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忍~the Blade With the Heart~  作者: 独斗咲夜
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参之章【巨人と魔女】

~あらすじ~


休戦の泉にて凶悪な水棲馬男ナックルビーを倒したジンとニィナは、次なる有害な妖を退治するために新たな目的地、人喰い魔女がいるという山岳地帯に向けて出立した。その道中で大雨に巻き込まれたジンたちは、雨宿りをした洞内の中で独眼巨人サイクロプスのドロゴと出会う。人懐っこいドロゴに気に入られたジンとニィナは、そのまま彼の住んでいる巨人族の村に招かれることになったのだが―――

 



 数万年前に、突然空からやってきた巨大な飛来物、黄金の傘(ゴールデンアンブレラ)

 本物の空を覆い尽くしたその傘は、傘でありながらも時おり大地に雨を降らす。

 この世界に“(アヤカシ)”を生み出したものとは異なる、ただただ冷たいだけの偽物の雫を―――




「……雨、やみそうにないね、ジン。」

「……あぁ。むしろ強くなっているみたいだ。木の葉っぱ程度じゃ気休めにならないぐらいにな。」

 大きな葉を持つ木の陰に身を潜めながら、ニィナ・スフィンクスとジン・アラタカはそれぞれそう呟きつつ薄暗い空を見上げた。いつもならば朝昼問わず姿がよく見える黄金の傘も、今では偽物の雨雲に隠れてほとんど見えなくなっている。その雨雲からは絶えずザァザァと雨が降っており、二人が今いる森の中を余すことなく濡らしていた。小動物たちは雨宿りのために木々の間などを移動し、小鳥たちも歌うのをやめて巣穴の中に隠れていた。ニィナとジンの二人も同じく雨宿り中だったが、気づけば周りの地面はその大部分が雨で濡れてぬかるんでいた。二人が隠れている場所も、真上にある葉っぱを貫通してほとんどが雨に浸されていた。なんならジンたちの体そのものも少しだけ濡れている。これ以上この木の下で雨をやり過ごしても、あまり意味は無さそうだった。

 元より雨に濡れるのが苦手なニィナは、溜まった水を跳ね除けるためにブルブルと体を揺らした。その動きは犬のそれに似ていたため、大量の水飛沫が彼女のすぐ隣に立っていたジンの体にも付着した。一瞬眉をひそめたジンは小さく息を吐くと、不快そうに頭の猫耳をピクピクと動かすニィナの体をおもむろにだき抱えた。ジンによる不意打ちの抱っこに驚いたニィナが短く悲鳴をあげる。

「きゃっ!?じ、ジン?あれ……ジン、なんか怒ってる?」

「……気のせいだ。それより、そろそろ移動するぞ。より雨を凌げられる場所を探す。」

 ジンは淡々とそう答えると、両腕のない(・・・・・)ニィナが落ちてしまわないように、すっかり濡れてしまった彼女の体をギュッと抱きしめた。最初は雨のせいで寒さを感じていたニィナも、ジンによる柔らかな手の温もりを感じてホッと安堵の息を吐いたのだった。



 猫妖精(ケット・シー)の少女、ニィナには両腕がない。実の姉に騙されたことで、凶暴な妖に両腕を食われてしまったのだ。

 ジンは、その凶暴な妖に襲われたニィナを助けた救世主だった。そして、妖討伐隊(あやかしとうばつたい)と呼ばれる隊の元隊員として、今は世界各地にいる有害な妖の退治を行っている。そして同時に、今は両腕を失ったニィナの“新しい腕”として彼女と共に行動していた。ニィナ本人が元いた国に帰らないと主張した結果、ジンが自らの意思で彼女を連れていくことになったのである。

 そんな二人はつい昨日、休戦の泉と呼ばれる、豊かな自然に満たされた神聖な場所を訪れていた。そこに納められていた宝具を奪った妖、水棲馬男(ナックラビー)を退治するためだ。結果的にジンが大怪我を負ってしまったものの、どうにかナックラビーを倒すことには成功した。のちに宝具を取り返して泉を立ち去ったジンたちは、また新たな妖を退治するために、この大雨の中で次なる目的地へと向かっていたのだった。



 予め集めていた情報から、ジンが定めた次の目的地―――それは、とある山奥にいると言われている人喰い魔女の住む屋敷だった。

 噂によると、その屋敷にはいわゆる“魔女”と呼ばれる者が住んでいて、屋敷を訪れた人間を容赦なく食い殺しているというのだ。おまけに、件の屋敷に招かれた人間の中で無事に外の世界に戻ってきた者は、今の時点で一人いないらしい。つまりその屋敷は、一度入ったら二度と出られない呪われた建物でもあったのだ。

 しかし、まともな生存者がいないゆえか、前述の話はあくまで全て“噂”程度のものだった。情報こそ山のようにあれども、そのいずれにもこれといった確証や、裏付けのための証拠などがほとんど無かったのだ。おまけに、ジンが手に入れた情報自体もかなり曖昧で、魔女と呼ばれている存在の詳細についても不明だった。それがただの有害な妖なのか、はたまた魔法を操る人間なのかすら分からなかったのだ。そもそも、例の屋敷自体が件の山奥にあるのかどうかすらも正直あやしかった。

 しかし、結局何事も“百聞は一見にしかず”だ。まずは屋敷そのものの有無を、己の目で見て確認する必要があった。幸いなことに、その屋敷があるという山の大体の位置はすでに判明している。ほとんどが土と岩で構成された山岳地帯、その中にたくさんある山のうちのどれかだ。

 数多の洞窟が存在しているというその地域には、いわゆる“巨人族”と称される妖たちが住んでいると言われていた。巨人族はみなが優に10メートルを超えた巨体を持っており、その巨大さゆえに洞窟を住処としている妖である。人間に対して友好的な種もいれば、反対に人間と敵対している種族もいるらしい。どちらにせよ、例の人喰い魔女に関する情報を集める上で、周辺に住んでいる巨人族との接触はのちのち必要になるだろう。とはいえ、複数ある巨人族の村を細かく一つ一つを訪れる暇はない。どんな種類であれ、有害な妖は可能な限り手早く対処するに限るのだから。

 そんなことを頭の中で考えながら、ジンはなかなか雨のやまない森の中をひたすら走り続けた。寒そうに体を震わせつつ、こちらに身を寄せるニィナの体をギュッと抱きしめながら。

 前述の通りニィナは猫妖精なので、そもそも雨に濡れること自体が苦手だった。それにニィナは王家出身のお姫様なので、他の猫妖精たちよりもずっと雨への耐性が低かった。そのせいで寒さも余計に感じやすくなっており、今もジンの腕の中で少しだけぐったりとしていた。黄金の傘が注いでくる偽物の雨は元からとても冷たい。ジンは仕事柄濡れるのに慣れていたものの、免疫力の低いニィナが大人のジンよりも先に風邪を引いてしまうのはもはや時間の問題だった。

 ニィナの体調の悪化を危惧したジンは、一旦立ち止まって周囲をキョロキョロと見渡した。そして、たまたま近くにあった大きな洞穴の中へと素早く逃げ込んだ。岩と大木によって構成されたその洞穴は、さっきまで休んでいた木の下と違ってしっかり雨を凌ぐことが出来た。大木の根で固定された、頑丈な岩の屋根があるお陰だ。明かりが無いので洞穴の奥はほぼ真っ暗だが、単にしばらく休む上では丁度いい場所となるだろう。

 ようやくまともな雨宿りが出来ると考えたジンは、それまで大事に抱えていたニィナの体をそっと地面に下ろした。ニィナは寒そうにカタカタと体を震わせていたが、ジンに降ろされた瞬間くしゅんっと盛大なくしゃみをした。ここが洞穴ゆえに、その声はしばらくぐわんぐわんと奥に向けて反響し続けた。すかさずニィナの傍らにしゃがんだジンが、腰袋から乾いた小さい布を取り出して、彼女の濡れた髪の毛を猫耳ごとガシガシと拭き始める。

「わ、わわ……!ジン、ニィナの耳、そんなに強く押さないで!ニィナ、耳を乱暴に触られるの苦手なの!」

「あぁ、すまない。風邪を引いたらまずいから、早めに乾かした方がいいと思って―――」

『なぁ……そこに、誰かいるのか?』

 少し痛そうに眉をひそめたニィナに対して、ジンが申し訳無さそうに頭を下げた瞬間、洞穴の奥から急に誰かの声が聞こえてきた。多少の訛りがあれども、それはごく普通の人語だった。とはいえ、こんなところに自分たち以外に人がいるとは夢にも思わず、ジンとニィナはほぼ同時に驚いてギョッと目を丸くした。ジンがすかさずニィナを抱き寄せつつ、万が一に備えて懐から素早くクナイを取り出す。

「貴様、何者だ!?そこで何をしている!?答えろ!」

『あ、あぁ!そんなに怖がらないでくれよ。ちょっと待ってな。オイラの方から、そっちに行くから……』

 警戒して身構えるジンに対して、先ほどの声の主は半ば焦った様子で慌ててそう答えた。次第にズリズリと、大きな何かを引きずるような音が洞穴の奥から聞こえるようになる。荷物か何かでも運んでいるのだろうか。まだ姿がよく見えないゆえに、今の時点では相手が人間か妖かの判断がつけられない。そのため、ジンはいつでも洞穴から撤退出来るように、すっかり怯えきったニィナを抱えながら慎重にジリジリと後退した。

 だが、そんなジンの歩みは数分も経たないうちにピタッと停止した。例の何者かが、ゆっくりとジンたちの前に姿を現したからだ。雨が降っている外からの僅かな光のお陰で、ジンだけでなくニィナの目もようやく何者かの姿を捉えた。そして、ニィナは呆気に取られた様子で口をあんぐりと開けて固まってしまった。

 というのも―――彼らの目の前にいたのは、異様なほど背の高い巨人(・・)だったのだ。

 目視で確認しただけでも、その身長は容易に5メートルを超えている。元から大きめな洞穴ではあるのだが、巨人は膝を曲げた状態で少し窮屈そうに頭を下げながら座っていた。まっすぐ座ると頭が天井にぶつかってしまうからだろう。先ほど聞こえたズリズリと言う音は、この巨人が座った体勢で移動していたために起きたものらしかった。おまけに巨人の顔にある目は、ジンやニィナと違ってひとつしか無かった。以前ジンが戦った水棲馬男と同じ一つ目だったのだ。頭の片隅でナックラビーのことを思い出したニィナが、ひどく圧巻された様子で断続的にポツポツと呟く。

「お、大っきい……めちゃくちゃおっきい……!お目目もひとつしかない……!でも、あのお馬さんみたいに四本足じゃない……?」

「その特徴的な巨体と顔つき……お前、まさか独眼巨人、さいくろぷすか?」

 巨人の見た目に心当たりがあったのか、しばらく黙り込んでいたジンは目の前にいる巨人に向けておもむろにそう尋ねた。すると、例の巨人は途端にパアッと顔を綻ばせて、ジンたちの元ににじり寄りながらどこか嬉しそうに言葉を紡いだ。

「あれ?人間さん、オイラのこと知ってるの?わぁ、そんな人間さんに会ったの、オイラ初めてだぁ……あ!オイラ、ドロゴって言うんだ。人間さんたちのお名前は?」

「あ、あぁ……俺はジン・アラタカ、こっちはにぃな・すふぃんくすだ。」

「は……!に、ニィナです!はじめまして、ドロゴ!」

 独眼巨人(サイクロプス)あらためドロゴからの唐突な自己紹介に少し動揺しつつも、ジンとニィナがすぐにそれぞれ己の名前を名乗る。二人の名前を知ったドロゴは、ぱちぱちと小さく拍手をしてからジンたちの近くに寄り添うように座り直した。元からかなりの巨体ゆえに、洞穴の中で少し動くだけでも地面がズシンと揺れ動く。

 しかし、先ほどからの声音といい振る舞い方といい、こちらに対しての敵意は全く無いようだ。そう考えたジンは素早くクナイを仕舞うと、それまで庇うように抱えていたニィナの体をそっと地面に下ろした。ニィナもドロゴが見るからに優しそうな巨人だったためか、完全に警戒心を解いた様子で彼のすぐ隣にまで近づいた。それに気づいたドロゴはニィナに当たらぬように己の手を退かすと、自身の足元にいる彼女の小さな体を見下ろしながらどこか申し訳無さそうな口調で言った。

「さっきは急に驚かしちゃってごめんなぁ、ニィナちゃん、そしてジンさん。オイラもここでちょっと雨宿りをしてたんだよ……こんな雨の中を歩いてたら、鞄の中の商売道具が全部濡れて錆びちまうからなぁ。」

「ううん、大丈夫だよドロゴ!ニィナたちも、勝手に洞穴の中に入ってごめんね……ところで、しょうばいどうぐってなぁに?」

「……独眼巨人はみな、非常に優れた鍛治技術を持つと聞いている。商売道具というのも、おそらく鍛治()のための道具なんだろう。」

 ニィナが優しくフォローを入れつつドロゴにそう問いかけると、ジンは彼女の頭に先ほどの乾いた布を乗せながら補足するようにそう呟いた。途端にドロゴがもう一度顔を綻ばせて、「その通りだよ!よく知ってるねぇジンさん!」と拍手混じりにジンを褒め称える。それに対して何故かニィナが誇らしげにフフンと鼻を鳴らし、彼女の濡れた髪や体を拭いていたジンは少し反応に困った様子で目を伏せたのだった。


 独眼巨人、サイクロプス。


 その名の通り大きな体と一つしかない目が特徴で、独自の製鉄および鍛治技術を持っている巨人族の一種だ。各部族ごとにそれぞれ縄張(テリトリー)を有しており、体が大きすぎるので大抵は岩山などに出来た洞窟の周辺で暮らしている。前述の鍛治技術を用いて作り出された様々な道具や武器などが、一部の妖だけでなく人間たちに向けて売られることも非常に多い。そのためサイクロプスは――多少の例外はあるものの――猫妖精と同じく、人間に対して友好的であるという少し珍しい妖でもあった。ジンたちと初対面であるドロゴが、初っ端から敵意を向けてこなかったのもそれが一番の理由だろう。

 ちなみにサイクロプスの中には、己の作りだした道具や武器を売って金稼ぎをするために、単独あるいは複数人で世界中を旅している者もいるらしい。先ほどドロゴが商売道具の話をしていたので、彼もおそらくそのうちの一人なのだろう。

 雨水の染みたポンチョを布でパンパンと叩きつつ、すっかり仲良くなった様子のドロゴとニィナをジンが静かに横目で見つめる。

「ねぇドロゴ、さっきジンが言ってた“かじ”ってなぁに?どんなことをするの?」

「えっとね……たとえばオイラの村だと、悪い妖と戦う人間さんのために、重たい鉄製の盾とかを作ってるんだぁ。他の村ではそれ以外にも、投石機(カタパルト)とか大砲とか、とにかく色んな武器を作ってるみたいだよ。あと武器以外にもね、人間さんや妖たちが快適に暮らせるような、便利な道具を作ることもあるんだぁ。」

「へぇ~すごーい!ニィナが暮らしてた国でも、巨人さんの作った道具とか使われてたのかなぁ。もしそうだったら、一度でも良いから見てみたかったなぁ。」

「うーん……ニィナちゃんがどこで暮らしてたのかは知らないけど、きっと使われてると思うだよ!オイラたちサイクロプスの鍛治技術は本当にすごいんだ!文明の発展した人間さんたちだけじゃなくて、たくさんの妖たちにも好かれてるぐらいだからね!」

 ニィナとの会話を経て気分が良くなったのか、ドロゴはひどく上機嫌な様子でそう言いながらおもむろに洞穴の奥に手を伸ばした。その直後、再びズルズルと何かを引きずる音が奥から聞こえてきた。ドロゴの話していた、商売道具が入っている鞄が奥から引き寄せられたのだろう。明かりが少ないので全体図はよく見えないが、引きずった際の音の大きさから察するに、かなり大きくそして重たい鞄であることが窺えた。巨人であるドロゴが持っている鞄なので、まぁ当然と言えば当然の大きさなのだが。

 初めて見た巨人から興味深い話を聞けたことで、ドロゴと同じく上機嫌になったニィナが純粋な好奇心を抱いてキラキラと目を輝かせる。すると、しばらく鞄をゴソゴソと漁っていたドロゴは、不意にポンッと膝を叩いてからニィナたちに言った。

「あぁそうだ!ニィナちゃん、ジンさん……良かったら雨が止んだ後で、二人をオイラの村まで連れてってあげるよ。オイラが小さい頃から住んでる村を、二人にもぜひ紹介したいんだ。村のみんなは人間さんのことが大好きだから、きっとみんなも二人のことを暖かく出迎えてくれるはずだぁよ!」

「え、本当!?わぁあ!ニィナ、巨人さんの村行ってみたーい!他の巨人さんたちにも会ってみたーい!」

「にぃな、そんなにはしゃぐな。服も髪もまだ乾いてないし、下手に走ったりしたらまた転ぶぞ。」

 ドロゴからの唐突ながらも興味深いお誘いを前に、テンションが高まってグルグルと歩き回るニィナをジンがすかさず取り押さえる。ハッと我に返ったニィナはすかさずぷくぅと頬を膨らませたが、ジンは構うことなく彼女の濡れた服を布でポンポンと拭きながら続けて言った。

「それにお前、元の目的を忘れてないか?俺たちは今、この付近の山にいるという人喰い魔女の屋敷を探してるんだぞ。村に向かうこと自体は別に構わないが、あまり長期間の滞在などは推奨しな―――」

「ひ……!ま、魔女……!」

 ジンの口から“魔女”という単語が零れた瞬間、それまでニコニコと笑顔を浮かべていたドロゴが急に表情を引き攣らせた。そして、思い出したくないことを急に思い出してしまったかのように、慌てて頭と膝を抱えてガタガタと震え始めた。何やら強い恐怖を覚えて怯えているようだ。どうしたのと言わんばかりに目を見開いたニィナが、無理やりジンの手を振り払ってすかさずドロゴの傍に駆け寄る。そのままドロゴの膝元でぴょんぴょんと飛び跳ねるニィナを見つめつつ、ジンは訝しげな表情で顎に手を添えながらドロゴの顔をジッと睨んだ。

 思えば例の魔女が住んでいるという屋敷は、サイクロプスたちの住処がある岩山のどこかにあると言われていた。そのため、少なくとも周辺地域で暮らしている巨人族の中に、例の魔女あるいは彼女の住む屋敷について何か知っている者がいるはずだった。しかし、先ほどのドロゴの反応から察するに、彼はその巨人族の中でも特に魔女のことをよく知っているらしい。どこまでも大きな巨人ながらも、魔女と聞いただけでここまで怯えているのだから。

 当初は時間が惜しいという理由で、近隣の村を一つ一つ細かく訪ねるつもりなんてあまりなかった。しかし、ドロゴの様子の変化も気になるので、とりあえずは彼の住む村でひと通り魔女のことについて調べてみよう。もし有益な情報があまり得られなかったら、ニィナを連れてすぐに村を出ればいいだけのことだ。

 頭の中でそう考え直したジンは小さく息を吐くと、心配そうにドロゴの顔を見上げるニィナの隣に素早くしゃがんだ。そして、ニィナが転ばないように彼女の背中を後ろから支えつつドロゴに言った。

「いや、前言撤回だ。俺もにぃなの意見に賛同する。ちょうど、魔女の件についてより詳しい情報を知りたいと思っていたところなんだ。出来れば、お前の知り合いである巨人たちからも話が聞きたい……もちろんだがどろご、お前自身からもな。」

「……!!」

 何かを見透かしたかのようなジンの言葉に対して、それまでずっと無言だったドロゴがハッと目を丸くして息を飲む。相変わらず表情は少しだけ引き攣っていたが、その目にはジンに対する、期待にほど近い感情の色が微かに滲み出ていた。まるで、物知りなジンならば魔女に関して悩みを抱いている自分を救ってくれる、と考えているかのような眼差しだ。ドロゴ自身の過去に何が起きたのかは、流石に今の時点ではまだ少しも分からない。今この場で、萎縮しきった彼から聞き出すのも難しいだろう。だが、更なる情報を得るためには、彼の期待に対して素直に応えた方が良さそうである。

 これはまた面倒なことになりそうだと言わんばかりに、包帯の巻かれた自身の肩をそっと撫でたジンが深く息を吐く。そんなジンとドロゴの顔を交互に見比べながら、ニィナは村に行けることに内心喜びつつも、どことなく神妙になった空気感の中でキョトンと目を丸くした。洞穴の外で降り続けていた冷たい雨は、夜になって静まり返った森の中を大地ごと粛々と濡らしていたのだった。




***




 時は巡って 翌朝―――




「いや~、今日は朝から快晴で助かったなぁ。また雨だったりしたら困るところだっただよ~」

 ドロゴはのんびりとした口調でそう言いながら、雨によって濡れた森の地面を裸足でノシノシと強く踏みしめた。土が多少ぬかるんでいる影響で、巨人であるドロゴの歩いた箇所にはとても大きな足跡がはっきりと残った。ニィナが体を横にしても、十分スペースが余るほどの大きさである。背中に大量の荷物が入った大きな鞄を背負っているので、ドロゴ自身の全体的な重さも元よりずっと増しているのだろう。

 そんな中ニィナは今、これまた大きなドロゴの右手の中にすっぽり包み込まれていた。土で靴が汚れたら大変だというドロゴの考えで、彼がジンの代わりにニィナを運搬しているのだ。対するジンも、珍しくドロゴの左手の中で大人しく座り込んでいた。しかし、その目は心做しかあまり落ち着きがなく、普段はピシッとまっすぐ伸びている体も少し強ばっていた。緊張していながらも、必死に冷静さを保っているかのような振る舞い方だ。しかし、ドロゴは陽気に鼻歌を歌っており、ニィナも高所からの良い眺めを前にとても楽しそうにはしゃいでいた。そのためジンの様子が少しおかしいことには、今の時点で両者共々全く気づいていないようだった。

 ニィナのようにリラックスした状態で掌に座れないジンが、少し歯切れの悪い口調でドロゴに向けて呟く。

「な、なぁどろご。にぃなを運ぶのはまだ良いんだが……俺まで手の中に抱えて運ぶ必要はないんだぞ?せめて、お前の肩か頭の上に乗せてくれないか?」

「え!?何を言ってるだよ、ジンさん!昨日は外が薄暗くてよく見えなかったけど、ジンさんめちゃくちゃ怪我をしてるじゃないか。今は雨上がりで地面がぬかるんでるし、転んだりして傷口が開いたりしたら大変だろ?実は、オイラの村には腕のいいお医者さんもいるんだ。村に着いたら念の為にその人に診察してもらおうよ。それまではオイラが運んであげるから……あぁ、心配しなくても大丈夫!オイラは村一番の力持ちだからね。ジンさんぐらいの軽さならなんてことないよ!」

「いや、あのな……これぐらいは軽傷だから問題無い。というより、こうやって誰かに抱えられるのが、あまり俺の性に合わないと言うか……」

 どこまでも明るくニコニコと笑うお人好しな巨人の前で、ジンが半ば困惑した様子で目を伏せながら軽く頭を搔く。無意識とはいえ、反論の余地を与えてこなかったドロゴの言葉に少なからず圧倒されたらしい。そしてジンとしては、自分から他人――主にニィナ――に優しくすることは多くても、他人から優しくされることには馴染みが無いようである。

 思えばジンは、自分の負った怪我の手当てを積極的に自分一人の手でおこなっていた。要は、何事も自分の手一人で解決しようとする節があったのだ。ジンにとっては単独で生きることが主流ゆえに、いざ他者から優しくされた時にどう対応すればいいのか少し迷っているのである。

 ここに来てようやくジンの方に顔を向けたニィナが、楽しそうに小さくクスクスと笑いながらジンに言った。

「ジンって、誰かに抱っこされるのは苦手なんだね。ニィナのことは、いつもたっくさん抱っこしてくれるのに。」

「……!苦手、という訳ではない。ただ単に、不慣れなだけだ。」

「あはは。たしかにオイラも、こんなに小さい人間さんたちを、自分の手に乗せたのは今日が初めてだよ……あ、二人とも見て!あれがオイラの住んでる村だよ!」

 不意にドロゴはそう言って足を止めると、相変わらず楽しそうなニィナと少し気まずそうに目を逸らしたジンそれぞれのために、両手を高く掲げることで遠くの景色を見せた。落ちないようにバランスを取りつつ、ドロゴの指にもたれたニィナが数メートルほど先に見えるものに目を凝らす。

 そこにはドロゴの言う通り、一部を木製のバリケードで囲まれた小規模な村があった。複数の巨人たちが歩いている他、真ん中には何やらたくさんの飾りが設置された、巨大な(やぐら)のようなものが建てられている。奥には鉄製の巨大な扉があるらしいが、ここからだとどう言った空間なのか把握するのは難しかった。それら以外にこれといって目立つ建物は無いが、ござや柵などを利用して各巨人専用の居住スペースがいくつか確保されていた。よく耳を澄ますと、村の方から何かを叩いている槌の音なども聞こえてきたのだった。

 生まれて初めて巨人の村を見たニィナは、途端にパァッと目を光らせて頬を淡く紅潮させた。対するジンもいつも通り無表情ではあったが、心做しかニィナと同じく興味深そうにドロゴの示した村を眺めていた。

「あそこがオイラの住んでる村……“アイロ”って呼ばれてる場所だよ。あとちょっとで到着するから、もう少しだけ辛抱なぁ。」

 ドロゴはそう言ってニィナたちの体を持ち直すと、再び陽気な鼻歌を歌いながら早足に道を歩き始めた。その瞬間、森の大地がズシンズシンと微かに揺れ動き、たまたま近くにいた小動物たちは慌てて周囲を逃げ惑った。掌の上にいたニィナたちも、急に揺れ出したことでバランスが崩れてしまったが、すかさずその場に座り直して体勢を整える。

 こうして数分後―――駆け足で村の手前まで到着したドロゴは、ニィナたちを抱えたまま意外と背の低いバリケードをヒョイッと乗り越えた。それと同時に、ドロゴは村の敷地内にいた複数の巨人たちに向けて高らかに声をあげた。

「みんなー、ただいまだー!今日は人間のお客さんたちを連れてきただよー!」

「お、ドロゴ!今週は迷子にならずに帰ってこれたか。それに、お前が人間を連れてくるだなんて、珍しいこともあるもんだな。」

「あら、とっても小さくて可愛い人間さんたちだこと……でもそっちの黒い子は怪我をしてるみたいね。手当てはされてるみたいだけも、あたしがあとでまた診てあげるわ。」

「おいドロゴ!村長(むらおさ)が製鉄場でお待ちだぞ!だべってないでさっさと金収めてこい!」

 ドロゴの声に釣られた複数の巨人たちが、それぞれドロゴに声をかけながら蟻のようにわらわらと集まってくる。当然その全てが身長が5メートル、いや10メートル以上はある一つ目の巨人だ。ほんの数人程度が近くに集まるだけでもかなりの迫力がある。流石のニィナも、最初はずっと楽しそうにしていたのに、今では完全に圧倒された様子で目を見開いたまま黙り込んでいた。どの巨人からも敵意は全く感じられなかったが、ジンも少し警戒した様子で巨人たちを睨みながらひそかに身構える。

 そんな中、村長なる者の所に行くよう指示されたドロゴは、少し焦った様子で近くにいる女の巨人にニィナたちをそっと手渡した。先ほど診察を申し出てきた、何だか面倒見の良さそうな巨人だ。彼女もほかと同じく一つ目だが、女性ゆえか髪の毛はフサフサで体格もかなりふくよかだった。

 そんな女巨人はドロゴからニィナたちを受け取ると、少し離れた場所に置かれたござに向けてそそくさと移動した。その場所には明らかに巨人専用の大きな机がいくつか並んでおり、ニィナとジンはそのうちのひとつに優しく降ろされた。ちなみに、ドロゴはその時点で付近にある巨大な洞窟の奥に向かっていた。重たい鉄製の扉を開けて、例の大きな鞄と共に中に入っていく姿がニィナたちの視界に映り込む。その扉の奥からは、先ほどから微かに聞こえていた槌を打つ音がよりハッキリと響き渡っていた。

 一方で女巨人は、様々な物品が入っているらしい箱の中を漁りつつニィナたちに向けて話しかけた。

「このアイロ村に本物の人間が来るなんて、本当にいつぶりかねぇ。ここは人や動物がそもそも寄り付かない所にあるから、人間側(むこう)から会いに来ること自体少なくてさ……あぁ、そうそう。あたしはメーナ、これでも一応医者をやらせてもらってるよ。あんたたちの名前は?」

「……ジン・アラタカだ。有害な妖の討伐を生業としている。」

「に、ニィナ・スフィンクスです!えっと……今はジンと一緒に旅をしています!」

 手際よく救急道具のようなものを揃えたメーナに対して、それまで無言を貫いていたジンとニィナがそれぞれ自己紹介を行う。間髪入れずにドロゴと別れてしまったことで、他の巨人たちと話すタイミングを完全に失っていたのだ。両者の名前を聞いたメーナは太い指先でジンの肩と頭を触ると、彼の体に巻かれた包帯を器用に取りながら二人に言った。

「なるほど、ジンとニィナだね。急にこんな場所に連れてこられた人間にしては、どっちもやけに落ち着いてる気がするけど……あたしたちのことが怖くないのかい?」

「ううん、全然!あのドロゴって巨人さんから、ここに来る前に他の巨人さんたちのこととか、この村のお話とかを色々と聞いたの。さすがに最初見た時はみんなおっきくてビックリしちゃったけど、今は平気!巨人さんだけじゃなくて、机とかの色んな物も大きいから、見てるだけでも楽しいの!」

 血の滲んだ包帯の取り替え作業中ゆえに、沈黙を貫くジンに代わってニィナがニコニコと笑いながらそう答える。そんなニィナを微笑ましそうに見下ろしつつ、メーナは近くに引き寄せた箱の中から新しい包帯を取り出した。それを緩くジンの体の傷周りに巻いてから、締め付けすぎないよう加減をしつつ丁寧に巻いていく。明らかに人間用のサイズの包帯だが、医者として務めているゆえか、メーナは巨人ながらも繊細な動きでジンの肩と頭にその包帯をぐるぐると巻いた。人間の来る機会が極めて少ないとメーナは話していたが、仮に来た時のために人間用の物品もあらかた揃えているのだろう。下手に逆らってもあれなので、素直にメーナからの手当てを受けつつジンが少し感嘆した様子でボソッと呟く。

「手先……というよりは、指先が器用だな。人間の治療にも慣れてるのか?」

「まぁ、一応ね。たまに仲間と一緒に商売に出かけるんだけど、その時に怪我をした人間を治療することがあるのさ……本当に、たまになんだけどね。」

 メーナは苦笑混じりにそう答えると、一通り包帯を巻き終えたのかジンからそっと手を離した。新しく巻かれた包帯越しに、ジンが恐る恐る肩や頭を触る。自分一人でした時よりもしっかりと、それでいて全く息苦しくない締め付け具合だ。人間向けの手当てに慣れている、という話は本当のようである。とはいえ、まさか自分よりも適切な処理をしてくるとは予想していなかった。そのためジンは、内心メーナへの感謝を覚えつつも少し悩ましげに頭を抱えた。それを見たニィナが、巨大な机の上をトテトテと歩いてジンの顔をヒョコッと覗き込む。手が無いので頭などを撫でられない代わりに、ニィナはジンの体にもたれかかって彼に言った。

「良かったね、ジン。実はニィナ、心配してたの。ジンの巻いてた包帯、血が滲んで結構汚れてたから……痛いところとかなぁい?」

「……別に。俺は前々から、至って正常だ。痛みも特にない。」

「本当かい?小さい子がいるからって、あまり無理に強がるんじゃないよ、ジン。こんなに汚れた包帯を付けっぱなしにしてさ……感染病にでも罹ったりしたらどうするつもりなんだい?」

 回収した古い包帯を巨大な空き箱の中に投げ込みつつ、メーナがジンのことを母親の如く簡単に叱りつける。途端にジンは少し不貞腐れた様子で眉をひそめたが、すぐに気を取り直すように短く咳払いをした。そして、巨大な机の上に座ったまま、素早く救急道具を片付けるメーナに向かって尋ねた。

「それより、めーなと言ったか?傷の手当、感謝する。その上で、お前に少し聞きたいことがあるんだ……この山岳地帯のどこかにいるという、人喰い魔女の話についてなんだが。」

「はぁ……また魔女、か。あれだろ、ドロゴから聞いたんだろ?あの子ったら、いつまで幻覚の話をしてるんだか。」

「……幻覚、だと?」

 すかさず呆れた様子でため息を吐くメーナに対し、何気なく零れた一言が引っかかったジンが訝しげに首を傾げる。たしかに例の魔女は、今の時点だと噂のみで構成された曖昧な存在ではある。しかし、その上で“幻覚”という単語が出てくる方程式が、ジンの中ですぐには見いだせなかったのだ。

 すると、ほとんどの道具を片付け終えたメーナは、ジンたちの目の前でどっこいしょと座りながら言葉を続けた。今までの穏やかな顔つきから一転して、何故かどことなく疎ましげな表情を浮かべながら。

「悪いことは言わないよ、ジン。その魔女の話はすぐに忘れるんだ。あれはただの法螺(ほら)だし、人間のあんたにも全く関係の無い話だからね。」

「……いいや、関係はある。俺たちはその魔女に会うために、休戦の泉からはるばるこの山岳地帯にまでやって来たんだ。それに、法螺だろうがなんだろうが、魔女にまつわる諸々の噂がここ以外の場所でもいくつか立ってるのは確かだ。ドロゴ本人からは、俺が後で直接問いただす……その前にめーな、お前の方で何か知ってることがあったら教えてくれないか?」

 ジンは決して屈することなくそう問い返すと、目の前の地面に堂々と座るメーナの姿を机の上からジッと見下ろした。その瞬間からお互いに無言の状態が続くようになり、鉄の扉で封じられた洞窟の奥から、カツンカツンと槌を打つ音が響き始める。周りで何やら作業をしていな巨人たちも、少し険悪になりかけた空気感を察して、ジンたちの方にチラチラと視線を向けていた。その一方で、何故ジンもメーナも険しい顔をしているのかが分からず、両者の姿を交互に見つめながらニィナがオロオロと目を泳がせる。

 すると、メーナは盛大に深いため息を吐いたのちに、ふくよかな顔に浮かぶ一つ目を軽く伏せながらジンに言った。

「残念だけど、あたしからあんたたちに話せることは何も無いよ。あたしも他の奴らと一緒で、ドロゴの口から直接聞いただけだからね。他の奴らから聞くよりは、ドロゴ本人から聞いた方がずっと手っ取り早いと思うよ。どうせあたし以外の奴らも、ドロゴが見たっていう魔女……っていうか、“蛇”の話を信じてないんだし。」

「……ヘビ……?」

 また新たな単語がメーナの口から零れた瞬間、何故かニィナが顔を青白くさせながらジンのすぐ隣に引っ付いた。どうやら彼女は蛇が苦手らしい。実物が居なくても、名前を聞くだけで怯えてしまうようだ。現に、ニィナの白くて小さな猫耳と尻尾がカタカタと小刻みに震えている。ジンは咄嗟にニィナを宥めるように彼女を抱きしめつつ、何かを考え込むように顎に絵を添えてそっと目を閉じた。

 ジンが手に入れた情報の中には、魔女という単語こそあったものの、蛇というワードは全く見当たらなかった。どうやらメーナの話によると、その蛇とやらを見たのはあのドロゴ一人だけらしい。ジンが予め聞いていた噂においても、蛇に関連した証言はほとんど無かった。なるほど。たしかにドロゴ“だけ”が蛇を目撃したとなれば、それを示すための証拠が何も無いので、周りから幻覚だと言われてしまうのも無理はないだろう。

 しかし、その一方でジンは、昨日(さくじつ)魔女の話をした時のドロゴの反応を思い出していた。あの怯え方は、本当に何かを見た者にしか出せない反応(リアクション)だった。嘘や偽りは全く感じられず、当然だがわざわざ演技をしているような気配もなかった。つまり、周りがどれだけ信じずとも、ドロゴ本人は確実に見たのだ。メーナの話す謎の“蛇”とやらを。

 もしそうだとしたら―――魔女の正体は蛇絡みの妖か、それとも、そう言った魔法を駆使する人間のどちらかと言うことになる。己の中の知識を棚の中から引っ張り出しつつ、ジンはニィナを片手で抱きしめたまま悶々と脳内で考えを巡らせ続けた。

 するとその時、洞窟にある鉄製の扉が不意にゆっくりと開かれた。それと同時に金槌で金属を打つカーンッと言う音も内側から鳴り響き、その音に驚いたジンとニィナは反射的にビクッと体を震わせた。だが、そんな二人のことは気にせずに、扉を開けた張本人は内側からヒョコッと顔を覗かせてメーナたちの方に目を向けた。そして、パァッと顔をほころばせながら外に飛び出してジンたちに言った。

「ジンさーん、ニィナちゃーん!お待たせー、戻ってきただよー!」

「……あ、ドロゴ!お帰りなさーい!こっちだよー!」

 聞き慣れたドロゴの声がしたことで、金属の音に怯えて萎縮していたニィナが、一転して楽しそうにぴょんぴょんと机の上で跳ねる。だが、巨人用の机は地上から数メートルほどの高さがあるので、足を滑らせて落ちたりしたらもちろん大変だ。特にニィナは両腕が無いので、落下の危険性がジンよりもずっと高かった。そのためジンは、転落などを防ぐために素早くニィナの体を取り押さえた。

 すると、いつの間にか元の柔らかい表情に戻っていたメーナは、そんな二人の方にズイッと手を伸ばしながらハキハキとした口調で言った。

「噂をすれば何とやらって奴だね。しばらくはあの子も仕事がないだろうし、あたしがドロゴのところに運んでやるよ……って、こらジン!どこにいくつもりだい!?下手に地面を歩いてると、他の巨人共に踏まれちまうよ!」

「余計なお世話だ!にぃなはともかく、俺は一人でも歩け―――うぐっ!?」

 ジンは素早くメーナの手を回避しながらそう言うと、ニィナを両腕で大事そうに抱えたまま机の上からバッと飛び降りた。ジンは中身が少し天邪鬼ゆえに、これ以上巨人たちの世話になるのが何だか嫌に思えたのだ。

 唐突な落下により堪らずニィナは悲鳴をあげたが、ジンは猫のように身を捩りながら華麗に地面の上へ着地した。そのままジンはメーナの言葉を無視して走り出そうとしたが、いつの間にか目の前にまで迫っていたドロゴの足に真っ直ぐ激突してしまった。それは、ジンがメーナの方に視線を向けた、その一瞬の隙によって生まれた軽度の事故だった。想像以上にドロゴの歩幅が大きく、そして彼との距離感が思っていたよりもずっと小さかったのである。

 ジンの腕の中で守るように抱えられていたので、奇跡的にニィナはほぼ無傷で済んだ。その一方でジンは、ぶつかった衝撃に耐えかねてニィナごと勢いよく後方に倒れてしまった。慌てて足元に目を向けたドロゴが、焦った様子でアワアワと手をばたつかせながらジンに言った。

「あ!?じ、ジンさんごめんなぁ!全然気が付かなかっただよ!オイラ、昔から足元をあまり見ないクセがあって……!」

「び、びっくりしたぁ……!ジン、大丈夫!?思いっきりお顔が足にぶつかってたよね?痛くない?」

「……も、問題無い……すまないな、にぃな。お前の方こそ、怪我は無いか?」

「ほらね。絶対にこうなっちまうから運んでやるって言ったんだよ……ほらドロゴ、二人を家まで連れてってやりな。あんたと少し話がしたいんだとさ。」

 少し遅れる形で後からやってきたメーナは、何をやってるんだと言わんばかりに息を吐きつつジンたちの体をヒョイッと手で摘んだ。今度はジンも特に抵抗することなく、そのままニィナと共にドロゴの手の上にポンッと置かれた。メーナからの指示を聞いたドロゴがニコッと微笑み、ジンに向けて何度も謝りながらいそいそとその場を後にする。

 半開きとなった鉄製の扉の奥からは、何かが燃えて生じている真っ赤な光と、金槌を打つ乾いた音が延々とこぼれ落ちていたのだった。




***




 数分後

 アイロ村一角 ドロゴの居住空間―――




「いやぁ、また驚かせてごめんなぁジンさん。すぐにでも二人に会いたかったから、いつもより早足でメーナのところに戻ったんだよ。でも、どっちも特に怪我とかなくて安心しただぁ。」

 木の枝で作られた質素な囲いの中で、ドロゴはござの隅っこに腰掛けながら苦笑混じりにそう呟いた。彼のすぐ隣にはジンが直接ござに座っており、倒れるのを防ぐためにニィナを己の膝の中に抱えていた。ニィナが猫耳をピコピコと左右に動かしつつ、あぐらをかくジンの太ももから足を出してぶらつかせる。

 ドロゴによると、ここアイロ村ではドロゴやメーアを含めて、合計で五人の巨人が暮らしているとのことだった。居住空間は基本的に木の枝による囲いとござで構成されており、あの洞窟の奥は全て鍛冶場に改造されているらしい。ちなみに、村の真ん中にある櫓は水を汲むための井戸であり、食糧は狩猟担当の別の巨人が常に手に入れてくるようだった。

 そんな質素ながらも細かな作りの村をチラッと一瞥したジンは、ため息混じりに肩を竦めながらドロゴの顔を見て彼に尋ねた。

「その話はもういい。それよりどろご、単刀直入に聞くぞ……お前の知っている“魔女”のことについて、余すことなく俺たちに教えてくれ。今ここにいるのは俺たちとお前だけなんだ、遠慮するのは推奨しない。」

「……!や、やっぱり、そうだよね。昨日は全然話せなかったし、いい加減ジンさんたちにも、ちゃんと伝えなきゃいけないよね……」

 ドロゴは途端にハッと息を飲みつつも、どこか諦めた様子で己の人差し指同士をツンツンとくっつけた。相変わらず表情は怯えきっているが、当初よりも動揺している(さま)はあまり無かった。魔女のことを知りたがっているジンからの、迷い無き問いかけを前にようやく覚悟を決めたのだろう。ジンがニィナの体をギュッと抱きしめ、耳と尻尾を揺らしていたニィナもドロゴからの話を聞くためにキリッと姿勢を整えた。

 しばらくしてから、ドロゴは深呼吸をひとつ挟んだのちについに話し始めた。自分自身がその目で見たという、なんとも不可思議で不気味な実体験を。

「お、オイラ、見たんだよ。数ヶ月ぐらい前に、ここから遠く離れた小高い山……ちょっとした緑に囲まれたその山の奥に、一軒の豪華な建物が建っていたのを。」

「!なるほど……それが例の魔女の居住地か。」

 ドロゴから放たれた建物の話を聞いたジンが、すかさず己の顎に手を添えてフムと何かを考え込む。対してニィナは、どれだけ豪華な建物なんだろうと想像しながら、尻尾を振りつつとても興味深そうに目を丸くしていた。

 ここアイロ村を含む山岳地帯は、ほとんどが土と岩で構成されている場所だ。しかし、同時にこの地帯は雨が頻繁に降りやすく、その影響で少なからず緑が生い茂っている山もいくつかある。おそらく、例の魔女が住む屋敷は、その緑がある山の中のどこかにあるのだろう。しかし、ちらほらと緑があるとはいえ、件の建物は土と岩しかない山岳地帯の中ではむしろ違和感を覚えるもののはずだ。それを目撃した者が好奇心を刺激されて、迂闊に近づいてしまう気持ちもまぁ分からなくはなかった。

 ドロゴは己を律するように指を交差させてグッと握ると、一つ目の瞳をキョロキョロとしきりに泳がせながら続けてジンたちに話した。

「それでな。その建物を見つけたオイラは、ちょっとだけ建物(それ)に近づこうと思ったんだ。あの、単に興味がわいたってのもあるんだけど……それ以上に、オイラにはどうしても見つけたい人がいたんだ。その人がその建物の中にいるんじゃないかって思って、思い切って訪ねてみようと思ったんだよ。」

「見つけたい人……ドロゴのお友達とか?」

 耳ざとく意味深な単語を聞き逃さなかったニィナが、すかさず猫耳をピコンと立てながら軽く身を乗り出して食いついた。反射的にジンはニィナが転ばないように彼女を手で支えたが、すっかり萎縮した様子のドロゴは体育座りの姿勢を保ったままコクリと頷いてから続けて言った。

「うん……その人の名前はイアリス。オイラたちと同じサイクロプスで、一流の鍛冶屋でもある男だぁよ。オイラにとっては幼馴染かつ一番の親友で、同時に永遠の憧れでもあるんだ。あいつはとっても気さくで、商売上手でもあってなぁ。オイラがお客に騙されないように、オイラの仕事についてきてはその場でお金を管理してくれることもあったんだ。オイラ、イアリスと違ってあんまり賢くないからさ……昔からイアリスには、とってもお世話になってたんだよ。」

「……そのいありすとやらは、今どこにいるんだ?見つけたいということはつまり、今もまだ行方知れずなんだろ?」

 楽しそうながらもどこか寂しげなドロゴの口調から、鋭く何かを察したジンが少し冷たい声音で彼に尋ねる。すると、ドロゴは一転して気まずさに満ちた表情を浮かべながら、盛大にゴクリと生唾を飲み込んだ。なんだなんだと言わんばかりに、ニィナが怪訝な顔を見せながらしきりに首を傾げる。すると、のちにドロゴはジンたちから軽く目を逸らしつつ、途切れ途切れに言葉を紡ぎ始めた。

「あの、ね……さっきも言った通り、イアリスはオイラたちと同じサイクロプスなんだ。だけど実は、あいつ自身はこの村の人たちから、あまり好かれてないんだよ。その……あいつだけ、身長がとても低くてなぁ。」

「……?イアリスって、巨人さんなのに背が低いの?」

 巨人ながらも身長が低い。

 言葉だけ聞いてもあまり合点のいかない文章を前に、ニィナがジンの腕の中で眉をひそめながら再び首を左右に傾げた。対するジンは傍らに広がる村の景色を再び一瞥してから、目の前に座るドロゴの姿をジッと見つめた。ドロゴを含めた、周囲を歩く巨人たちの姿を、正確にはその背丈をひと通り再確認したのだろう。

 悲しそうに項垂れたドロゴが、体育座りの姿勢で膝を抱えながら深いため息を吐く。そのままドロゴは、ニィナのために小さく身振り手振りを交えながら、イアリスという巨人に関する説明をし始めた。

「オイラたちサイクロプスはね、成長したら最低でも5メートルぐらいの大きさになるんだよ。ちょうど今のオイラと同じぐらいだ……でも、イアリスは違った。原因は全然分からないんだけど、イアリスは同い歳のオイラのさらに半分……おおよそ2メートルと50センチぐらいしか身長がなかったんだよ。」

「2メートル50センチ……それでも、ニィナよりはずっとおっきい!ジンよりもずっとおっきいよね、多分。」

「たしかに、人間基準で言えば相変わらず高い身長だが……巨人の基準で言えば限りなく低いな。まさか、奴がほかの者から嫌われてるというのはそれが原因か?」

 イアリスの身長を聞いてギョッと目を丸くするニィナとは裏腹に、ジンがどこか納得した様子で数回ほどコクコクと頷く。その上でジンが素早くそう尋ねると、ドロゴもすぐにコクリと頷いて目を伏せながら再び言葉を続けた。

「うん……みんなはイアリスのことを“永遠の未熟者”とか“巨人族の恥晒し”とか言って、昔からずっと馬鹿にしてきたんだ。オイラは必死にイアリスを守ろうとしたんだけど、結局あいつは村長の意思で、数ヶ月前にこのアイロ村を追い出されちまったんだよ。それからしばらくは、行方不明の状態が続いたんだけど……ある時にね、さっき言ってた建物がある山の中に、イアリスが登ってる姿を見たって話をたまたま外で聞いたんだ。オイラ、どうしてももう一度イアリスに会いたかったから、村のみんなに黙って一人でその山に向かったんだよ。」

「そっか……お友達を探そうと思って山に登った時に、偶然魔女さんのいるお屋敷を見つけたんだね。」

 ドロゴが件の山に向かう経緯を知ったニィナが、途端にシュン…と落ち込んだ様子で猫耳と尻尾を伏せる。元より温和な性格の猫妖精(ケット・シー)は、種族同士で仲良く平和に暮らすことが当たり前となっている。要は、ニィナの暮らす国では見た目にまつわる差別などがあまり起きていなかったのだ。ゆえにニィナは、身長が低いからという理由で迫害されたイアリスのことをひそかに哀れんでいるのである。どこまでも優しい彼女のことだ、直接会った訳ではないものの、この時点でドロゴと同じようにイアリスのことを心配しているらしい。感受性が高いせいか、少し泣きそうですらあるニィナを、ジンが無言で頭を撫でながらすかさず慰める。

 ドロゴは自身の手を膝を抱えるような位置に戻すと、相変わらず萎縮した様子でチラチラと目を左右に動かしながら改めて話を進めた。

「あの時のオイラは、もしかしたらあの建物の中に、イアリスが居るんじゃないかなって思ったんだ。建物はたしかに豪華で大きかったけど、巨人のオイラだと流石に中に入ることすらできそうになかった。だけど、イアリスぐらいの大きさなら平気で入れそうな高さだったから……でも、そう思って足を一歩踏み出した瞬間、オイラはその場で急に強い目眩に襲われたんだ。なんかこう、視界がぐわんぐわんして、いきなり気分が悪くなったんだよ。そ、そしたら、その直後に……」

 次第に語尾が窄まるようになり、ドロゴの体も当時の恐怖を思い出したことでガタガタと大きく震え始める。巨人の揺れゆえに、近くにいるだけでも小さな地響きに見舞われてしまう。それに巻き込まれた巨人専用の大きな机や椅子もカタカタと上下に揺れていた。

 ジンはすぐにニィナを抱え直すと、周囲に伝わる地響きに耐えながらドロゴに懇願した。

「頼むドロゴ。恐れを抱く気持ちは分かるが、話を続けてくれ。今はとにかく、何でもいいから魔女にまつわる情報が欲しいんだ。ゆっくりで構わない。その後に何があったのか、俺たちに教えてくれ。」

「あ、あぁ……そう、だよな。ジンさんの言う魔女だけじゃなくて、イアリスを見つける手がかりにも、繋がるかもしれないからなぁ。」

 ジンの淡々としながらも真っ直ぐな声音のお陰で緊張が解けたのか、頭を抱えて怯えていたドロゴはそこでようやく体を揺らすのを止めた。自分を落ち着かせるために深呼吸を繰り返してから、額に浮かんだ冷や汗を拭いつつドロゴが言葉を続ける。

「その、目眩はすぐに治まったんだけど、代わりにオイラの目の前には……た、たくさんの“蛇”が集まってたんだ!いつの間にかオイラの足元とか手とかに、とても小さいけど眼光のすごけ鋭い蛇が、数え切れないぐらいうじゃうじゃと……!!」

「……!!!」

 蛇と言う単語を聞いた瞬間、ニィナは再びギョッと目を丸くしてからジンの体にピッタリと身を寄せた。どうやらニィナは蛇が本当に苦手らしい。とはいえ、本来猫は蛇に対して割と好戦的で、仮に争った際には高確率で猫側に軍杯が上がると言われている。そのためジンは当初、猫妖精全般は蛇がそこまで苦手ではないと考えていた。蛇という単語を聞いただけで、幼いニィナがここまで怯えるとは予想していなかったのだ。

 しかし、思えばニィナが住んでいた国では、そもそも争いという概念自体があまり好まれていなかった。おそらくだが、猫妖精自らの意思で、蛇や蛇絡みの妖と戦ったりする機会も元からかなり少ないのだろう。それに、ニィナはまだ齢六つという若さだ。蛇という見た目からして不気味な存在に対し、本能的に恐れを抱いてしまうのも無理はなかった。

 そんなニィナをジンが強く抱きしめる一方で、ドロゴは不安そうに眉をしかめながら、もう一度軽く身振り手振りを交えてジンたちに話した。

「そして、オイラはまた見たんだ……巨人のオイラよりもずっと巨大な蛇が、建物を取り囲むように佇んでいたのを!あれは本当に恐ろしかっただよ……巨人のオイラすらも、たった一口で丸呑みできるぐらいの大きさだったからな!だから、大きな蛇から睨まれて、小さい蛇にもいっぱい囲まれたオイラは、途端にパニックになっちまったんだよ。イアリスを探すどころか、建物に近づく余裕すら丸ごと無くなっちまってなぁ……」

「……なるほどな。たしかに、何も知らない者から幻覚だと言われても仕方のない話だな。」

 完全に怖がって言葉を失っているニィナとは対照的に、ジンは何やら訝しげな表情で地面を睨みながら軽く身をかがめた。ドロゴからの怖い話を受けつつも、冷静に何かを推察しているかのような眼差しだ。ドロゴも大方話し終えたことで怖さが和らいだのか、また額に浮かんだ冷や汗を拭いながら、パチパチと瞬きを繰り返しつつジンたちに言った。

「あの後、どうやって村にまで戻ってきたのかは、正直今もよく覚えてないんだ。ただ、村のみんなには真っ先に蛇のことを話しただよ。イアリスが、あの豪華な建物の中に居るんじゃないかってことも……でも、流石に誰もオイラの話を信じてくれなかった。あの日は久しぶりにかなりの大雨が降ってたから、雨に混ざって何かと見間違えたんじゃないかって言われちまっただよ。」

「まぁ巨人だろうとなかろうと、容易には信じられん話ではあるな。何かと不可解な点が多過ぎるし、蛇を目撃した者もお前一人しか居ないんだから。」

 気づけば少しずつ夕焼け色に染まった空を見上げながら、それは仕方ないと言わんばかりにジンが深くコクリと頷いた。偽物の星が散らばる夜空の下で、いつの間にかアイロ村の周囲も柔らかな松明の炎に包まれていた。井戸代わりの櫓にも、まるで祭壇を飾るかのように、小さな松明がたくさん添えられている。この山岳地帯の中における井戸水なので、雨水と同じぐらい貴重な水資源となっているのだろう。どこかで夕食でも作っているのか、肉か何かを焼いたやけに香ばしい匂いも微かに周りから漂っていた。

 ジンと共に淡いオレンジ色の空を見上げたドロゴが少し悲しげに細々と呟く。

「それと村のみんなからは、イアリスのこともいい加減あきらめろって言われちまったんだ。村長も、あいつはもう巨人族の一員ですらないって言ってきてさ……オイラの勝手のせいで、その日を境にイアリスを探すこと自体が禁止されちまったんだよ。」

「!そんな……身長が低いってだけで、周りの巨人さんから嫌われるなんて酷すぎるよ!そのイアリスって人も、巨人さんと同じ種族なんでしょ?一人だけ仲間はずれなんて、そんなのだめだよ!イアリスが可哀想だよ……!」

 それまでしきりにピクピクと猫耳を動かしていたニィナが、いきなりそう言葉を紡いでジンの膝からピョンッと飛び上がった。ジンは慌ててニィナを止めようとしたが、器用に立ち上がったニィナはそのままドロゴの近くに歩み寄って彼の顔をジッと見上げた。その顔から蛇に対する恐怖心は完全に吹き飛んでおり、代わりにイアリスを見捨てようとしている巨人たちへの微かな怒りの色が滲み出ていた。

 ニィナは元より心優しい性格の持ち主である。ゆえに見た目が巨人らしくないという安直な理由だけで、イアリスだけ疎外されたことが子供ながらに解せなかったのだ。対するドロゴも村長などの決断に対して、正直あまり納得はしていないようだった。彼はイアリスを一番の親友と称していたし、危険を顧みず彼のことをひたすら探していた男だ。このままイアリスを諦めるつもりなんて実際は毛頭無いのだろう。

 しかし、ドロゴは諦念に満ちた顔で首を左右に振ると、膝元にいるニィナの頭を指先で撫でながら彼女に言った。

「ニィナちゃん、ありがとうだよ。オイラも本当は分かってるんだ……どれだけ体の大きさが違っても、結局オイラもイアリスも同じサイクロプス。だから、みんなで寄ってたかってイアリス一人だけを虐めるのは駄目だって。でもね……サイクロプスだけに限った話じゃないんだけど、体がめちゃくちゃ大きいってことは、巨人族みんなにとって誇りというかアイデンティティみたいなもんなんだ。だから、村長とかみんなから見たイアリスは、巨人族の誇りに泥を塗るような存在だったんだと思う……あ!お、オイラは全くそんなふうに思ってないよ!?……でも、村長は特にそう思ってるみたいでなぁ。本当は村の中で、気軽にイアリスの名前を口に出すことも許されてないんだ。ニィナちゃんが怒ってくれるのは嬉しいんだけど、村で一番偉い村長の命令には、結局誰も逆らえないんだぁ……ごめんなぁ、ニィナちゃん。」

「…………」

 ドロゴから伝えられた悲しい現実を前に、頬を軽く膨らませたニィナが力無く項垂れる。自分の意見が巨人たち全員に受け入れられないと察して、純粋な悲しさと悔しい気持ちに心が蝕まれているのだろう。そう考えたジンはそっとニィナの傍に近寄ると、その小さな背中を支えつつ彼女の顔をそっと覗き込んだ。ニィナの丸くて赤い目には、ほんの少しだけだが小粒の涙がちらほらと浮かんでいた。本当にお人好しな奴だなと言わんばかりに、小さく息を吐いたジンが指でその涙をサッと拭き取る。

 ―――何はともあれ、自分たちが探している魔女にまつわる情報はようやく手にすることが出来た。

 魔女は多少の緑が残っている山の奥に潜んでおり、ドロゴの話によれば蛇を操る能力を持っているらしい。魔女自らが作り出したものなのか、元々山に住んでいた個体を魔女本人が使役しているのかは不明だ。しかし、どちらにせよ蛇が集まる例の屋敷に対して、無計画のまま近づくのは非常に危険だろう。こちらには蛇を苦手とするニィナがいるし、仮に蛇が有害な毒などを有していたら厄介だ。噂では人喰い魔女とも言われている相手なので、もし小さな蛇の群れをかわせたとしても、ドロゴが見たという巨大な蛇に結局丸呑みにされてしまう可能性も少なからずあった。

 はてさてどうしたものかと、こちらに擦り寄ってきたニィナの体を抱きしめつつ、ジンが頭の中で悶々と今後の計画を立て始める。すると、ドロゴたちのいる居住空間に向けて、少し遠くからメーナが声をかけてきた。

「ドロゴー、飯の準備が出来たよー!人間たちの分も作ったから、さっさと来なー!」

「お、おう!良かったなぁ二人とも、みんな二人のことを歓迎してくれてるだよ……ほら、行こう!オイラがまた運んであげる!」

「わ、わわ……!ありがとうドロゴ!ジン、今日はお空も暗くなってきたし、ニィナもお腹空いちゃった。巨人さんの食べるご飯も気になるし、今夜はもうこの村に泊まっていこうよ!ね?」

「……仕方ないな。魔女の屋敷へ向かう手筈を整えつつ、また明日の朝に出立するとしよう。」

 途端に上機嫌になったドロゴとニィナを前に、ジンはニィナを抱えつつ再び小さく息を吐いて目を伏せた。本当は夜食まで世話になるつもりなんて無かったのだが、この様子だとさっきのように下手に逆らうだけ無駄だろう。ニィナの言う通りこちらも腹が空いているし、泉からの長旅で少し疲れも溜まっている。翌日に向けて計画を立てたり英気を養う上で、このアイロ村に一泊するのもあまり悪くはない気がした。

 こうして、ドロゴによって改めて手の上に移動されたジンとニィナ。そんな二人の視界の先に、鍛冶場の近くに置かれた巨大な猪の丸焼きや魚の燻製焼きなどが堂々と映り込むようになる。巨人らしく豪快な食事の数々をを見たニィナは、途端にパァアッと顔をほころばせて足を大きくばたつかせた。彼女のすぐ近くにいたジンが、危うく手の上から落ちかけたニィナを取り押さえつつ、ひどく困った様子で眉をしかめる。

 扉が閉められた鍛冶場の奥では、櫓に飾られた火よりも真っ赤な炎が、扉の隙間から微かに外にこぼれ落ちていたのだった。




***




 時は巡って 真夜中―――




 優しい巨人たちと共に食事を終えたジンとニィナは、巨人たちと多少の雑談を挟んでからドロゴの居住空間に戻った。その上でジンは、明日魔女の住む屋敷に向かうためにドロゴと話を進めることにした。だが、腹が膨れて強い眠気に襲われたニィナは、ジンよりもずっと先に彼の傍らでスヤスヤと寝ていたのだった。

 そして数時間後、ドロゴと共に件の山に向かうことを決定したジンは、ようやく彼と一緒に就寝した。ドロゴは巨人なのでござの上で雑魚寝をしたが、ジンたちは寝返りなどで潰されるのを防ぐために、巨人専用の机の上で寝ることとなった。メーナの好意で毛布が用意されていたので、幸いなことに寒さや寝苦しさなどはあまり感じなかった。

 こうして、ドロゴを含めた巨人たちが、ほぼ全員深い眠りについた真夜中のこと。

 それまでジンの隣で寝ていたニィナは、不意に猫耳をピョコッと立てておずおずと目を開けた。聴覚の敏感な彼女の耳が、すぐ近くから聞こえた物音を耳ざとく拾ったのだ。そのせいで半分目が覚めてしまったニィナは、両腕のない体をどうにか起こしつつ数回ほど瞬きを繰り返した。自分を守るように腕を回していたジンから離れて、毛布を押し退けながらニィナが音のなった方に目を向ける。

 そこでは、ドロゴより倍以上の背丈がある巨人が、のっそのっそと緩慢な足取りでどこかに向かっている姿が見えた。ドロゴよりも髪の毛が非常に長く、それと同じぐらいの毛量がある顎髭はとても丁寧に編み込まれている。巨人たちの中ではかなり老年の者なのか、月明かりによって見えた肌は皺だらけで痩せこけた腰や背中も微かに曲がっていた。

 しかし、あんな見た目の巨人を目撃したのは、今この時が初めてだ。もしかして、ずっと鍛冶場の中にいて最後まで姿を現さなかった、村長と呼ばれている巨人だろうか。まだ少し朧気な頭の中で、夕食の時にメーナが伝えていた話をニィナが必死に思い出す。


―――村長はね、年相応にちょっと頑固な所のある気難しい男なんだよ。人付き合いがとっても苦手で、同じ巨人であるあたしたちとも滅多に交流しないのさ。ずっと暑苦しい鍛冶場の中で、ひたすら鉄とか武器とかに向けて重たい槌を打ってるんだよ……それがあの人にとって、唯一とも言える生きがいだからね―――


「……村長さん……」

 頭を振って眠気を無理やり振り払ったニィナが、村長らしき巨人の姿をよく見るために大きな机の上をスタスタと歩く。すると、ニィナが何気なく呟いた声が耳に入ったのか、村長は不意にピタッと足を止めてニィナのいる机の方に目を向けた。鋭い眼光に満たされた村長の一つ目が、思わず本能的に足を止めたニィナの姿を真っ直ぐ捉える。メーナ曰くかなり年老いた巨人だとは聞いていたが、彼の目はその老いを感じさせないほどの光を常にギラギラと放っていた。まさに蛇に睨まれた蛙のように、ギクリと身を強ばらせて固まったニィナの背筋がゾッと震え上がる。

「あ、ぁ……えっと、その……」

「……お前が、例の旅人の連れか。ちょうど良い、少しこっちに来い。」

 唐突に睨まれたことでニィナが何も言えずに口ごもっていると、村長はふくよかな顎髭を触りつつ低く唸るようにそう呟いた。そして、皺だらけの巨大な手を伸ばしてニィナの体をヒョイッと摘んだ。思わず悲鳴をあげかけたニィナだったが、村長はすかさずもう片方の手を動かして彼女の小さな体を優しく包み込んだ。そのまま宝物を掲げるかのような動きで手を開き、己の眼前にニィナの体をスッと近づける。あの鋭い一つ目に至近距離から見つめられたニィナは、為す術なく手の上で腰を抜かしながら金魚のように口をパクパクさせた。

「わ、わわ……!た、食べないで……食べないで、ください……!!」

「……あいにく儂は、野菜しか食わん。そもそもお主のような、小さきものを食ったところで、腹の足しにもならんわい。」

 思わず目をギュッと閉じて懇願したニィナに対して、村長は呆れたと言わんばかりにため息を吐きながらそう言った。その声音からも、こちらを襲ったりするような気配は全く感じられなかった。完全に眠気の覚めたニィナが、恐る恐る目を開けて村長の方に顔を向ける。すると、村長は両方の手でニィナを大事に抱えながら、大きな親指で彼女の体を軽くつついて尋ねた。

「お主……腕が無いんじゃろ?しかも、片方だけではなく、両方とも。」

「!!ど、どうしてそのことを……」

「鍛冶場の外で、お前が巨人たちに話しているのを、ひそかに聞いておった……事故とやらで失ったらしいな。まだまだ小さいというのに、哀れな奴よのう。」

 驚きで目を丸くするニィナに向けて村長はそう答えると、松明も消されて薄暗くなった夜空の下で再びニィナの体をジッと見つめ始めた。まるで何かを吟味するかのような眼差しである。村長の指を背もたれ代わりに座りつつ、その熱い視線に耐えかねたニィナは眉をしかめて弱々しく猫耳と尻尾を揺らした。

 すると、しばらくしてから村長は深くため息を吐き、何やら諦めに満ちた声音でニィナに言った。

「ふぅむ……やはり、お主はあまりにも小さい、小さ過ぎる。こんな小ささでは、儂の技術を以てしても無理じゃ。うまく作れん。」

「……?な、何のお話?村長さん、ニィナのために何かするつもりなの?」

「たわけ。鍛冶場がある時点で、大方予想はつくじゃろうが……義手じゃ、義手。お主が失くした、この両腕の代わりになるものじゃ。」

 村長は少し憤慨した様子でそう呟くと、ニィナの体ごと手を動かして鍛冶場の方に体を向けた。流石に今は深夜でみんなが寝ているゆえか、例の鍛冶場はまったく稼働しておらず、扉自体も(かんぬき)などで固く締められていた。あの扉の奥で、村長は四六時中一人で延々と鉄を打つ作業を続けていたのだ。村の外へ商売に出かけたドロゴのような者から、それによって得た金を度々受け取りながら。

 村長の視線に釣られたニィナがボーッと鍛冶場の方を眺める。すると、村長はそんなニィナの背中をジッと見下ろしながら、彼女の前で静かに話し始めた。

「村長である儂の製鉄技術は、このアイロ村に留まらず、独眼巨人(サイクロプス)の中でも一番優秀じゃと言われておるし、一応自負もしておる……だが、そんな儂でも、お主のための義手は作れそうにない。とても小さい子だという話は聞いておったが、まさかここまで小さいとは思っていなかったからのう。」

「……その義手ってのがあれば、ニィナ、ジンに支えられなくても歩けるようになるの?一人でご飯を食べたり、寝たり、走ったりすることも出来るの?」

 ニィナはおもむろにそう尋ねながら後ろを振り返ると、村長の手の上でよっこいしょと立ちながら彼の顔を真っ直ぐ見つめた。少しずつ湧き上がった熱い希望を、村長に向けているかのような目線だ。義手が今は無き両腕の代わりになるものと聞いて、心の中で一気に淡い期待を抱いたのだろう。常々ジンにお世話になりっぱなしな彼女にとって、義手はもはや革命にもほど近い存在だったのだ。

 しかし、村長の言う通りニィナはまだまだ幼かった。幼い上に体がとても小さいので、10メートル以上ある巨人の村長では、彼女の身長に則した義手を制作するのが困難だったのだ。おまけに、仮に義手を作れたとしても、体と接合する時には漏れなくかなりの激痛が伴う。義手自体を自然と動かすためには、体内の神経と硬い義手を直接繋ぐ必要があるからだ。その激痛は、大の大人や巨人ですらひどく悶絶するほどのものである。それゆえに、若くて幼いニィナではそれに耐えきれずにショック死する可能性もあったのだった。

 それらを考慮した上で制作は無理だと悟った村長が、本日三度目の深いため息を吐きながらニィナに言った。

「たしかに、お主の望む行動はあらかた叶うじゃろう。しかし、何度でも言うがお主は体が小さ過ぎる。儂が得意としてるのは、百妖夜行などで妖や人間が使う、大きな防具や武器ばかりじゃ。繊細な技術を要する小さなものはあまり作れん……お主がもう少し歳をとってて、尚且つ体格も大きければ話は別なんじゃがな。」

「じゃ、じゃあ、村長さん以外で作れる巨人さんはいるの?村長さんと違って、小さいものも作れる巨人さんは、この村にいないの?ニィナ、その義手って奴が欲しい。両腕があったら、ジンがいなくても普通に歩けるんでしょ?今のニィナは、いつもジンに任せっきりで、迷惑ばかりかけてるの。だから―――」

「にぃな!!」

 村長の冷たい発言に少し困惑しながらも、まだまだ希望を捨てきれない様子でニィナが慌てて言葉を捲したてる。しかしその直後、ニィナが元いた机の上からジンの声が聞こえてきた。まさかこのタイミングでジンが起きてくるとは思わず、驚いて目を丸くしたニィナは慌てて村長の手の上でくるっと体の向きを変えた。

 ニィナの視線の先には、ひどく警戒するようにクナイ片手に身構えているジンの姿があった。そういえばジンから見れば、村長は今この時点でようやく初対面の相手でもある。そんな彼の手の上にニィナが居たせいで、彼女が村長に襲われていると勘違いしているのだ。偽物の月の光に照らされたクナイが、ジンの怒りを象徴するようにギラリと鈍く輝いている。

 対するニィナは、もしかして自分のせいでジンを起こしてしまったのかと考えて、慌てて頭を下げながらジンに言った。

「ジン!?ご、ごめんなさい。起こしちゃった……?」

「いや、起きたのは今しがただ。それより……お前は何者だ?にぃなに何をするつもりだ!?今すぐその子をおろせ!!」

「大声を立てるな、黒い肌の人間よ。この子の体を、改めて観察しとっただけじゃ。とって食ったりなどはせん……ほれ、受け取れ。」

 宵闇に紛れそうなほど黒いジンの体を見下ろしつつ、村長は呆れた様子で肩を竦めながらいそいそとニィナを机の上に戻した。指先で襟首を掴まれたニィナの体が、ヒョイッとジンの目の前に置かれる。ジンはすかさずニィナを守るように抱きしめながら、こちらを見下ろす村長に向けてクナイを構え続けた。ニィナを無事に返されたとはいえ、まだ村長相手に警戒を続けているらしい。

 しかし、もちろんだがニィナは、村長が敵でないことをちゃんと知っていた。そのため、ジンの胸元で頭をグリグリと押し付けると、ニィナは赤くて丸い瞳でジンの顔を見上げながらすかさずこう言った。

「ジン、待って!この巨人さんはね、メーナが話してたあの村長さんだよ……ほら、ずっと鍛冶場にいたっていう巨人さん!ニィナのためにね、さっきまで義手ってものを作れるかどうか見てくれてたの!」

「……まぁ、結局無理であると言うことが分かっただけじゃがのう。そやつは体が小さ過ぎる。それに、仮に作ったところで、義手を体につける時の痛みにも耐えきれんじゃろう。」

「義手、か……そう言えば、俺が昔住んでいた村でも、義肢をつけて活動していた者が何人かいたな。また懐かしいものを……」

 ニィナから“義手”という単語を聞いた途端、ジンは一転して体を弛緩させてから何やら穏やかな声音でそう呟いた。同時に警戒心もある程度解いたのか、それまで構えていたクナイを素早く懐にしまい込んだ。しかし、まさかジンの口から『懐かしい』なんて単語が出るとは思わず、ニィナは驚きで再び目を丸くしてポカンと口を開けた。すぐ近くでそれを聞いていた村長の目も、どことなく興味深そうに微かに見開かれる。

 思えばニィナは、ジンの生まれ故郷についての話を一切知らなかった。これまでジン本人の口から、ニィナ相手にほとんど語られなかったからだ。ジンの服装からして(ひがし)方面の国であることは分かっていたが、それ以上の詳しい話は何一つ聞かされていなかった。ニィナの方から聞けるタイミングは、いつでもどこにでもあったはずなのに。

 せっかくだから、もう少しその話について知りたいと思ったニィナは、ジンに甘えるように身を寄せつつ猫耳と尻尾を左右に揺らしたと。しかし、ニィナが声に出して懇願するよりも先に、村長はジッとジンの姿を見つめながらおもむろに彼に尋ねた。

「黒き肌の人間よ……お主、出身は何処じゃ?東の出なのは、服装を見ればなんとなく分かるが。」

「……和ノ国の端にある、イバラ村だ。ここよりもずっと製鉄業が盛んで、義肢の制作も積極的におこなっていた……もう、昔の話ではあるがな。」

「あぁ……数年前の百妖夜行で、ほとんどが潰えた(・・・)あそこか。風の噂ではあるが、そう聞いておるぞ。」

 ―――潰えた―――

 村長が何気なくそう呟いた瞬間、ニィナの体はいきなり水を頭からかけられたかのように冷たく固まった。それまで純粋な好奇心に満ちていた彼女の表情も、共にピシッと強ばる。対するジンも昔のことを思い出したからか、ニィナの体をギュッと抱きしめながら少し苦しそうに眉をしかめていた。

 潰えた、という言い方。その言葉にはとどのつまり、“滅んだ”という意味合いも含まれていることになる。

 どうやら村長によると、ジンが元々暮らしていたイバラ村という場所は、何かしらの理由で数年前にほとんど滅んでしまったようである。村長は『百妖夜行』だと話していたが、生憎ニィナはその百妖夜行についてあまりよく知っていなかった。猫妖精の一族自体が、百妖夜行とほぼ無縁だったがゆえである。唯一ニィナでも知ってるのは、多くの妖たちが協力して人間たちと戦うということぐらいだった。

 まさか、その百妖夜行の時にジンの故郷である村が襲われて、壊滅してしまったというのだろうか。仮にそうだとしたら、ジンがニィナと出会うまで、たった一人で有害な妖を討伐する旅をしていた理由も何となく分かる気がした。

 それでも無垢な少女は、より詳しい話を聞きたくなったため更にジンに問いかけた。聞けば聞くほど、どれだけジンが苦痛を覚えたような表情を見せることになっても。

「ジンの住んでたところって、もしかしてもう無いの?数年前に起きた、百妖夜行って奴で一体何があったの?お願い、ジン。ニィナ、知りたいの。ジンの生まれた村と、ジン自身に何があったのかを……ねぇ、教えてよジン!」

「何も聞くな、にぃな。全て忘れろ……お前には、関係のない話だ。」

「そんなことないよ!今のニィナは、いつもジンと一緒にいるでしょ?それなのにニィナ、ジンについて知らないことの方がいっぱいあるもん……だからニィナ、ジンのこともっと知りたい!何も知らないまま、ジンのそんな苦しそうな顔なんて見たくないよ……!」

「ど、どうしただよ二人とも?こんな真夜中に喧嘩か?」

 気付かぬうちにニィナとジンでの言い合いがヒートアップしかけたその時、今度は不意にござの奥から呑気な声が聞こえてきた。端の方で寝ていたはずのドロゴの声だ。どうやら白熱したニィナの声が予想以上に大きくなっており、そのせいで今になって起きたらしい。ハッと我に返ったニィナは申し訳無さそうに口を噤んだが、それまで無言だった村長は深く息を吐きながら、ノソノソと起き上がるドロゴを一瞥して呟いた。

「ドロゴ、お主も起きたのか。まぁ、これだけ騒がしくしておれば、無理はないかのう……お前の寝場所が村の端の方で助かったわい。他の奴らまで起きてきたら、なにかと面倒なことになってた。」

「お、オイラのことは気にしなくていいよ、村長……それより、村長がこんな真夜中に、鍛冶場の外に出るなんて珍しいね。ジンさんたちとなんの話をしてたんだ?」

「あ、あのね、ドロゴ……ニィナ、義手って奴が欲しいの!でも村長さんは、ニィナの体が小さすぎるから作れないんだって。それでね、ドロゴはその義手って奴作れる?それか、他に作れそうな巨人さんとか知ってたりする?」

「おい、にぃな……!」

 ニィナは一瞬の隙をついてジンの腕から離れると、机の上をトテトテと駆け抜けてドロゴの元に近づいた。そして、転ばないようにバランスを取りつつ、希望に満ちた眼差しをドロゴに向けながら彼に尋ねた。ジンがすかさずニィナの元に接近して、必死にぴょんぴょんと飛び跳ねていたニィナを慌てて取り押さえる。対して村長はその場に突っ立って腕組みをするだけで、特に口を挟んでくる様子はなかった。

 ドロゴはしばらく不安そうにチラチラと村長を一瞥していたが、途中から申し訳無さそうに頬をかきつつニィナに言った。

「うーん、オイラも一応鉄は打てるけど、腕も才能もそんなに無いからなぁ。でも、そうだなぁ……もしかしたら、イアリスなら作れるかも―――」

「ドロゴ!儂の前で、忌々しい奴の名を口にするなと、何度も言っとるじゃろうが!」

 ドロゴが例の小さな巨人、イアリスの名前を口にした瞬間、村長は突然目をギョロッと見開きながらそう怒鳴った。予想以上の声量がドロゴの居住空間に響き渡り、ドロゴだけでなくジンとニィナも反射的に思わずビクッと体を震わせる。

 巨人らしからぬ身長ゆえに、イアリスという奴が村長を含めた同胞たちから嫌われている話は、ジンもニィナも既に知っていた。ドロゴがボソッと呟いただけでもこの怒りようなので、村長は特にイアリスのことを嫌っているのだろう。

 しかしドロゴは、巨人よりは人間にほど近い身長のイアリスだからこそ、ニィナのような幼子向けの義手が作れるのではないかと考えていた。巨人族が作る鉄製品となると、投石機やら重たい防具と言った形で、どうしても大人向けの重量及び大きさのあるものばかりになってしまう。だが、その一方でイアリスはそれ以外にも、そこそこ若い人や小さい人でも使えるような鉄製品を度々売りに出していた。ずっと昔からイアリスの傍に居たドロゴは、彼がそういった“巨人だと少し困難な作業を要する物品”を、難なく制作できる技術力を持っていることをちゃんと知っていたのだ。

 それゆえに、いきなり村長に怒鳴られてビクビクと怯えつつも、ドロゴは屈することなく果敢に顔を上げて村長に言った。

「ご、ごめんよぉ村長……!でもイアリスならきっと、ニィナちゃんの希望に添ったものが作れるはずだぁよ。イアリスはオイラよりもずっと腕がいいし、手先も器用だ。だから、そこそこ小さな物もすぐに作れるはずだよ。やっぱりオイラ、ニィナちゃんのためにもイアリスを探すべきだと思―――」

「えぇい、たわけが!何度も何度も、恥さらしのイアリスの名前を呼ぶんじゃあない……もうよい、全員さっさと寝ろ!そして明朝には、とっとと村を出ていけ!探したければ勝手に探せば良い……もし道中で死んだとしても、儂は一切責任など負わんからな!」

 しつこくイアリスの名前を聞かされて、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、村長は机をバンッと強く叩きながら目をクワッと大きく見開いた。ちょうど机の上にいたせいで、地震と見間違うほどの勢いに巻き込まれたジンとニィナが、慌ててお互いの体を抱きしめあってバランスを取り合う。ドロゴも二人を守るために机を押さえたが、村長はそのままフンッと鼻を鳴らすと、憤然とした足取りでその場を後にした。老体ゆえの皺だらけで痩せこけた村長の背中が、偽物の月光の下でどこか儚げに照らされていたのだった。

 しばらくしてから、鍛冶場の前に戻った村長が例の扉を開けて中に入る音が微かに聞こえてきた。元々ドロゴの居住スペースが村の端っこに位置してるゆえか、あれほど村長が怒鳴っていながらも、他の場所で寝ている巨人たちが起きてくる気配は全くなかった。机の揺れも早くに収まり、ジンに体を支えられたニィナがホッと安堵の息を吐く。

 すると、ドロゴは額に浮かんだ冷や汗を片手で拭いながら、ジンたちの方に目を向けてひどく申し訳無さそうに己の指を交差させた。そのままの体勢で、ニィナを抱えて寝場所に戻るジンに向けてドロゴが呟く。

「ご、ごめんなぁ、ジンさん……村長、カンカンに怒っちまっただ。オイラもイアリスのことを考えてたら、つい熱がこもっちまっただよ。本当にごめんなぁ。」

「……いや、構わん。村長がいありすとやらを毛嫌いしている話は、既にお前からも聞いている。むしろ、こんな夜遅くに起こして悪かったな、ドロゴ。明日に障るから、俺たちもそろそろ寝よう。な?」

 ジンは優しく諭すようにドロゴにそう告げると、毛布が放置されていた寝場所に座ってニィナを横たわらせた。流石に、あの苦痛に満ちた表情をニィナやドロゴの前で見せることはなかった。だが、それでも悲しみや寂しさと言った負の感情が、ニィナを寝付かせようとするジンの顔にまだ少しだけ浮かんでいた。

 ドロゴが起きる前のあの拒絶具合を見ても、先ほどと同じようにジンの過去について追及するのはもはや無理だろう。どうせ知る必要は無いとか、関係の無い話だと言われて強引に遮られてしまうだけだ。

 せっかくジンのことをより知ることが出来ると思ったのに。ジンに毛布を被せられながら、頭の中でそう考えたニィナがひそかに不満げに頬をふくらませる。

 しかし、その直後ニィナは、例の義手に関する話題が途中で終わっていたことにようやく気づいた。それと同時に、自分が義手をつけることについて、ジン本人はどう思ってるのかという疑問をふと抱いた。

 義手が自分で自由に使える腕になると言うのならば、ニィナも喜んでそれを付けることを望んだだろう。ジンもニィナの世話をするための負担が減るし、迷惑をかける機会も減るはずだ。

 しかし、その一方でジン自身がそれを望んでいるかどうかは、まだよく分かっていなかった。ジンは常々、彼女に向けて『自分はニィナの腕の代わりとして動いている』と話していた。つまり、ニィナの世話や面倒を見ているのは自分の意志によるものだと、ニィナ本人に直接伝えていたのだ。ジンは見るからに真面目そうな男なので、無理をしていたり嘘をついていたりする様子は全く感じられなかった。

 しかし、だからこそニィナは推測することが出来なかったのだ。あらゆることをあまり素直に語らない、ジンの心中および、彼自身のニィナに対する思いなどを。

 少し離れた場所から、ドロゴがござの上で仰向けに寝転がる音が聞こえる。その直後、ニィナは自身の体を毛布越しに優しく叩いているジンに向けてついに小声でこう尋ねた。

「ねぇ、ジン……ジンは、ニィナに義手があった方が嬉しい?いちいち抱っこしなくて済むから、義手はあった方がいいよね?どれだけ作るのが難しくても、つけるのが痛くても、ニィナはジンのためなら全部我慢するよ。だから……」

「にぃな、義手のことは一旦置いておけ。今は件の人喰い魔女に集中するんだ……義手のことは、魔女を討伐し終えた後にゆっくり話そう。焦る必要は全く無いし、無理をする必要もない。お前の腕の代わりは、お前のすぐそばにいるんだからな。」

 ジンは再び諭すような口調でそう呟くと、言葉を遮られたニィナの頭を片手で優しくそっと撫でた。夜風がたまに吹いていながらも、いつも通り暖かなジンの手がニィナの柔らかい髪の毛を丁寧に梳く。その手の優しさと共に、ジンの穏やかな目に見つめられたニィナは思わず何も言えなくなって小さく息を吐いた。本当に今のジンは、自分の腕の代わりとして生きているのだと改めて知らされたからだ。それがもし本心からの言葉でなければ、ここまで優しく頭を撫でたり、体を温めるように抱きしめてくれたりなんてしないはずである。転ばないように頻繁に支えてくれたり、常にご飯を食べるのを手伝ってくれることも―――

 次第に胸の奥が微かに熱くなると同時に、ニィナの心はモヤモヤと(もや)がかかったように白く霞んだ。義手を得るべきかジンの意志を尊重するかで、ニィナの中に一種の迷いが生じたからだ。

(……義手……もし付けられるのなら、やっぱり付けてみたいな。その義手ってのがあれば、今度はニィナからジンのことを、こうやって撫でたり抱きしめたりすることが出来るはずだもん。でも、ニィナのために頑張ってるジンの思いも、無駄にはしたくない。ジンが望んでしてることを、ニィナのせいで全部台無しになんてしたくない……ニィナ、どっちを選べば良いんだろう……?)

 ジンの暖かな手の温もりによって、ニィナの目が少しずつウトウトと微睡むようになる。ジンは我が子を見守る父親のような眼差しでニィナの顔を見つめると、彼女の体を両の手で守るようにそっと抱きしめた。

 黒い手甲に覆われた彼の手は、もう二度と離したくないと言わんばかりにニィナの服をギュッと握りしめていたのだった。




***



 翌朝―――




 しとしとと小雨が降りしきる空の下。

 早くに起床したドロゴとジンは、未だに眠たげなニィナを連れて足早に村を出た。昨夜のことを知らないメーナからは、流石に「こんな朝早くから出かけるのかい?」と尋ねられた。が、下手に長居してのちに村長からとやかく言われるのも面倒だった。そのためドロゴたちは、メーナに軽く事情を説明してから素早く目的地に向かったのだった。例の鍛冶場はその時点で稼働していたようだが、結局ドロゴたちが出かけるまで、村長が外に出てくることはなかった。

 そんなこんなで、ドロゴと共にようやく屋敷に向けて出発したジンとニィナは、メーナの好意で巨大な合羽代わりの布を与えられていた。とはいえ単に巨大な布を被せられただけなので、そこそこ背の高いジンの体はニィナごと頭からすっぽりと覆われていた。その状態では流石に歩きづらいということで、道中は昨日と同じようにドロゴが二人を運搬するととなった。

 しかし、ジンとニィナはここでちょっとした問題に遭遇した。ドロゴが屋敷を見たという件の山までの距離が、想定していたよりもはるか遠くにあったのだ。ドロゴ曰く、片道だけでも徒歩で最低でも半日程度はかかるらしい。おまけに、朝から薄暗かった空は次第に暗さを増すようになり、それに応じて雨足も自然と強くなった。そのせいで途中途中に休憩を挟みながらも、気づけばドロゴたち一行は雷混じりの豪雨に巻き込まれてしまったのだ。メーナが与えてくれた巨大な布が無ければ、ジンたちの全身がびしょ濡れになっただけでなく、雨が苦手なニィナの体力も大きく削られていただろう。それでも流石に完全に雨を凌ぐことは叶わなかったので、ニィナはジンの腕の中で終始怯えるようにぎゅっと目を閉じていた。ジンもできる限りニィナが濡れないように布をかぶせ、ドロゴも二人のために急ぎ足で石と土まみれの道をひたすら進み続けた。

 そうして、村を出てからおよそ半日が経過した頃―――岩だらけの山岳地帯にはあまり相応しくない、多少の緑が広がる山奥にて。

 おもむろにその場でパチパチと瞬きしたドロゴは、ハッと息を飲んで手を軽く掲げながらジンたちに言った。

「じ、ジンさん、ニィナちゃん!あれが見えるか?あの真っ黒な建物……あれが、オイラが見た例のお屋敷だよ!」

「……!」

 ドロゴの手の上で少し身を休めていたジンが、ニィナを大事そうに抱えつつドロゴの示した先をジッと見つめた。ニィナも布から無理やり顔を出して、ジンの腕の内側からチラッと遠くを見つめる。

 多少の草木が生い茂る道の向こう。そこには、たしかにドロゴの言う通り大きな屋敷が建っていた。空が薄暗いせいもあるだろうが、色は不気味なほど全体的に黒い。遠目で見た限りだと、室内で明かりが灯っている様子すらも確認出来なかった。とはいえ、この険しい山岳地帯の中では、やはり異様に目立つ建築物である。周りに庭などは一切無く、山岳特有の地肌が丸見えなので尚更だ。例の魔女が建てたものなのだろうか。仮にそうだとしたら、一体何のためにこんな場所に建てたのだろうか。ようやく巡り会えた場所と言えども、見れば見るほどそれにまつわる謎は深まるばかりだった。

 雨水が前髪に触れてぶるりと震えるニィナを、ジンが咄嗟に抱きしめつつ警戒気味に目を伏せる。そして、背後にあるドロゴの顔を見上げながらジンは彼に言った。

「このまま下手に近づくと、またお前が例の蛇に襲われる可能性がある……だからドロゴ、ここで下ろしてくれ。ここから先は、俺とニィナだけで行動する。」

「!?さ、流石に二人だけは危険だよ!ジンさんたちもオイラと同じように、近づいた途端に無数の蛇に囲まれたりしたら……!」

「問題ない。仮にそうなったら、迅速に撤退すればいいだけの話だ。それに、このまま行くよりは旅人の風を装って接近した方が、向こうからもあまり警戒されないはず……無垢なお前まで巻き込むつもりはないんだ。後は俺たちに任せてくれ。」

 すかさず危険性を考慮して止めようとしたドロゴに対して、ジンは淡々とそう返しながらニィナと共に素早く地面の上に降り立った。大雨の影響で既に濡れきっていた地面から、ジンが着地すると同時にバシャッと冷たい水が跳ね上がる。

 巨人のドロゴが多数の蛇を用いて追い返されたというのなら、巨人ではないジンとニィナだけで屋敷に向かえば、たしかにまた何か変わるかもしれないだろう。しかし、ドロゴはそれでも不安そうに両手を揉みながら、終始オロオロと目を泳がせ続けた。自身が一人で屋敷に近づいた時の記憶を、謎の蛇に囲まれた当時の恐怖をここで鮮明に思い出したからだ。自身は巨人なのでどうにか逃げ仰せたものの、人間であるジンたちがあの数の蛇に囲まれたら一溜りもないとドロゴは考えたのである。

 しかし、何かを言いかけたジンの代わりに、ニィナが布の奥から顔を覗かせてドロゴに言った。

「ニィナ、蛇さんが苦手だから、正直今もちょっとだけ怖いよ……でも、ジンがそばに居るから平気。ジンが近くに居るとね、ニィナ、不思議と勇気が湧いてくるの。ジンはとっても強いからね。だから、心配しなくても大丈夫。ドロゴをいじめた悪い魔女さんは、ジンが絶対にやっつけてくれるんだから!」

「……ニィナちゃん……」

 やけに自信満々に話すニィナの横で、ジンがどこか居心地の悪そうな表情を見せつつ顔を逸らす。どうやらニィナから熱い信頼を寄せられて、少し照れているらしい。布の下から見える目が、動揺して微かに揺れている。

 ドロゴは思わずフフッと小さく笑うと、己の指先でジンとニィナの頭を軽く撫でた。そして、ジンたちの姿を見下ろしながら、どこか寂しそうながらも明るい口調で続けて言った。

「だったら、オイラとはここでお別れだな……でも、オイラは信じてるだよ。もしあの屋敷に行って魔女に襲われても、二人なら生きて帰ってきてくれるって。だから、オイラは村で、二人の帰りを待つことにするだよ。あと……もし良かったら、イアリスのことも頼むだぁよ。」

「……そうだな。余裕があれば、いありすの行方も探してみる。生死のほどは不明だが、もしかしたらあの屋敷の中に囚われているかもしれないからな。」

 ドロゴから紡がれたイアリスの名を前に、ニィナの体を抱え直したジンがコクリと小さく頷く。思えばイアリスも、別の者によってこの山に登った姿を目撃されていた。本人があの屋敷を見つけたかどうかは分からないものの、平気で余所者相手に無数の蛇を仕向ける魔女のことだ。イアリスが彼女に目をつけられて、すでに捕まっている可能性も少なからずあった。

 魔女の討伐とイアリスの捜索。それがジンとニィナにとっての当面の目的になりそうだった。

 冷たい雨の下でジンは小さく息を吸い込むと、いつの間にかこちらを見上げていたニィナの顔を見て再びコクリと頷いた。前髪についた雨水を振り落としつつ、ニィナも真剣な表情を浮かべながら力強く頷く。

 こうしてドロゴと別れたジンとニィナは、メーナから与えられた大きな布を引きずりながら道を進んだ。大雨の影響で地面はすっかりぬかるんでおり、雨粒が近場の木々にあたるパラパラという音がやかましく鳴り響いていた。その騒音と雨の冷たさの二重苦に陥ったニィナだったが、布の中でジンに強く抱きしめられていたお陰で、どうにか正気を保つことが出来ていた。蛇が出るかもしれない不安に内心怯えつつも、ジンのことを信じて泣き言すらいわずにグッと身構える。

 だが、ジンたちが徒歩で屋敷に近づいても、ドロゴの話していた蛇とやらは全く現れなかった。視界が不明瞭なほどの大雨だからだろうか。それとも、遠目から見ても目立つドロゴが近くにいないからだろうか。今となっては距離が離れたことで、巨人であるドロゴの姿すらほとんど見えなくなっている。ジンもニィナも事前に警戒していたので拍子抜けはしたが、こんな視界の中で死角などから襲われないだけむしろマシだろう。頭の中でそう考えながら、ジンはニィナと共に数分ほどかけて、ついに屋敷の入り口にまでたどり着いた。

 件の屋敷は、近づけば近づくほど想像以上にかなりの大きさを有していることが分かった。入り口にあたる豪華な作りの扉も、ジンの背丈より二回りほど大きい。明らかに重たそうでもあるので、大の大人が一人で開けるのには少し苦労しそうだ。まぁここに住んでいるのは魔女なので、魔法などを用いて開けることも可能なのだろうが。

 ジンはしばらく周りを見渡したのちに、布の下で寒そうに震えているニィナを抱きしめながら小声で彼女に言った。

「にぃな、よく聞け。今から俺たちは、たまたまこの辺を通ってきた旅人の(てい)で、この屋敷の中に潜入する。相手は平気で人を食うと言われている魔女だ。仮に奴から歓迎されたとしても、あまり油断はするなよ?魔女のことも、奴の前ではあまり表立って口に出さないように……いいな?」

「う、うん。分かった……なんか、すごくドキドキするね、ジン。」

 少し緊張しながらも純粋な好奇心は抑えられないらしく、ニィナが布の下で小さく微笑みながらそう呟く。呑気に笑ってる場合かと言いたそうに、ジンは軽く肩を竦めながら目の前の扉に向けてスッと手を伸ばした。ドアノックなどは見当たらないので、代わりに直接手でコンコンと扉を叩く。

(もう)し、申し。こちらは旅の者。外が大雨ゆえ、こちらに一晩泊めていただきたく(そうろう)。」

「……その言い方、なんかすごくかっこいい……!」

「そんなことを言ってる場合か。それより今は気を引き締めて―――」

 思わずキラキラと目を輝かせるニィナに対して、ジンが少し呆れた様子でため息を吐きながら言葉を紡ごうとする。だがその直後、ジンがドアをノックしてから数秒も経たぬうちに、目の前の扉がゆっくりと外側に開き始めた。雨音に混ざって、ギィイ…とひどく軋んだ音が周囲に響き渡る。ジンに見蕩れて完全に油断していたニィナは、思わずヒッと悲鳴をあげながら目を閉じて身を縮こませた。ジンもすかさずニィナを守るように抱きしめて、少しずつ見え始めた屋敷の内部をジッと睨んだ。

 それから数十秒ほどかけて、屋敷の扉は外にいるジンたちを迎え入れるように大きく口を開けた。それと同時に、それまで消えていた室内の明かりが一斉にパッと灯される。とはいえ室内の光源は、天井にある巨大なシャンデリアと壁にかけられた無数のロウソクぐらいしかなかった。そのため全体的に室内はまだまだ薄暗く、外から見ただけでは奥に向けて異様に長い廊下が伸びていることしか把握出来なかった。

 やけにすんなりと招かれたことで逆に警戒心を高めつつも、ジンは布の内側にニィナを匿いながら室内にそっと足を踏み入れた。扉はしばらく開いたままだったものの、ジンたちが数メートルほど扉から離れた瞬間にバタンッと勢いよく閉まった。どうやら外に帰すつもりは毛頭ないらしい。すっかり怯えて固まるニィナとは対照的に、まぁそうなるだろうなと事前に予想していたジンは小さく息を吐いた。そして、柱と窓ばかりが並ぶ左右の壁を見つめつつ廊下の先へと足を進めた。

 真っ直ぐ伸びた廊下の半分ほど、ちょうど巨大なシャンデリアの真下に到着したタイミングで、ジンはふと薄暗い道の奥に向けて目を凝らした。彼の視線の先に、二階に直結した長い階段が少しだけ見えたのだ。一階にあたるこの場所はいわゆるエントランスホールで、実際の居住空間は二階に集中しているようだ。西洋の建築物に疎いジンにとっては、特に何の変哲もない構造のように見えた。しかし、産まれた時からお城の中で暮らしていたニィナにとっては、少し違和感を覚えるものだったらしい。雨に濡れて重たくなった布を頭だけで退かして、何やら訝しげにキョロキョロと周りを見渡している。同時に猫耳もピクピクと震えているので、ジンの耳には聞こえない何かしらの音も拾っているようだ。すぐに階段を登ることはせずに、ニィナを抱え直したジンがすかさずその場で立ち止まって身構える。

 すると、不意に階段の上層部からコツンと何かを叩くような音が聞こえてきた。その音は次第に定期的に響くようになり、カツンカツンという足音のようなものも共に聞こえ始めた。それらの音は流石にジンの耳にも届いたので、ジンはニィナと一緒に先の見えない階段の上層部をジッと睨みつけた。

「……そんなに警戒なさらないで、旅人さん。すぐにお迎え出来なくて、ごめんなさいね。さっきまでちょっとした雑用に追われていたのよ。」

 突然、上層部の奥から妖艶な女の声がジンたちの元に響き渡った。そして、乾いた足音と共に上層部に現れたのは、やたらと長さのある杖を持った若い女性だった。黒い長髪をツインテールの形でまとめており、顔には美しい装飾が施された仮面が嵌められていた。仮面のせいで顔そのものはほとんど見えないが、これまた黒い袖なしのドレスから見える腕や足は、若い女性らしく非常に細くてしなやかだった。彼女の持つ杖の先端にはどうやら宝石が埋め込まれているらしく、薄暗い上層部の中でも緑色の淡い光を時おり煌めかせていた。

 見るからに怪しげな雰囲気のあるその女は、階下にいるジンたちを見下ろしながらくすくすと笑いつつ、続けて流暢に言葉を放った。

「初めまして、旅人さん。私はラキラ、この屋敷の主よ……こんな辺鄙(へんぴ)なところにお客様が来るなんていつぶりかしら。冷たい雨のせいで大変お疲れでしょう?こちらにいらっしゃい、素敵なお部屋に案内してあげるわ。」

「……あぁ。かたじけない。」

 女自身や周囲から伝わる、なんとも言えない不気味な雰囲気を感じながらも、ジンは素直に感謝を告げてペコッと頭を下げた。しきりに猫耳を動かしていたニィナも、ジンに釣られて慌てて頭を下げる。ラキラと名乗った女は満足そうに再びくすくすと笑うと、くるりと踵を返して二階の奥へと消えていった。雨に濡れた布をバサッとかきあげるジンに対して、ラキラの消えた階段の上層部を見つめていたニィナがボソッと呟く。

「なんか、あれだね……すごく怪しそうだけど優しそうにも見えたよね、あの人。本当にあの人が、ジンの言ってた魔女さんなの?」

「俺の集めた情報が正しければな……でも、騙されるなよにぃな。魔女はあらゆる魔法を操ることが出来るんだ。その中には、人を騙すことに特化したものもあると聞いている……だから、相手が優しそうだからと言って警戒は怠るなよ。ドロゴの話していた例の蛇たちだって、いつ俺たちの前に現れるのか分からないんだから。」

 ジンはニィナを窘めるようにそう説き伏せると、途端に緊張でピシッと強ばるニィナを抱えたままついに階段に一歩足を踏み出した。おそらく高級なカーペットに覆われているのであろうその階段を、雨に濡れた布を容赦なく引きずりつつ慎重に登っていく。

 二人の立ち去った階下では、豪華ながらも少し古びた巨大なシャンデリアが、風が吹いていないにもかかわらず少しだけ左右に揺れていたのだった。




***




 数分後―――




「こちらよ、旅人さん。どうぞ中に入って。」

 階下のよりも幅の狭い廊下の中で、ラキラはそう呟きながらとある部屋の扉をガチャリと開けた。ニィナを大事そうに抱きしめつつ、ジンがラキラの隣でそっと部屋の中を覗き込む。

 ラキラが用意した部屋は、キングサイズのダブルベッドや大きなソファー、そしてローテーブルなどが置かれたそこそこ広いものだった。どの家具にも見るからに豪華な装飾が施されているが、光源は少ないのでやはり少しだけ薄暗かった。

 ラキラが片手で扉を押さえたまま、ジンたちに向けて中に入るよう頭を動かして促す。やはり仮面のせいで表情そのものは全く窺えない。しかし、なぜか彼女の持つ杖の先端からも謎の視線を感じるような気がする。その不気味さから多少の不快感を覚えつつも、ジンは軽く頭を振って素直に部屋の中に入った。ニィナを先にベッドに下ろしてから、濡れたせいでむしろ暑苦しくなっていた布を外してソファーの上に置く。高級そうな家具に汚れた布を置かれてもなお、ラキラは特に追及することなくいそいそと室内に入って扉を閉めた。てっきりそのまま部屋を出ていくものだと思っていたのに。

 ジンはすかさずニィナを庇うように彼女の前に躍り出ながら、それでも丁寧な口調でラキラに尋ねた。

「……我々を歓迎してくれるのは有難いのですが、なぜあなたまで部屋の中に居るのですか?我々に対して、何か重要なお話でも?」

「あら。こうやってプライバシーを侵害されるのはお嫌いなのかしら?だとしたらごめんなさいね。あなたの服装がとても珍しくて、つい気になって見蕩れてしまいましたの。」

 ラキラは上品な口調でそう言葉を返すと、長い杖の先端をおもむろに机の上に向けてトントンと軽く叩いた。その瞬間、冷たい風がフワッと吹いたと同時に、机の上がパァッと明るく輝いた。攻撃か何かだと考えて咄嗟に身構えたジンだったが、光が消えた直後机の上に現れたのは、バスケットいっぱいに詰め込まれた美味しそうなパンの山だった。表面はこんがりとほどよく焼けており、作りたてなのか湯気も立っている。

 どうやらラキラの持っている杖は、ある程度の魔法を扱うことが出来るものらしい。ということは、目の前にいるこのラキラという女が、例の魔女本人とみて間違いないようだ。

 しかし、本来の彼女は周囲から“人喰い魔女”と呼ばれて恐れられているはずの存在だ。何も無いところから美味しそうなパンを生み出したのも、もしかしたらこちらを油断させるための罠かもしれない。

 魔法を扱う瞬間はこの目で確認した。後は、人喰い魔女としての本性が現れるその瞬間を見届けなければ。

 しかし、ジンが頭の中で悶々と考え込む傍らで、ベッドに座っていたニィナはキラキラと目を輝かせながら素早くピョンッと飛び降りた。ラキラが持参したパンの美味しそうな匂いにまんまとつられてしまったのだ。そのままジンの制止も聞かずに、ニィナは机の前で頻繁に飛び跳ねながらラキラに言った。

「すごいすごい!美味しそうなパンがいっぱい!これ、全部食べていいの!?」

「ええ。あなたたちはどちらも、長旅の果てにこの屋敷に来てくれた、大切なお客様。そして、お客様相手にそれ相応のおもてなしをするのが、家主である私の務めでもあるのよ……別に遠慮なんていらないわ、冷めないうちにどうぞ。」

 ラキラは杖をソファーの傍らに置きつつそう言うと、さも当然のようにそのソファーに座って足を組んだ。やはりすぐに退室するつもりは無いらしい。ラキラの付けている、笑顔で固められた仮面の奥から、くすくすと小さな笑い声が聞こえてくる。

 とはいえニィナは両腕が無いため、今にも食べたそうに涎を垂らしているものの、実際に手に取って食べることは叶わなかった。それをいいことに、ジンはすかさずニィナのそばにしゃがんで彼女の耳元で小さく囁いた。

「おい、にぃな。迂闊に手を出すなと言ってるだろ。相手は俺たちが今まで探していた、人喰い魔女本人なんだぞ。この食べ物に毒でも盛られていたらどうするんだ?」

「で、でも……ジンもニィナも、朝に乾いたお肉を一切れしか食べてないんだよ?ニィナ、流石にお腹空いちゃったよ。ちょ、ちょっとだけ……一口かじるとかでも、だめ?」

「あらあら。二人揃って、なにをヒソヒソとお話してらっしゃるのかしら?私だけ仲間はずれだなんて、流石にちょっと寂しいわ。」

 目の前で露骨にコソコソと話をしたためか、どこか見かねた様子でラキラがジンたちの方に顔を覗き込む。向こう側にある顔が見えない仮面に見つめられたことで、ニィナは思わず悲鳴をあげながらジンの背中に隠れた。対するジンはニィナを庇いつつ、机の上に置かれたままのパンをジッと睨みつけた。

 たしかにニィナの言う通り、早朝に出かけた影響で今に至るまで、ジンたちはドロゴから渡された干し肉の欠片しか食べていなかった。その上で半日近く移動したのだから、ここに来て空腹が刺激されてしまうのも無理はなかった。かといって、ニィナの希望に応えてなんの疑いもなしにパンを食すのも危険である。相手が人喰い魔女と称されている女である以上、ジンとしては彼女の与える食べ物に気安く触れることが出来なかった。

 しかし、ニィナはジンよりもずっとお腹を空かせていたようで、不意に彼女の腹の虫が盛大にぐうぅと鳴り響いた。途端にカァッと顔を赤く染めたニィナが、ラキラから隠れるようにしてジンの背中に顔をぐりぐりと埋める。対するラキラはくすくすと笑うばかりで、それ以上ジンたちに向けてなにかしてくる様子はなかった。

 このままニィナに我慢を強制しても、幼子ゆえにしつこく強請られるか拗ねてしまうだけだ。そう考えたジンは深いため息を吐くと、片手でニィナの頭を撫でつつ、もう片方の手でバスケットにあったパンを一つ手に取った。パッと見ではただの美味しそうなロールパンだ。フワフワと柔らかい上にほどよく暖かい。しばらくそのパンを見つめたジンは、ラキラから顔を背けてニィナの方に体を向けた。そして、それまで口元を隠していたマスクを、ラキラには見えないようにぐいっと一気に下ろした。途端に、今までずっと隠されていたジンの口元が露わになる。そして同時に、彼の唇の端に刻まれた、生々しい三つの傷跡もニィナの目に映り込んだ。まるで、巨大な獣か何かに引っかかれたかのような傷跡だ。ジンの口元そのものを初めて見たニィナが、思わず目を丸くしてジンの前で黙り込む。昨日村で夕飯を振る舞われた時も、前述の干し肉を渡された時も、ジンは決して一口も食すことなくニィナの介抱に専念していたので尚更だった。

 対するジンは手早くロールパンを半分にちぎると、片方の匂いを軽く嗅いでから素早く口の中に放り込んだ。そのままマスクを元の位置に戻して、無言でもぐもぐと咀嚼する。先にニィナがパンを食べる前に、自らの手で毒味をしているのだ。すぐ近くからラキラの鋭い視線を感じつつも、不安そうにジンの顔を見つめながらニィナが恐る恐る彼に尋ねる。

「ど……どう、ジン?美味しい?」

「……あぁ。毒がある様子は無い。異様な甘味や、苦味なども感じない。普通に食える。」

「あらやだ。毒だなんて、そんな物騒なものを大切なお客様相手に使ったりしないわ……あぁ、良かったら甘くて美味しい紅茶はいかがかしら?こちらも普通の紅茶よ、毒なんて少しも入ってないわ。」

 毒という単語を聞いた瞬間、ラキラはケラケラと朗らかに笑いつつ、再び杖を手に取って机をトントンと叩いた。その瞬間、今度はバスケットの隣に、豪華な装飾のお盆に乗せられたティーセットが現れた。出現したのは今さっきだというのに、二つ用意されたカップの中にはすでに暖かい紅茶が、たっぷりなみなみと注がれていた。こちらも心地の良い甘い香りがして、パンと同じく見るからに美味しそうだ。

 ラキラの方に体を向け直したジンは、残りのパンを一旦別の皿に置いて、紅茶の注がれたカップをひとつスッと手に取った。そして再びラキラから顔を背けて、マスクを下ろしてから紅茶をズズッと啜った。そんな一気に飲んで熱くないのかなと、猫妖精ゆえに猫舌なニィナが思わず毛を逆立てて眉をひそめる。

 どうやらジンは、他人に己の口元を見せることを極力避けているらしい。あの生々しい傷跡を、相手に見られるのが嫌なのだろうか。何にせよ、自分にだけその口元を見せてくれたのが何だか嬉しく思えて、ニィナは無意識のうちにニコッと小さく微笑んだ。そんなニィナに対して、普通の茶の如く紅茶を飲んだジンはマスクを戻しつつラキラの方に体を向けて呟いた。

「……思ったよりも甘かったが、こちらもたしかに毒などは無さそうだ。特に問題も無く飲める。」

「もう。本当に警戒心の強い旅人さんね……でも、どちらも“魔法”で生み出したものだから仕方ないのかしら。だってあなた、見るからに魔法とかにはあまり詳しく無さそうだもの。」

 ラキラは苦笑混じりにそう言葉を返すと、手に持っていた杖を横向きにして膝の上にそっと置いた。黒い手袋をつけた彼女の右手が、少し曲がった杖の先端を優しく撫でる。そこに嵌められていた緑色の宝石は、少し暗い部屋の明かりの下で相変わらず煌々と光を放っていた。

 だが、ラキラの発言で少し不貞腐れながらも違和感を覚えたジンは、ニィナにパンの切れ端を与えつつその宝石をジッと睨んだ。心做しか、宝石にしては光り方が少しおかしい気がしたのだ。流石のジンも宝石に関する知識はほとんど有していない。そんなジンでも気づくほどの違和感なので、もしかしたら注意深く観察することでニィナも気づくことだろう。今の彼女は、ジンによって口に運ばれるパンを食べることに夢中になっているのだが。

 パンと紅茶の良い香りに包まれた部屋の中で、ジンがおもむろにラキラに向けて尋ねる。

「らきら殿……つかぬことをお聞きしますが、その杖は一体なんですか?」

「あら、これのこと?これはただの魔法の杖よ。あなたもついさっき見たでしょ?私が魔法を使うところを……そういえば言ってなかったけど、私はこれでも魔女の端くれとして生活しているのよ。でも残念なことにね、別に一流って訳じゃあないの。私に出来るのは、さっきみたいに何かを生み出すだけの、本当に簡単な魔法ぐらいだもの。だから今は、その一流の魔女になるために、ちょっとした修行をしてる最中ってところかしら。あぁ、良かったら修行の成果として、何か他の魔法でも見せて―――」

「いえ、結構です。それより、その杖の先端にある緑色の宝石に、魔法を操るための魔力が込められているのですか?何やら、不思議な輝きをしている石だなと思いまして……」

 流暢かつ長々と話すラキラの言葉をすかさず遮ると、ジンはラキラの持つ杖を指さしながらおもむろにそう尋ねた。彼が気になっていたのは杖そのものと言うよりも、そこに嵌められた謎の宝石たちにあったからだ。見た感じエメラルドのような淡い緑色をしており、高級感があまり無い代わりに、何やら特別な力を有しているような雰囲気はひしひしと伝わっていた。

 ジンの指摘に応じて杖を持ち直したラキラが、その杖の先端をゆっくりとなぞりながら淡々と答えた。

「まぁそうね、大体そんな感じだわ……ここから少し離れた場所に、たくさんの宝石が取れる鉱脈地帯があるのはご存知かしら?実はこれ、その鉱脈地帯で掘られた宝石のひとつなの。装飾品として加工されたものを、私が買い取ってこの杖に宿したのよ。鉱脈地帯にある宝石は、大半が魔力を蓄えることの出来る特別な宝石ばかりなんですって。要はこれも、その内のひとつって訳……えぇ、それだけの話よ。」

「……それにしては、やけに変わった光り方をしていますね。もはや宝石と言うよりは、まるで人間の瞳(・・・・)のような―――」

 本質を見抜こうとするような口調で、スッと目を細くジンがそう呟いた瞬間、ラキラはすかさず杖を持ち直してガンッと床を叩いた。予想以上の音量が急に室内に響き渡り、食事に夢中になっていたニィナは思わずビクッと体を震わせた。その拍子に食べかけていたパンが喉に詰まってしまい、それに気づいたジンがハッと目を見開いて慌てて彼女の背中をさする。

 少してんやわんやになったジンとニィナの前で、しばらく顔を俯かせていたラキラはゆっくりと頭を上げて、二人に笑いかけるように首を軽く横に傾げた。顔全体に貼られた仮面のせいで、相変わらず表情自体はまったく見えない。だが、純粋な気持ちで笑っている訳では無いことは、ジンだけでなくニィナも鋭く察していた。その証拠に、地面に叩きつけた杖を持つラキラの手は、心の奥底から沸いた怒りを抑えるように小刻みに震えていた。ニィナのために彼女へ瓢箪の冷たい水を与えつつも、本能的に嫌な予感を覚えたジンが密かに身を強ばらせる。

 すると、ラキラは不意にコホンと咳払いをしてから、反論は許さないと言わんばかりの勢いで一気に言葉をまくしたてた。

「失礼。そういえば私、お客様の歓迎に夢中で、私用を放置していたのを忘れていたわ。そろそろ持ち場に戻らないと……あなた方は引き続き、この部屋でのんびりとくつろいでてちょうだい。でも出来れば、あまりこの部屋の外には出ないで欲しいわ。私一人しか住んでないから、実は細かいところまで十分な掃除が行き届いていないの。私がまたこの部屋に来るまでは、どうかこの室内だけで過ごしてちょうだいね。もし何かあったら、そうね……あそこの棚にある呼び鈴を鳴らすといいわ。見た目は小さいけれど、意外と音が大きいのよね、これ。だから鳴らしてくれたらすぐに部屋に駆けつけるわ。さっきも言ったけど、全然遠慮なんてしなくていいから、ね?」

「……分かりました。色々と、ありがとうございます。」

 ラキラのとめどない言葉の羅列に半ば圧倒されながらも、ジンは大人しくコクリと頷いて小さく頭を下げた。それを見たラキラは満足そうに肩を揺らすと、いそいそと立ち上がってから少し急ぎ足で部屋の外に出た。扉がバタンと強めに閉められ、同時にようやくパンを飲み込み終えたニィナが短く息を吐きながらジンに言った。

「むぐ……ぷはっ!はぁあ、びっくりしたぁ~!最後のラキラ、なんかちょっと怒ってた、のかな……なんで急に怒っちゃったんだろう?もしかして、ニィナの食べ方がすごく汚かったからとか!?」

「少なくともそれは無いな。あいつはそもそも、お前自身にはあまり興味や関心が無さそうだったし……いや、それよりも気になるのは、やはりあの杖だ。正確には、杖の先端にあるあの宝石だ。」

 途端にハッと目を丸くして、分かりやすくアワアワと慌てふためくニィナ。そんな彼女をよそめに、ジンは瓢箪をしまいつつ己の顎に手を添えて軽く頭を俯かせた。訝しげな眼差しで、先ほどまでラキラが座っていたソファーをジッと睨んでいる。例の宝石に何かしらの秘密が隠されていると勘づいているのだろう。現に、先ほどまでラキラが放っていた雰囲気も、ジンの一言が原因で急に豹変した。そして急用を思い出したフリをして、少し慌てた様子で部屋を立ち去った。まるで、自身の隠している重大な秘密を、ジンやニィナに知られたくないかのように。

 美味しいパンに夢中になっていたものの、ジンの言葉はめざとく聞き逃していなかったニィナが彼に尋ねた。

「そういえばジン、最後に何か言いかけてたよね?宝石というよりは、人間の瞳みたいだって……あれ、どういうことなの?」

「そのままの意味だ。お前は食うのに夢中で気づいてなかったようだが、俺はらきらだけじゃなく、あの杖からも妙な視線を感じていたんだ。それに、観察すればするほど、俺はあれをただの宝石として捉えることが出来なくなった。さっきも言った人間の瞳……それにしか見えなくなったんだ。」

 気づけば最後のひとつとなっていたパンをニィナの口元に運びつつ、ジンは彼女の頭をポンと叩きながら淡々とそう答えた。純粋な宝石ではなく、まさかの人間の瞳というジンなりの解釈を前に、与えられたパンを頬張りつつもニィナの背筋が本能的にゾッと凍りつく。

 もしもジンの推測が正しければ、ラキラの言う“鉱脈地帯で手に入れた”という話は全て嘘になってしまう。要は人喰い魔女として人間を捕らえたのちに、己の魔法を操るための媒体として人の目を抉り抜いたことになるのだ。一体誰の目が使われているのかまでは流石に分からない。だが、今はそこまで細かく考える必要は無いだろう。ラキラが人を襲ったという可能性を示す証拠が、思わぬ形でジンたちの元に舞い込んだのだから。

 時間をかけて最後のパンを食したのちに、ジンの手で紅茶もほとんど飲み干したニィナが、少し青ざめた表情を見せつつ震え声で呟く。

「じゃあラキラは、誰かからお目目を奪って、それを杖に埋め込んだってことなの?さっきみたいな魔法を使うために。」

「……まだハッキリと決まった訳じゃないが、可能性としては大いに考えられるだろう。それ以外にも何かしらの思惑がある感じはしたが、未だに不確定な事柄が多い。あいつはこの部屋以外の場所に行くなと話していたが、やはり隙を見てひっそりと探索した方が―――にぃな?」

 ニィナからの発言を受けて、ジンが粛々と己の考えを巡らせていた、その直後。

 ジンが隣にいるニィナの方にふと目を向けると、ニィナはいつの間にかベッドの方に移動しており、見るからにフワフワとして柔らかそうなシーツの上に寝転がっていた。猫耳は相変わらず警戒気味にピクピクと動いている。だが、それとは対照的にニィナ本人はすっかり脱力した様子で、寝台から足を放り投げてブラブラとぶらつかせていた。心做しか、ひどく眠たそうに瞬きをぱちぱちと繰り返している。

 ジンはすかさずベッドの方に向かうと、ニィナの隣に腰掛けて彼女の髪の毛を軽く漉きながら尋ねた。

「おい、にぃな?どうした、眠いのか?」

「うん……お腹いっぱい食べたら、なんか急に眠くなってきちゃった……えへへ、このベッドすごく柔らかい。お城にあった、ニィナのお部屋のベッドを思い出しちゃうなぁ。」

「……半日近くも冷たい雨に打たれたからな。疲れて眠たくなるのも、無理はないか……」

 ニィナを労わるような口調で目を伏せたジンの体も、彼女と同じく不意にドサッとベッドの上に倒れ込む。

 だが―――それは決して、ジンの意思によるもの(・・・・・・・・・・)ではなかった(・・・・・・)

 ラキラが居なくなって緊張の糸が解けた瞬間、彼の体からありとあらゆる力がいきなり抜けてしまったのだ。同時に強い睡魔にも襲われるようになり、本能的に何かがおかしいと悟ったジンがひそかに焦りを覚え始める。そんなジンに対して呑気に欠伸をしたニィナは、微睡みかけている目で隣にいるジンを見つめながら小さく微笑んで言った。

「ん……あれ?ジンも、お眠なの?ニィナと、一緒に寝る?ふふ。おやすみ~、ジン……」

「ま、て、にぃな……!寝るのは、よせ……!今ここで、寝た、ら……」

 ニィナ相手に咄嗟に待ったをかけようとしたジンだったが、その手は虚空を掴んだのちに力なくシーツの上へパタリと落ちてしまった。その時点でニィナは完全に目を閉じて寝ており、スヤスヤと健やかな寝息を立てていた。

 ラキラの差し出したパンか紅茶の中に、睡眠薬でも盛られていたのだろうか。徐々にぼやけ始める頭の中でそう考えながらも、急な睡魔に抗えないジンはひどく悔しげに、そして忌々しげに唇をグッと噛み締めた。まともに体を動かすことも叶わず、頭痛に似た鈍い痛みと耳鳴りを覚えながらジンがゆっくりと瞼を閉じる。







 こうして、ジンとニィナが突然眠りについた室内にて。

 棚の隙間などに隠れていた、大小様々な無数の()たちが慎重にジンたちの元に接近する。そして、難なく二人の体をそれぞれ捕らえた蛇たちは、みなで協力しながら両者を部屋の外へいそいそと運び出した。ジンたちが全く起きそうにないのをいいことに、時が進んでより薄暗くなった廊下を静かに這って移動する。

 謎の蛇による、あまりにも堂々とした大行進に気づいている者はいない。

 少なくとも、この屋敷に暮らしている魔女以外は。







 ***




 ……えぇ、大丈夫。大丈夫よ、あなた。

 久々にとても素敵なお客様に巡り会えたのよ?こんな貴重な機会、絶対に逃す訳にはいかないわ。

 あの二人はもうすでに、()の用意した地下室に移動させた。一度迷い込めば生きて帰ることの許されない、特別なあの地下室に。

 あぁ、待ち遠しいわ。あと少し、本当にあと少しだけなのよ。







 愛おしいあなたが目を覚まして、私の元に戻って来るために、必要な量の()が……ね?







―――参之章 終幕―――

~キャラ紹介~


♂ドロゴ


独眼巨人の1人。現在は鍛冶職人の端くれとして時折村の外に商品を売りに出かけたりしている。

気弱ながらも人懐っこくて優しい性格。イアリスとは幼い頃からの親友同士で、彼が村を追い出された後も常に彼の身を案じている。


♀メーナ


独眼巨人の1人で医者を務めている女性。なんだかんだ言いつつも世話好きで面倒見の良い性格。巨人だけでなく人間向けの手当てもできるほど手先が器用。


♂村長-むらおさ-


ドロゴたちの住むアイロ村を治めている老人。かなり年老いているが、鍛冶の腕前は独眼巨人たちの中でもかなり優秀と言われている。性格はかなり頑固で気難しく、他人と積極的になれ合うことを嫌っている模様。村の中では一番イアリスのことを嫌っている。



~妖紹介~


*独眼巨人-サイクロプス-


5メートルから10メートルほどの巨体と一つ目が特徴的な妖。体が大きいので、洞内や洞窟が多く存在する山岳地帯を主な居住地としている。各一族ごとに縄張りが敷かれており、人間に対して友好的な者もいれば逆に敵対的な者もいる。ほとんどのサイクロプスが独自の鍛冶技術を有しており、人間や妖と交易を通じて制作したものを売り出すことも多い。

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