは美味しいと有名なのだとか。
「何がいいっすか?」
「じゃあ餃子で」
餃子を注文し、しばらく待つ。でも紀と何を話すでもなくまごまごしていると、突然背後から声が。
「……あ、あ、あのぅ。く、黒木先輩と真白先輩……じゃ、ないですか?」
おどおどしたその弱々しい声音に、どこか聞き覚えがあった。
振り返り、日菜子は思わず「あっ」となった。背後に立つ女性は高校時代、同じ冒険部だった後輩の松谷佳音であった。
ざっと五年ぶり以上だろうか。思いがけない再会に、日菜子は驚くしかない。ましてや紀と二人きりのところを見られるなんて……。
「おっ、松谷。久々じゃねえか」
彼女に気づいた紀が声を上げた。それと同時に、もう一人の人物が顔を覗かせる。
「佳音さん、どうした……。あ、日菜子先輩に紀先輩」
小栗川功。それが彼の名前だ。
彼も同じく冒険部の後輩。佳音の彼氏になったのは知っていたが、今も関係が続いているなんて羨ましい。
「せっかく会えたんだしちょっと話そうぜ」
紀の意見に満場一致で賛成、日菜子は後輩カップルと一緒に食事をすることになった。
積もる話はたくさんある。
日菜子が卒業してから冒険部はどうなったかとか、二人のその後はうまくいってるのかとか、どんな仕事についているのかなどなど。
運ばれてきた餃子を食べながら、四人は話に花を咲かせた。
功はどうやら冒険部の経験から冒険家になってしまったらしい。佳音もそれに乗じるようにして女ながらにその道を選んだのだとか。
懐かしい冒険部での思い出が次々湧き上がってきた。一緒にサバイバル服を作ったこと、学校近くの林でキャンプをしたこと。
今まで日菜子の心を縛っていた緊張やら躊躇いといったものがすっかりほぐれ、食べ終わる頃には気分が楽になっていた。
名残惜しいがそのまま後輩カップルと別れ、日菜子たちは電車に乗って帰ることになった。
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小栗川と松谷に会えたのは意外だった。
マジで冒険家になっている彼らを見てすごいなあと思うと同時に、ラブラブな二人に嫉妬したのは内緒だ。
――俺もあいつらみたいに真白先輩と。
そんな気持ちが抑え切れない。このまま我慢するなんて絶対にできなかった。
でもどうしたらいいのだろう? 考えているうちに、電車は駅へ到着してしまった。
どうしよう。紀の頭の中で声が響く。伝えるなら今しかない、この機会しかない。
なのにダメだ、勇気が出ない。あの臆病な松谷ですら告れたのに、俺には無理なのか? 例え一度失敗したとしても、それで諦めちまうのか?
叱責して、自分を奮い立たせる。
駅のホームを離れ、前のベンチまでやってきた。「じゃあこのあたりでそろそろ」と言って、真白先輩が別れの言葉を言おうとした。
言うなら今、この時だ。
「ま、待ってくれ。先輩、一つだけどうしても言いたいことがあるんだ」
「何?」眉をひそめ、こちらを振り返る彼女の姿は美しい。思わず頬が熱くなった。
唇が震え、掠れた息が漏れる。
何を怖がってるんだ。言え、言え、言うんだ。それでも男か。男なら、口を開けろ。
「あ、あの。あの……、俺は先輩が」
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電車の時から、少しだけ様子がおかしいとは思っていた。
でも、そんなことは全然気にしなくて。だから、彼の言葉は日菜子にとって青天の霹靂だった。
「ま、待ってくれ。先輩、一つだけどうしても言いたいことがあるんだ」
「何?」
「あ、あの。あの……、俺は先輩が、好きなんだっ!」
頭を下げ、勢いよく言う紀。
日菜子の脳裏に、高校三年生の三月のあの光景が蘇った。屋上に呼び出され、頭を下げられて「好きだ」と言われた。そして日菜子はそれを、断った。
デジャブとも言えるこの状況。だが、前とは条件が違った。
日菜子の胸はこんなにも熱い。まるで燃え盛る炎のように、熱いのだ。
本当に彼はまだ私を好きでいてくれているのだろうか? たとえそうだとしても、一度彼を捨てた私に受け入れる権利があるのか?
そんな考えが、ぐるぐると頭の中を駆け巡った。
しかし日菜子の口は勝手に、言葉を紡いでいた。
「私も。私もよ。紀……、私ね」
言ってしまった。
「あなたを愛してるの」
自分でその事実に気づくまでには、しばらく時間がかかった。
呆然としている紀の顔は、とても見物だったと付け足しておこう。
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この後、互いに思いをぶつけ合った二人は愛を重ねていくことになる。
かつて、フッた男に恋する女、フラれた女に恋する男。
しかし今はそんなことは微塵も気にならず、オフィスの一室で毎日のようにラブラブな視線を交わしているのである。