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忍~the Blade With the Heart~  作者: 独斗咲夜
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弐之章【泉と馬男】

~あらすじ~


実の姉の策略で暗殺されかけた猫妖精ケット・シーニィナ・スフィンクスは、忍びを名乗る男ジン・アラタカと共に有害な妖を退治するための旅に出た。彼が向かう先では、水棲馬ウォーターホースたちの元住処である『休戦の泉』と呼ばれる神聖な場所があった。しかし、その泉には今、とある妖がたむろしていると噂されていて―――

 



 和ノ国忍びの里 イバラ村郊外―――




「お父さーん、お母さーん!!」

「おとぉー、おかぁー」




 周囲を背の高い竹林に囲まれた、お世辞にも豪華とは言えない小さな一軒家。その近くで女性と共に洗濯物を干していた肌黒い男は、子供たちの声に釣られてすぐに視線を横に動かした。彼の隣に立っていたおカッパ頭の女性も、にこっと微笑みながらこちらに駆け寄ってくる子供たちを迎え入れる。彼女の両目にある泣きぼくろは、子供たちを見つめる傍らで心底嬉しそうに歪んでいた。

「ヨロズ、ネネ、お帰り!学校はどうだった?楽しかった?」

「うん!あのね、今日は変わり身の術の試験があったんだけど、俺一発で合格したんだ!ネネも手裏剣の試験で先生に褒められてさ……あ、コウタロウ寝てる!コウタロウの寝顔やっぱ可愛いなぁ~!」

「あ、お兄ぃずるぃー。ネネも見るー」

 それまで興奮気味に目を輝かせていた少年ヨロズの視線が、途中で母親である女性の背後に向けられる。彼女の背中に、スースーと健やかな寝息を立てて寝ている赤子が背負われていたのだ。まだ一歳にも満たない赤ん坊の寝顔を前に、齢七つのヨロズと齢六つのネネがそれぞれ一斉に食いつく。

 彼らのために身をかがめていた女性は、急に子供たちに囲まれたことで途端に苦笑いを浮かべた。が、それまで洗濯物に集中していた男がすかさず彼女の元に近づき、子供たちの手を制して彼らに言った。

「こら、二人とも。コウタロウが起きちゃうから、もう少し静かにな。あとでお父さんが遊んでやるから、先に手を洗ってこい。」

「え、本当!?やったぁー!ずっと前から、お父さんにどうしても見せたい忍術があったんだ!ネネ、早く行こう!」

「あ!お兄ぃ待ってー、ネネ置いていかないでー」

 父親と遊べると知ってよほど嬉しくなったのか、ヨロズはぴょんぴょんとその場で飛び跳ねたのちに駆け足で家の中へと向かった。遅れるようにしてネネも、のんびりトテトテと歩きながらヨロズの後を追いかけた。男とは違って肌が白い女性は、そんな子供たちの愛くるしい姿を見つめながら、幸せそうに息を吐きつつボソッと呟いた。

「相変わらず元気な子たちだねぇ。一体誰に似たんだか。」

「……どう考えてもお前だろう、ユキ。あいつらを見てると、破天荒なくノ一時代のお前を思い出すよ。」

「だーかーらー!たまに昔の話を掘り返すのやめろっていつも言ってんだろ!それ、あたしにとってはちょっとした黒歴史なんだから!」

 女性あらためユキはすかさずそうツッコミを入れると、何かを思い出して恥ずかしがるように頬を赤く染めた。それを見た男も、ひどく幸せそうに顔を綻ばせながらクスクスと笑う。里から離れたこの山の中では、そんな家族たちの和やかな雰囲気に合わせるように、どこまでも穏やかな風が静かに吹いていたのだった。

「そんなことより!洗濯物、干すの手伝ってくれてありがとう。夕飯作ってくるよ。」

「そうか。なら、俺も手伝うぞ。」

「だめ。ついさっき、ヨロズとネネと遊ぶ約束をしたばっかだろ?あたしは一人でも大丈夫だから、子供たちのことは頼んだよ、××。」

「……?あ、あぁ……」

 赤子のコウタロウを抱え直しつつ、よいしょと立ち上がったユキが男の方に顔を向けながら、地べたに置かれた桶を手際よく回収する。だが、それまで柔らかな表情に包まれていた男の顔は、不意に妙な違和感を覚えてピシッと強ばった。最後にユキが自分の名前を呼んでくれたはずなのに、何故かそれだけがよく聞き取れなかったのだ。突風が吹いた気配はないし、急に難聴になったとも考えられない。

 きっと何かしらの別の理由で、たまたま聞けなかっただけだろう。男は至極穏便にそう思い込もうとした。しかし、彼の中に芽生えていた違和感は、気づけば嫌な予感あるいは恐怖心にほど近い何かに変化していたのだった。

 ユキが数個の桶を軽々と抱えながら家の中に戻っていく。彼女の背中に背負われている赤子は、相変わらずスヤスヤと健やかに眠っている。自分もそんな二人の元に向かおうとしたが、何故か足が動かなかった。正確には、まるで氷で固められたように動かせなかったのだ。いや、足だけではない。自分の体そのものが全く動かせないのである。同時に、男の視界は徐々に白くボヤけ始め、美しい自然に満ちた周りの景色も比例して色褪せ始めた。

 自分の身に何が起きたのか理解できず、それでも男はユキに向けて必死に手を伸ばそうとした。何故か手は片方だけがかろうじて動かせた。けれども、ひどく重たくて仕方がない。重石を手首に括り付けられたような感覚がして、指先を動かす余裕すらもないのだ。

 途端に混乱状態に陥った男は、それでも冷静さを保つために何度も深く息を吸い込んだ。そして、ほとんど霞んで見えなくなった愛おしい妻に向けて懸命に声をかけた。

「なぁ、ユキ……ユキ?そこにいるんだろ?ユキ……!」

「んー?どうした、××?……××?」

 もはや真っ白に染まった男の視界の奥から、ユキの声が微かに男の耳に届く。しかし、やはり己の名前を呼ぶ声だけが上手く聞こえない。その時に限って、タイミングを見計らったかのように、都合よく妙な雑音が紛れ込んでしまうのだ。

 まるで、男が感じている幸せな瞬間を邪魔をするかのように。どこまでも平和で愛おしい空間から、男一人だけを外に弾き出すかのように。

 しまいには声すらも出せなくなり、男は中途半端に伸ばした手の先を見つめながらグッと唇を噛み締めた。周りが驚くほど真っ白なので、自分の異様に黒い肌が逆によく栄える。

 人なのに人らしくない色をした自分の肌。彼女は愛してくれたが、周りの者は忌み嫌った自分の肌だけが、己の視界にハッキリと映り込む。

 あぁ、嫌だ。こんなもの、こんなまじまじと見たくない。望んで得た訳じゃないこの色を、大嫌いなこの肌を、俺の目の前で堂々と見せつけるな。

 やめろ、やめろ、やめろ――――――







「…………!!」




 不意に意識が覚醒し、ジン・アラタカはひどく焦った様子でハッと目を覚ました。同時に、彼の傍に止まっていた数羽の小鳥たちは、ジンが起きたことに気づいて慌てて飛び去った。木々に囲まれた森の中で、空から降り注ぐ偽物の太陽光が、荒い呼吸と共に目覚めたジンの体を優しく照らしていた。

 大木にもたれかかった背中を中心に、全身のほとんどが不快な冷や汗に包み込まれている。周りはどこまでも爽やかな空気に満たされているのに、己の心はモヤがかかったようにどんよりと暗く沈んでいた。数分ほどかけて深呼吸を繰り返したジンは、ここに来て先ほどまで見ていた景色が、全て夢の中のものであることにようやく気づいた。なんて奇妙な夢なんだと、手甲(てこう)で額の冷や汗を拭いながらジンがため息を吐く。

 その時、ジンは自身のすぐ目の前で、背の低い誰かが眠っていることにも遅れて気がついた。ふわふわとした真っ白な髪の毛と猫耳が、さっきから自身の顎周辺を柔らかくくすぐっているのだ。夢の中の景色がやけに真っ白だったのは、どうやら目前に見えるこの髪が原因だったらしい。赤いポンチョを身にまとったその少女は、ジンが木の傍に座って寝ている隙に、彼の股の間に無理やり滑り込んで来たようだ。そこそこ居心地が良かったのか、先に起きたジン本人そっちのけでスヤスヤと寝息を立てている。

 何も知らぬ者ならば、当然この時点で即座に驚いて声を上げたことだろう。だが、少女の正体をすでに知っていたジンは、二度目の深いため息混じりに眉をひそめた。そして、全く起きる気配のない彼女の、小さな頭にある猫耳を容赦なくガッと掴んだ。急所にほど近いその部位を掴まれた少女は、途端に「ふにゃあ!?」と猫のような悲鳴をあげながらすぐに飛び起きた。同時にジンは猫耳からパッと手を離したものの、驚いて目を丸くした少女は、しばらくのあいだ慌ててキョロキョロと周りを見渡した。のちにバッと後ろを振り返った少女が、一転してパァッと明るい笑顔を見せながら男に声をかける。

「あ、ジン!おはよう!今日もいい天気だね!」

「あぁ。おはよう、にぃな……じゃなくてだな。お前、何でこんなところにいるんだ?俺が作った草の寝床で寝てたはずだろ?」

 最初こそ普通に挨拶を返しつつも、ジンは少し離れた場所にある草の山を指で示しながら、少女ニィナ・スフィンクスにそう尋ねた。彼の言うとおり、その場所には適当に毟られた草が、いくつか均等に並べて置かれていた。ジンがニィナのための寝床として即興で作成したものだ。あまり寝心地が悪くならないように、そこそこ大きな葉ばかりが芝生の上にまとめて集められていた。

 ジンに釣られてそれを見たニィナは、どこか申し訳無さそうに目を伏せながら、ジンの体に身を寄せて彼に言った。

「ご、ごめんなさい、ジン。実は、寝てる時にいきなり強い風が吹いてきて、その時に焚き火の火が消えて寒くなっちゃったの。そのせいでニィナ、目が覚めて眠れなくなっちゃって……でも、ジンの体はすごく暖かかったから、そのままジンと一緒に寝ることにしたの。ジンが傍に居てくれて本当に良かった!ありがとう、ジン!」

「……礼はいい。それより、寒いのなら遠慮せずに、俺を起こせば良かっただろ。下手に一人で動いて転んだりしたら、どうするつもりだったんだ?」

 ニィナからようやく事のあらましを聞いたジンは、本日三度目のため息を吐きながらおもむろにニィナの肩に手を添えた。傍から見れば何をしてるのかよく分からない動作だったが、ジンの言わんとすることを察したニィナが途端に笑顔を消してハッと息を飲む。

 その直後、少し強めの突風が周囲に吹き渡り、ニィナの着ていた真っ赤なポンチョを大きく翻した。それによってポンチョの下に隠されていた、両腕を失った(・・・・・・)ニィナの小さな体が一瞬だけ露わになる。同時にニィナはバランスを崩して倒れかけたが、ジンはすかさず彼女の体を優しく抱きしめて受け止めた。



 猫妖精(ケット・シー)の少女、ニィナ・スフィンクス。

 王家の生まれでありお姫様でもあった彼女は、ほんの少し前にとある事情で両腕を失った。

 その事件は、ニィナが暮らしていたスフィンクス王国で、建国記念日の祭典が開かれていた日の夜に起きた。ひそかにニィナのことを恨んでいた実の姉が、彼女を(そそのか)してとある湖へと連れ出したのだ。その湖には、凶暴な性格の“(アヤカシ)”である水棲馬(ウォーターホース)と呼ばれる存在が潜んでいた。ニィナの姉は風の噂でその話をすでに聞いており、そいつを利用してニィナを秘密裏に殺害しようと企てていたのだ。

 その後、純粋無垢なニィナは姉の策略に気づくことすらなく、彼女の手でそのまま湖の中に落とされた。しかも、容易に浮上出来ぬように、重たい鉄球付きの足枷を設置された上で。

 例の水棲馬はのちに、偶然現場近くにいたジンの手で倒された。しかし、結局ニィナは齢六つという若さで両腕を失ってしまった。挙句の果てには、大量出血やら酸素不足などで数日ものあいだ生死の境をさまよい続けたのだ。ジンの素早い救出と介抱がなければ、ニィナは姉の計画通り誰にも気づかれることなく溺死していたか、例の水棲馬によって食い殺されていたことだろう。

 その後奇跡的に意識を取り戻したニィナは、もともと住んでいた王国には帰らず、その代わりジンと共に行動するようになった。ニィナとしては、今の状態の自分が国に戻ることで、父親である国王や国民などに大きな混乱を招くのを防ぎたかったのだ。

 まだまだ未熟な幼子とはいえ、ニィナはどこまでも優しい性格の少女だった。そのため彼女はかねてより、人に迷惑をかけたり誰かを困らせたりすることを苦手としていたのだ。自分を計画的に殺そうとした姉が、殺人の罪で罰せられるのをひどく嫌がっていたほどである。当初はニィナに姉への復讐を提案していたジンも、最終的には説得を諦めて彼女の意見を汲み取ることにした。その上で、責任をもって彼女の世話をしつつ共に旅に向かうことになったのである。

「……やっぱり、ニィナお荷物だよね。ジンのお手伝いをしたくても、両腕が無いから何も出来ない。むしろ、迷惑ばかりかけちゃって……本当にごめんなさい。」

 ジンの胸元に倒れ込んだニィナは不意にそう呟くと、力無く猫耳と尻尾を垂らしながらジンの体に己の身を擦り寄せた。改めて両腕が無いことを自覚したために、一転して意気消沈してしまったのだろう。先ほどまで見せていた満面の笑顔がすっかり消えてしまっている。こちらとしては単に、ニィナのことが心配で何気なく触れた話題のつもりだったというのに。

 これではいけないと考えたジンは、微かに震えるニィナの小さな体を強く抱き締めながら、彼女を宥めるような口調でこう言った。

「気にするなと、何度も言ってるだろ。俺は今、お前が失った両腕の“代わり”として動いているんだ。だから、いつでも遠慮せず俺に頼ってくれ。お前のためになるのなら、俺はこの体も命も、全てお前のために捧げるつもりだ。」

「……ねぇ、ジン。ずっと気になってたんだけど、ジンはどうしてこんなに、ニィナに優しくしてくれるの?ニィナ、初めて会った時からずっとジンに助けられてばっかりなのに。恩返しとかも何も出来てないのに。」

 ジンに優しく頭を撫でられながらも、ニィナは柔らかな尻尾を左右に揺らしつつ訝しげに眉をひそめた。彼女の抱いた純粋な疑問と問いかけに対して、ジンがすかさず己の手をピタッと止めてしばらく黙り込む。

 実を言うと、ジンとニィナが初めて顔を合わせてから、今の時点でまだ一週間も経っていなかった。要はお互いに、ほんの数日程度の付き合いでしかなかったのだ。ニィナは元より人懐っこい性格な上、ジンに命を救われたのもあって彼にはすっかり懐いていた。だが、対するジンは常に寡黙な一匹狼のような雰囲気をまとっていた。それは一目見ただけだと、ニィナのような不自由な幼子に向けて、どこまでも優しく手を差し伸べるような人であると気づけないほどでもあった。

 それに、ニィナとジンはそもそも生まれの種族からして大きく異なっている。ニィナは人寄りの見た目をした猫妖精で、ジンは肌こそ異様に黒いもののれっきとした人間だ。ニィナが非常に純粋無垢な幼子とはいえ、多少なりとも一定の距離感というものは二人の間にまだ残っているはずだった。

 しかし、時が経てば経つほどジンは、ますますニィナに対して優しく接するようになった。転んでしまう可能性のあるニィナを大事に抱えて歩いたり、両腕の無いニィナのためにたくさん食糧を集めた上で、焚き火で調理して彼女に食べさせたり―――例の草の寝床もそうなのだが、ジンは今日(こんにち)に至るまで徹底してニィナのことを優先しながら活動していた。実際は、両腕を失ったニィナが可哀想で、単に放っておけないだけなのかもしれない。だが、それにしてもジンの手助けは、ニィナが想像していたものよりもずっと手厚い気がした。そもそも、両腕が無いせいで不便極まりない状態のニィナを、堂々と“連れて行く”と宣言したのはジンの方だった。ジン以外の人ならば、彼女の意見を無視して無理やり国に送り返したりしたに違いなかったのに。

 まさか、自身が王家の者であることを知ってるがゆえに、彼は召使いの如く動いているのではないだろうか。こちらからは何も言ってないのだから、そんな風に扱う必要なんて全く無いのに。不意に心の中でそう考えたニィナは、ひどく申し訳無さそうに目を伏せてから小さな肩をぶるりと震わせた。ニィナは自分が偉い立場にいるからといって、乱暴に権力を振るったりしたことが一度もなかったのだ。それは、姫は常に清く正しく、そして身も心も美しくあるべきだという父親の教えの賜物でもあった。

 ゆえにニィナは、ジンに前述の考えを改めてもらうために口を開こうとした。自分がいるせいで、ジンが色々と身を削る羽目になるのを防ぎたかったのだ。

 しかし、それよりも先にジンは小さく息を吐くと、ニィナの体を少し離して彼女の顔を見下ろしながらボソッと呟いた。

「……子供が、居たんだ。」

「ん、え……子供?」

「あぁ。それも、三人だ。齢七つの息子と六つの娘……そして、まだ生まれてまもない赤ん坊のな。」

 いつもは鷹のように鋭く光っているジンの瞳が、口調こそとても穏やかなのにひどく悲しげに歪む。何かを懐かしむと同時に、何かを心底悔やんでいるかのような眼差しだ。おもむろに子供の話をされた挙句、一度も見たことが無いジンの憂いの表情を目撃したニィナが、その場で思わずポカンと口を開ける。

 どうやらジンは既婚者であり、しかも子供を三人も授かっていたらしい。ニィナの視点では常に孤独な印象があったので、彼女にとっては少し意外なことにも思えた。

 しかし、彼が先ほど見せた表情から考えてみても、彼がその子供たちと再会することはどうしても叶わないのだろう。もしいつでも子供たちのいる場所に帰れると言うのなら、最初から『子供が居た(・・)』なんて過去形で話したりしないはずだから。

 すでに亡くなってしまったのか、はたまた気軽に会えないほど遠くに行ってしまったのか。あまり悲しいことは考えたくなかったものの、ジンの話す子供のことが気になったニィナは話の続きを促すためにゆっくりと頭を上げた。しかし、ジンは途端に首を左右に振ると、お開きと言わんばかりの手つきでポンッとニィナの頭を撫でてから彼女に言った。

「やっぱり、これはまだ、お前に話すべきことじゃないな。すまない、今の話は忘れてくれ……それより、そろそろ出発しよう。腹は減ってるか?昨日集めた木の実がまだ残ってるから、あとでまた食べさせてやる。」

「……ジン……」

 露骨にかつ強引に話を切り上げられたニィナが、自然と尻尾を揺らしつつも少し不満げに唇を尖らせる。気づけばジンはいつも通りの冷静な表情に戻っており、例の子供のことについてもこれ以上話す気配が全く無かった。本当はあまり思い出したくない話だったのだろうか。妙にジンらしくない無理やりさを感じつつも、反射的に言葉で催促しようとしたニィナは思わず口を閉じて黙り込んだ。

 しばらくニィナの頭を撫でていたジンが、途中で彼女から手を離していそいそと出立の準備をし始める。そんなジンの背中は、心做しか悲痛さに満ちた、とても寂しそうな雰囲気をまとっていた。手際よく焚き火の跡を壊すジンの前で、ニィナは少し心配そうに目を伏せながら己の耳と尻尾を力無く垂らした。

 黄金の傘(ゴールデンアンブレラ)によって覆われた空からは、偽物の太陽による柔らかな日差しが、青々とした森の木々めがけて延々と降り注いでいたのだった。




***




 それから数分後―――




 休憩地点を後にしたジンは、片手でニィナを抱えつつ、彼女に木の実を与えながら森の中にある道をひたすら歩いていた。時おり兎やリスなどの小動物が道を横切り、鳥たちのさえずりや一斉に羽ばたく音などが、優しく木々を揺らす風と共に静かに流れている。

 まさに平和そのものといった雰囲気に包まれた森の中で、ジンから貰った木の実を咀嚼しつつニィナは首を傾げてとある単語を呟いた。

「うまおとこ?」

「あぁ。正確な名は『水棲馬男』、なっくらびー……お前を襲った水棲馬と同種だが、見た目は大きく異なっている希少な妖だ。」

 もう片方の(てのひら)にいくつか木の実を保持しつつ、指先で器用にニィナの口腔に差し出しながらジンが淡々と答える。彼の与えるラズベリーに似た甘い木の実が、ニィナの小さな口の中でプチプチと軽やかに弾けていたのだった。

 ジンの話す水棲馬男、あらためナックラビー。その名の通り水棲馬(ウォーターホース)の一種として存在している妖である。

 しかし、元の水棲馬とは違って奴は主に陸上で活動しており、その見た目も馬のような四本の足と巨大な頭を持つ人型の上半身となっている。ナックラビーの両腕は立っているだけでも地面につくほど長く、大きく裂けた口からは常に毒素を有した息を吐いているらしい。水棲馬が水中限定の害悪な妖とすれば、ナックラビーは陸上面においても害悪とされる妖の一種だった。前述した毒の息が大地などに巻かれると、その区域にある草木や花が途端に全て枯れ果ててしまうのだ。おまけに、奴の住処でもある海が一部だけ、奴のせいで汚染されてしまう事例もいくつかあがっていた。それゆえに元の水棲馬と同じく、ナックラビーも人類と妖それぞれから存在自体を忌み嫌われていたのだ。

 そんなナックラビーだが、ジンが予め手に入れた情報によると、今は『休戦の泉』という泉周辺に(たむろ)しているとのことだった。現在ジンたちが向かっている道の先にある、どこまでも美しい緑と水に満たされた神聖な場所だ。そこは水の精霊(ウンディーネ)の加護が施された場所でもあり、彼女がその地に授けた宝具によって、周辺地域の穏やかな自然が常に守られていたのだ。

 故に、その泉にナックラビーのような有害な妖が近づくのは非常に困難なはずだった。おまけに奴はいわゆる淡水が苦手で、ナックラビー自身も普段は海中に潜んでいると言われている。そのため本来ならば、こんな森の奥深くにある神聖な泉で、海に住む奴の姿が目撃されるはずが無かったのだ。

 他の有害な妖がナックラビーを唆して移動させたのだろうか。はたまたナックラビー本人が望んで泉にまでやってきたのだろうか。その辺りの事情は未だ不明だが、どちらにせよナックラビーが例の泉で何かしらの悪事を働いているのは確かだろう。

 というのも実は、休戦の泉はニィナを襲ったあの水棲馬たちの主な住処でもあるのだ。水棲馬の凶暴さを危惧したウンディーネによって、彼らはある時ひとつの場所あらため休戦の泉にまとめて集められた。その上で、彼女が用意した特殊な宝具によって、水棲馬たちは本来の凶暴性をことごとく封印されていたのである。ほんの少し前まで、泉以外での水棲馬の目撃情報があまり無かったのもそれが理由だった。

 とどのつまり―――突然泉に現れたナックラビーがそこで何かしたことにより、結果的に住処を追われた凶暴な水棲馬たちが、別の様々な水域に現れるようになったという訳である。

「……そっか。ニィナのことを食べようとしたあのお馬さんも、本当はその何とかの泉って所に住んでた、優しいお馬さんだったんだね。」

 ジンの持っていた木の実を全て食しつつ、口腔に残っていた物をゴクンと飲み込んだニィナがそう呟く。ようやく片手が自由になったジンはコクリと頷くと、少し泥のついたその手を軽く叩きつつ、己の赤い目を鋭く光らせながら言葉を続けた。

「元から優しかったと言うのは少し違う気もするが、水の精霊が与えた宝具によって、実際よりも穏やかな気性にされていたのは確かなはずだ。おそらく、突然現れた水棲馬男が、例の宝具を奪ったり壊したりしたのだろう。その結果、水棲馬たちの多くは元の凶暴さを取り戻し、別の川や湖に移動する個体も増加した……大方そういったところだと思う。」

「うーん……なんかあれだね、とっても悪いお馬さんなんだね、そのナック何とかさんって。ニィナ、妖のことはお父さんからたまに聞いてたけど、ナック何とかさんのことは初めて知った!ジンってお父さん以上に物知りさんなんだね!すごい!」

 ニィナは途端にパァッと顔を綻ばせながらそう言うと、とても楽しそうにキャッキャとはしゃぎながらジンの首元に顔を寄せた。今はジンが片手で彼女の体を抱えているので、ニィナのフワフワとした真っ白な髪が猫耳ごとジンの顔や顎をくすぐった。そのせいで多少のこしょばさを感じつつも、ジンは冷静にニィナの頭を押し退けつつ彼女に言った。

「故郷での仕事のために、かねてより妖全般のことを学んでいたからな。その過程でたまたま詳しくなっただけだ。」

「へぇ、そうなんだ!でも、お仕事かぁ……そう言えば、ジンのお仕事ってたしか、東の国で『ニンジャ』って呼ばれてる奴だよね?悪い妖を退治したりするって本で読んだけど、やっぱりジンも同じようなことをしてるの?」

「……まぁな。」

 本で得た知識を脳内から引っ張り出したニィナが、すかさず好奇心に満ちた純粋な目でジンの横顔をまっすぐ見つめる。ジンはその視線に対して少し恥ずかしげに眉をしかめつつも、それを誤魔化すように口元に手を添えながら短く答えた。

 すると、ニィナはやっぱりと言わんばかりに猫耳と尻尾をピコンッと立てて、ジンの腕の中で楽しそうに足をばたつかせた。どうやら彼女は、件の本を読んだ時からニンジャという存在をいたく気に入っていたらしい。そして、ニンジャ本人が目の前にいると知っていよいよ気分が高まったようだ。両腕を失ってまだ間もない少女とは思えぬほどの元気さである。強い味方であるジンと一緒にいることで、気付かぬうちに絶望感などが薄れているのだろう。内心ひそかに安堵しつつも、はしゃいだことで危うく落ちかけたニィナをジンがすかさず手で支えつつ窘める。

 しかし、我に返ったニィナが慌ててジンに謝ろうとしたその時、急に二人のいる森の中で冷たい突風がビュウッと吹き抜けた。それと同時に違和感(・・・)を覚えたジンは、ピクッと肩を揺らしておもむろにその場で立ち止まった。ニィナもめざとく異変を感じたようで、すぐに口を閉ざして警戒するように髪の毛を微かに逆立てた。

 実を言うと、ついさっきまで何も感じなかった両者の鼻が、突風に乗じてやってきた謎の悪臭を一瞬だけ感じ取ったのだ。それも、ほんのつかの間とはいえ、一度嗅いだらしばらく忘れることはないであろうほどの臭いを。

 ニィナの小さな体を守るように抱きしめながら、軽く息を吸い込んだジンが小声で彼女に尋ねる。

「ニィナ、お前も感じたのか?明らかに不自然な、この異様なまでの悪臭を。」

「うん……このにおい、なんて言えば良いんだろう。よく分からないけど、さっきの風に乗って、急にすごく嫌なにおいがしたの。この道の先に、精霊さんが守ってるっていう泉があるんだよね?やっぱりジンの言う通り、泉の方で何かあったのかな?」

「……先を急ごう。まずは泉の様子を確認したい。」

 真剣な表情で冷静に紡がれたジンの言葉に対して、ニィナが同意するようにコクコクと大きく頷く。ジンはそのままニィナを守るようにだき抱えながら、例の泉に繋がる道を早足で真っ直ぐ進み始めた。

 最初は風が吹かないと分からないほどだった悪臭も、道を進めば進むほど二人の鼻腔を常に掠めるようになった。これは明らかに、今の目的地である休戦の泉の方から漂っている臭いだ。嫌な予感を覚えたジンが緊張で身を強ばらせ、ニィナも本能的に警戒しつつ少し怯えた様子でジンの体に擦り寄る。

 そしてさらに数分後―――ついに休戦の泉に辿り着いた二人は、目の前に広がる惨状を目の当たりにしてヒュッと息を飲んだ。最初から怯えていたニィナはもちろんのこと、ジンですら分かりやすく不快感を露わにした表情で眉をひそめていた。


 本来は美しい緑と美しい水に包まれた神聖な場所、休戦の泉。


 だが、泉周辺の大地に生えていた花は全て枯れており、地面は芝生がほとんど消えて茶色く痩せこけていた。泉の水は全体的に黒く濁っており、水面には馬や魚のそれに似た骨が所狭しと浮かんでいた。それ以外にも、汚れた藻のような物体や、カビの付着した木材などが隙間を縫うように浮上していた。

 泉のちょうど中心には、真っ白な円形のパーゴラが建てられた小島がある。そのパーゴラのほぼ中心に、ウンディーネが授けた宝具を飾っている石像があるのだ。しかし、例のパーゴラもところどころひび割れて欠損しており、小島の大地もほかと同じく干からびて枯れ果てていた。小島に渡るための橋なども見当たらない。周りに浮かぶ廃棄物などに埋もれて沈んでしまったのだろうか。

 なんにせよ、この休戦の泉で美しい自然が破壊されるほどの大惨事が起きたのは明白だった。

「これは酷いな……水面がゴミと骨だらけじゃないか。しかも、人とかのそれじゃない。これは確実に、水棲馬たちのものだ。」

「……っ……」

 ジンが泉に向けてより近づこうとした瞬間、ニィナの体が何かに怯えるようにビクッと跳ね上がった。無惨な姿となった泉にあまり近づきたくないと思っているのだろう。過去に湖に突き落とされて、溺れかけたトラウマも蘇っているに違いない。だが、さらなる調査のためには、多少の無理をしてでも泉に近づく必要があった。そのためジンは、完全に怖がって耳と尻尾を丸めたニィナを慰めるように、彼女の頭と背中を優しく撫でながら軽く指示を出した。

「ニィナ、あまり水面を直視するな。においも無理に嗅ぐなよ……大丈夫、俺が傍にいるから。」

「!!う、うん……」

 ジンの言葉で少しは怖さが紛れたのか、ニィナは小さくコクリと頷いてからギュッと目を閉じた。ジンもニィナが泉の方に顔を向けないよう、もう片方の手でニィナの頭を押さえながらついに泉の方へと歩みを進めた。

 様々な廃棄物に犯された泉に近づくほど、あの奇妙で不快な悪臭が両者の鼻腔を容赦なく貫いた。人の手で廃棄物塗れにされた川や湖は、実のところここ以外にも少なからずある。だが、悪臭の程度で言えばどれもこの泉のものには叶わないだろう。こちらの方は元々自然にあった物が、大地ごと余すことなく汚染された上で、何ものにも消化されることなく延々と残っているのだ。水面だけでこの(さま)なのだから、下手すると水中はもっと酷いことになっているかもしれない。

 そんな推測を頭の中で立てながら、ジンは恐る恐る身をかがめて泉の水面を覗き込んだ。通常は顔が反射して見えるほど美しい泉の水も、今では反射(それ)すら出来ないほど真っ黒に染まっていた。水に向けて直に手をつける勇気は、流石のジンでもすぐには持てなかった。それでもジンはその場で深呼吸を繰り返すと、傍らのニィナを落とさぬよう水面に向けて慎重に手を伸ばした。

 するとその時、突然ジンの目の前の水面からブクブクと大粒の泡が吹き出し始めた。咄嗟に嫌な予感を覚えたジンは、ニィナを抱きしめつつ慌てて後退して泉から離れた。その直後、ジンが手をつけようとしていた箇所から、痩せこけた馬の頭がトビウオのように勢いよく水中から飛び出てきた。ジンの手を食いちぎるつもりだったのか、鋭く尖った水棲馬(ウォーターホース)の歯同士がガチンと鈍い音を鳴らす。

 水棲馬はそのまま水中にボチャンと沈んで戻った。かと思えば、すぐに水面から顔だけを出して、少し離れた場所にいるジンたちをギロッと睨んだ。その目は恐ろしいほど血走っており、痩せた口の端からは涎がダラダラととめどなく溢れ出ていた。まさに飢えた獣の形相そのものだ。突然の騒音で驚いたのか、何も言えず萎縮して固まったニィナを庇いながら、ジンが己の頭の中で泉周辺の事情を推測し始める。

(なるほど。宝具による加護が無くなったことで、周囲の自然を守る力が一気に衰退したのか。その結果周りの土壌だけでなく、泉の水質も悪化して魚も満足に住めなくなった。そして一部のものは別の場所に移動して、残りの飢えに飢えた水棲馬同士が、のちに共食いをおこなった……といったところか。)

 マスクを押えることで悪臭の影響を和らげつつ、再び泉の方に顔を向けたジンが小さく息を吐く。先ほどの水棲馬は、これでは流石に追えないと思って諦めたのか、いつの間にか姿をくらましていた。後に残っていたのは、黒い水面に浮かぶ馬の頭の骨ばかりだった。水棲馬同士による共食いの果てに放置されたものだろう。それ以外の理由で、馬の頭の骨が残る状況なんてきっと無いはずだ。

 おそらく、この周辺に居座っているという水棲馬男(ナックラビー)が、例の宝具を奪い取った上で毒の息を吐いて、周囲の土壌や泉の汚染を引き起こしたのだろう。このまま奴の悪行を放置すれば、今よりももっと広い範囲で様々な汚染が引き起こされる可能性もあった。水棲馬たちも元の故郷であるこの泉に戻れなくなり、結果的に人や妖を無差別に襲うようになってしまう。もしかしたら、姉の策略で湖に落とされたニィナのような犠牲者が、また別の場所で生まれてしまう。

 こうなったら、一刻も早くナックラビーを探さなければ。

 そう考えたジンは気を取り直すように首を振りつつ、ニィナの体を抱え直しながら立ち上がった。しかし、その時ジンは、ニィナの体が最初よりもずっとぐったりとしていることに気がついた。そう言えばニィナは、さっきから全く言葉を発していなかった。単純に怖がっているのか、あるいはあまり直に空気を吸わないようにと指示を出したからなのか。どちらにせよ、彼女の体は泉に来たばかりの時よりも、ずっと弱々しく小刻みに震えていた。耳と尻尾もほとんど微動だにせず力無く項垂れている。

 途端に我に返ったジンは、ニィナの体を少しだけ離して彼女の顔を見下ろした。ニィナの顔はいつの間にかすっかり青ざめており、額には大量の冷や汗がじわじわと滲み出ていた。思わずギョッと目を丸くしたジンが、咄嗟にニィナの頬の冷や汗を拭いつつ彼女に尋ねる。

「ニィナ、どうした!?具合が悪いのか!?」

「う、ん……なんか、胸が苦しくて……けほ、けほ!」

「……!!待ってろ、すぐに場所を移動する。」

 ニィナが弱々しく咳をした瞬間、ジンはマスクの下でグッと歯を食いしばりながら咄嗟にその場を離れた。そのまま目にも止まらぬ速さで泉から距離を開けて、少し離れた場所にある木の傍に華麗に着地する。高さの代わりに太さに恵まれたその木の下に、ジンはケホケホと掠れた咳を繰り返すニィナの体を優しく降ろした。

 幸いにも、今二人がいる場所は泉周辺とは違って、周囲の空気がほとんど澱んでいなかった。緑が生い茂る草花や木々に囲まれた空間だからだろう。ニィナの傍で彼女の頭を撫でながら、ジンは己の膝の上で何かを悔やむようにグッと拳を固めた。

(しまった……俺は口と鼻を布で覆っていたからまだ良かったが、ニィナは口も鼻もほとんど隠していなかった。そのせいで悪臭を直に吸い込んで、一時的に体調不良になったんだろう。状況確認のために先に泉に近づいたが、迂闊だった。先にニィナを安全な場所に連れていくべきだった……!)

 己のせいでニィナを苦しめてしまったと考えたジンが、彼女の頭から手を動かして柔らかな頬をそっと撫でる。すると、それまで苦しそうに目を閉じていたニィナがそっと瞼を開けた。りんごのように丸くて赤い瞳が、少し虚ろな光を放ちつつも、目の前にいるジンの姿をまっすぐ捉える。

 ジンはすかさずニィナの背中に手を添えると、そこをさすりながら少し矢継ぎ早に彼女に尋ねた。

「ニィナ、大丈夫か?悪臭のせいで気分が悪くなったんだろ?直ぐに気づけなくて、本当にすまなかった……綺麗な飲み水があるが、飲むか?」

「けほっ……ううん、大丈夫。さっきはすごく苦しかったけど、ジンのお陰で少し落ち着いたよ。ありがとう、ジン……えへへ。ニィナ、またジンに助けられちゃった。」

 まだ少しだけ青ざめた顔をしていたものの、ニィナはニコッと小さく微笑みながらそう答えた。乱れていた呼吸は徐々に落ち着いているようで、咳の頻度もさっきよりはずっと少なくなっている。悪臭まみれの空間から素早く抜け出したのが功を奏したらしい。下手に長居していたら、あの場で嘔吐していた可能性もあっただろう。

 甘えるようにこちらの手へ頬を擦り寄せてくるニィナに対し、ジンは心底安心したように目を細めてホッと息を吐いた。腰にかけていた瓢箪型の水筒を掴むのを止めて、代わりに少しだけ回復したニィナの体を優しく抱きしめる。



 その時、例の泉がある方角から、突然馬のいななきのような声が大音量で響き渡った。しかも一体だけではなく、数匹分のが一斉に鳴り響いたのだ。その声に驚いた森の鳥たちは慌ててバサバサと飛び去り、油断していたジンとニィナも反射的にビクッと体を震わせた。

 水棲馬たちはその後も、泉の中から顔を出して継続的に鳴き声を上げ続けた。先ほどジンたちを見つけた奴個体とその仲間たちが、まだ近くに彼らがいると思って鳴いているのだろうか。木々を揺らす風の音すらかき消すほどの大音量を前に、猫妖精(ケット・シー)ゆえに聴覚が鋭いニィナはたまらず頭ごと耳を伏せた。彼女の体には、通常の人間の耳と猫耳の二種類がある。そのためニィナの耳は、普通の人よりも余計に様々な音を拾ってしまうのだ。最初は自身の耳を塞いでいたジンがそれに気づき、両腕の無いニィナの代わりに彼女の耳を両方ともすぐに塞ぐ。

「じ、ジン、この声……!」

「あぁ、水棲馬のいななきだ。しかもさっきの一匹だけじゃなく、かなりの数が居るらしいな……ニィナはここで待ってろ。俺は一人で、もう一度泉の調査をしてくる。」

 数分かけてようやく水棲馬たちの鳴き声が収まった頃に、ジンはニィナの頭をくしゃりと撫でながら彼女に手早く指示を出した。唐突かつ謎のいななきはどうにか静まったものの、先ほどの水棲馬たちがみな泉から離れたとは言いきれなかった。きっと今でも、ジンのような生き物が再び泉の近くに訪れるのを、穢れた水中かどこかで待っているはずだ。これからはそんな奴らに警戒しつつ、当初の目的であるナックラビーの捜索や、小島にある石像の確認などを行う必要があった。その一方で、戦闘力の無いニィナを再び劣悪な環境下で連れ回す訳にはいかなかった。ゆえにジンは、休息もかねて一度彼女をここに置いていくことにしたのだ。

 すると、泉に戻るために立ち上がりかけたジンに対して、木にもたれていたニィナはハッと目を見開きながら慌てて彼に言った。

「待って、ジン!声もそうなんだけど、少し遠くから、何かがドタドタって駆け寄ってくる音も聞こえるの。もしかしたら、ジンの話してた怖い人型のお馬さんかも……気をつけてね。」

「……分かった。お前も、俺が戻ってくるまで決してここから動くなよ?必ず戻ってくるから、それまで大人しくここで待ってるんだぞ。いいな?」

 ジンが再びニィナの傍にしゃがみながらそう言葉を返して、小指同士で約束を交わす代わりに彼女の体をギュッと強く抱きしめる。待機を命じられたニィナは一瞬不安そうに眉をひそめたが、ジンの体の温もりを感じて安堵したのかすぐに大人しくコクリと頷いた。

 ジンがニィナの頭をポンッと撫でて、小さく「良い子だ」と呟きながら身を離す。ジンはそのままニィナを木の傍に戻すと、目にも止まらぬ速さでヒュンとその場からいなくなった。かろうじてニィナの耳に届いたのは、ジンが木の枝から枝へ華麗に飛び回る音と、先ほど聞いた何者かのやかましい足音だけだった。ようやく静かになったかと言わんばかりに、別の草木などに隠れていた複数の小動物たちが、大木の下でしゃがみこむニィナの周りに自然と集まり始める。

「うん、大丈夫……ジンならきっと、大丈夫。ジンはニィナと違って、とっても強いんだもん。ニィナだって、ひとりぼっちになっても怖くないし、寂しくないもん……」

 一人残されたニィナは自分に言い聞かせるようにそう呟くと、少しでも寂しさや怖さを紛らわせるためにスッと目を閉じて膝を丸めた。小動物たちはそんなニィナを慰めるかのように傍に寄り添い、彼女の着ている赤いポンチョの匂いを遠慮なくスンスンと嗅いでいたのだった。




***




 一方その頃―――




 休戦の泉に再び戻ってきたジンは、自身の目の前に広がる景色を見て、思わず不快そうに眉をひそめた。当初は一匹だけだと思われた水棲馬が、ざっと数えても十匹以上、水面から虎視眈々と顔を覗かせていたのである。そのどれもがやかましいほどの鳴き声をあげながら、真っ赤に充血した目で陸地にいるジンの姿を睨みつけていた。迂闊に近づけば即座に噛みつかれて、水中に引きずり込まれてから骨の髄まで食い殺されてしまうことだろう。

 そう考えたジンは万が一に備えて、泉から少し離れた位置にある木の枝に留まっていた。仮に水棲馬が水面から飛び上がってきても、ここは高所なので流石に届かないと踏んだのだ。実際にそれは効果的だったらしく、水棲馬たちは相変わらずダラダラと涎を垂らしながらも、ジンに向かって攻撃などをしてくる様子は無かった。それをいいことに、素早くクナイを構えたジンが泉周辺、特に小島にあるパーゴラの周りを改めて観察し始める。

 元々はつる性植物に囲まれていた真っ白なパーゴラも、今では大部分が欠けて植物もすっかり枯れ果てていた。パーゴラの内側にある石像の姿も確認することができたが、そちらの方は欠損が少ない代わりに一部がカビのようなものに覆われていた。水の精霊を模したその石像の腕の中に、宝具と思われる物品は当然見当たらない。ナックラビーが予め盗んだからだろう。宝具なのでそう簡単に壊れることはないが、ナックラビーによって宝具の力が奪われている可能性は十分にあった。目を見張るほど美しいはずの自然の数々が、ナックラビーが宝具を盗んだだけでここまでひどく汚染されているのだから。

(先ほどにぃなは、何者かが駆け寄ってくる音を聞いたと言っていた。それはつまり、ここに水棲馬男が戻ってきているということでもある。そして、今の奴の手中には宝具があるはず……下手に魔法などを使われたら面倒だ。速攻で奴を片付けなければ。)

 心の中で諸々の考えをまとめたジンは一度深呼吸を挟むと、赤くて細い目を光らせながら素早く地面に降り立った。途端に水棲馬たちがぎゃあぎゃあと騒ぎ始めるが、ジンは石像のある小島へ移動するため、それに構うことなく泉の方に向けて足を一歩踏み出そうとした。

 するとその時、それまでうるさく泣き叫んでいた水棲馬たちが、突然ピタッと動きを止めて視線をジンから一斉にそらした。違和感を覚えたジンも思わず立ち止まったが、その直後、今度は泉周辺の地面がグラグラと上下に揺れ始めた。地震にしては揺れ方が不自然だし、何やらドタドタとけたたましい足音も聞こえてくる。咄嗟に地面に手をついて体勢を整えたジンは、いつでも戦えるように身構えつつ水棲馬たちの視線の先をジッと睨んだ。

 その瞬間、枯れかけた木々が急にバキバキとなぎ倒され、その奥から巨大な体を持つ何かが勢いよく飛び出した。

 馬のような四本の足に、人型の上半身を有したその何かは、荒れた泉の大地を盛大に駆け回りながら木々を揺らすほどの大声を上げた。

「うぉおおおおおおおお!!!わぁれぇえええこそおおおおはああああ、偉大なる泉の王ぉおおおお、ナックラビいいいいい!!!今この地に、帰還せしいいいいいいい!!!」

「……!!あれは、宝具……!!」

 予想以上の大音量の声に若干戸惑いつつも、ついに遭遇したナックラビーの手元を見たジンは途端にハッと息を飲んだ。地面に着くほど長い彼の腕と、ほぼ同じぐらいの長さを持つ槍のようなものが奴の手に握られていたのだ。槍といえども先端は尖っておらず、むしろ丸みを帯びたU字型に曲がっている。突き刺すと言うよりは、相手を押さえつけて捕獲することに特化した作りとなっていた。そんな槍の一部には美しい青色の宝石が飾られていたが、ナックラビーに力を吸い取られているためか、今では半分以上が赤黒く光っていた。

 あれは間違いない。水の精霊がこの休戦の泉に授けた宝具、通称叉護杖(さごじょう)だ。やはりナックラビーによって、あの石像から奪い取られていたようである。おまけに宝石の色から察するに、本来の力も大部分が奴に奪われ乗っ取られているようだ。これは面倒なことになったと言わんばかりに、ジンがクナイを握りしめながらひそかに頭を抱える。

 すると、ナックラビーは不意にその場で方向転換をすると、水面に浮かぶ骨などを足場代わりにして小島へと飛び移った。そして、離れた対岸にいるジンの方に向けて、宝具ごと体を向けながら再び大声を上げた。

「そぉおおこに居るうぅうう、黒き肌の人間よぉおおおおお!!!おぉおお前はなぁにものだぁあああぁあ!!?なぁあによぉおおでぇええ、我の前に現れたぁああああ!!?」

「……いい加減、そのやかましい声を抑えろ。耳障りだ……!」

 ジンは低く唸るようにそう呟くと、水棲馬たちが顔を覗かせている泉に向かって、低姿勢のまま素早くダッと走り出した。小島にいるナックラビーの元に真っ直ぐ向かおうとしたのだ。しかし、水面には水棲馬たちや骨しか浮かんでおらず、対岸へ安全に渡るための橋などはどこにも無い。そのためナックラビーはジンがこちらに渡って来れないと踏んで、余裕綽々と言わんばかりに口から大量の毒の息を吐いた。皮膚のないナックラビーの肌の裏で、薄く透けた血管の筋がピクピクと生々しく蠢く。

 しかし、ナックラビーが抱いていた余裕は、ものの数秒ほどでことごとく打ち砕かれてしまった。

 というのも、足の裏が泉の水面についたかと思えば、ジンはそのまま真っ(・・・・・・)直ぐ走り続けた(・・・・・・・)のだ。要は、ジンがさも当然と言わんばかりに、華麗な水上走りをナックラビーの前で披露したのである。

 ナックラビーは先ほど、水棲馬の屍などを利用して小島へと渡っていた。だが、対するジンは水棲馬ですら追いつけないほどのスピードで、一度も立ち止まることなく泉の水面を走り抜けていた。穢れた泉の水が廃棄物と共にパシャパシャと跳ね、水棲馬たちもこれは予想外と言わんばかりに動揺してやかましい鳴き声を上げていた。

 このままではほんの数分足らずで、黒い肌を持つ謎の人間が、自身がいる小島に辿り着いてしまう。

 一転して多少の焦りを覚えたナックラビーは、すかさず手に持っていた叉護杖をジンに向けて構えた。その直後、ナックラビーのいる小島の手前まで接近していたジンは、クナイ片手に奴の頭部めがけて飛び上がった。そのままクナイをナックラビーの頭に突き刺そうとしたジンだったが、咄嗟に反応したナックラビーが叉護杖の先端をジンの体に押し付けて跳ね返す。ナックラビーはその勢いのままジンの体を地面に押し付けようとしたが、ジンは器用に叉護杖の隙間からくぐり抜けて小島の地面に素早く降り立った。

 ついに相対峙することとなった、人間の忍びと暴れん坊の水棲馬男。ナックラビーは己の顔にある赤い一つ目をギョロッと見開くと、ジンに向けて叉護杖を突きつけながら唸るように言葉を紡いだ。

「きぃいいさまぁああ、何者だぁあああ??水面をぉおお屍を使わずぅううう、そしてぇえ飛ぉおびもせずにぃいいい、我の元に来るなどぉおおおお……ただの人間ではぁああないなぁあああ???」

「……これから死にゆくお前に、名乗る名など無い。強いて言うならば、ただの通りすがりの、忍びだ。」

 ジンはどこまでも冷たくそう言い放つと、再び低姿勢になってから、足の力だけで飛ぶように前方に向けて走り出した。同時に二本のクナイを両の手それぞれに構えて、ナックラビーの足にいくつか切り傷を刻む。ナックラビーにとって重要な移動手段から先に潰そうと考えたのだ。忍びであるジンの素早さに対応が遅れたナックラビーは、一瞬だけ訪れた痛みに呻きながらすかさず体勢を崩した。

 だが、流石はこの神聖な大地を荒らした妖と言ったところか。ナックラビーはすぐに、背後からクナイを刺そうと飛び上がったジンの方に顔を向けて、裂けた口から大量の毒の息を吐き出した。すんでのところでそれに気づいたジンは、強引に体をひねって再び地面の上に着地した。草木を枯らすほどの毒の息なので、もろに浴びていたらひとたまりも無かったことだろう。しかし、ナックラビーはそれでも諦めることなく、ジンに向けて何度も毒の息を吐き続けた。

 今いる小島の陸地が元より狭いせいで、この範囲内だけだと逃げ場は限られている。おまけに両者のすぐ近くには、宝具が備えられていた例の石像が祀られていた。下手に動き回ると、破損の進んだ石像にまで悪影響が出てしまいかねない。

 ジンは毒の息を避けつつチッと舌打ちをすると、小島における毒の被害を少しでも減らすために、隙を見て泉の水面の方に移動した。ナックラビーもすぐにジンの跡を追いかけようとしたが、元来より淡水が苦手なので水面の手前でピタッと足を止めた。対するジンは小島から少し離れた水面へと移動したのちにその場で静止した(・・・・・・・・)。廃棄物すら無い水の上で、なんの支えもなく真っ直ぐ立ったのだ。一流の忍びであるジンだからこそ出来る、忍者特有のちょっとした技の賜物だった。

 しかし、まさか走れるだけでなく立つことも出来るとは思わず、ナックラビーは目を異様なまでに丸くしながら憤然とした様子で声を荒らげた。

「き、きっさまぁああああ!!!わあああれがぁあああ、この泉の水にいぃい弱いと知ってぇええええ、そんなあぁ無礼を働いたというのかぁあああぁああ!!!許さあぁああん、許さんぞぉおお貴様ぁぁあああ!!!」

「……相変わらずやかましい奴だな。それよりも、お前が手にしている宝具を今すぐ石像に戻せ。水の精霊うんでぃーねの加護により、そうするだけで全てが元に戻るはずだ。」

 ジンは水の上で腕を組みながら冷たくそう呟くと、手にしていたクナイを構え直してから、ナックラビーの元に向けてそれを素早く投げた。ナックラビーは叉護杖でそのクナイを上手く弾き飛ばすと、その場で文字通りダンダンと足踏みをしながらジンに向けて大声で答えた。

「こおおおおとわるううううぅぅ!!!わあああれはああぁああ、この宝具でえぇええ世界をおおおお我がものにするのだあああああぁぁぁ!!!あと少しいいぃ、あと少しでこの宝具の力はあぁあ、完全に我のものとなるうううううぅ!!!なんびとたりともぉおおお、その邪魔はさせんぞおおおおおお!!!!」

「……その叉護杖は、この休戦の泉を守るためにうんでぃーねが用意したものだと言われている。その杖一本だけでは、せいぜいこの休戦の泉全域しか支配出来ないぞ。それでもお前は、井の中の蛙の如く“世界の”王を名乗るつもりか?」

 定期的にクナイを投げつつ、ジンがどこまでも冷静に、それでいてナックラビーの怒りを煽るかのように言葉を続ける。妖ゆえにそこまで頭が良くないナックラビーは、そんなジンの冷たい挑発にまんまと乗せられたようだった。手にしていた叉護杖を振り回しながら、周りの大地が揺れるほどの勢いで地団駄を踏んでいる。その衝撃で泉の水面もバチャバチャと飛び跳ねたが、その場に立っていたジンが水中に落ちることは決して無かった。それがかえってナックラビーの怒りを買うこととなり、彼は大きな一つ目でジンの姿を睨みながら叉護杖を強く握りしめて叫んだ。

「ええぇええい黙れえぇえええ!!!憎たらしきウンディーネの名をおおおお、我の前で口にするなあぁああああ!!!彼奴(あいつ)さええええ、彼奴さえ居なければあぁああ、我こそがあああ水を支配しぃぃいい王となれたはずなのにぃいいいいい!!!」

「なるほど。そう言えばお前は元々海に住んでいて、うんでぃーねも海の奥深くにいると聞いたことがあるな……たまたま同じ場所にいたからと言って、神に認められし精霊相手に無意味な逆恨みをするとは。お前も人と同じく愚かな妖だな。」

 ジンが煽れば煽るほど、怒りに満たされたナックラビーの口からこぼれる毒の息の量や濃度が増していく。奴の一つ目も水棲馬たちと同じく真っ赤に血走っており、怒りに飲まれていよいよ周りのことが見えなくなっているようだった。

 しかし、ジンとしてはその方がむしろ都合が良かった。

 強い憤怒の情などで我を忘れた妖は、たしかにまともに手が付けられないほど凶暴になる。しかし、その一方で動きはとても単調になるし冷静さも失うので隙が生じやすい。そのためジンは、あえてナックラビーの怒りを誘うことで、自分にとって有利な状況を作り出そうとしたのだ。おまけに周りには、ナックラビーが苦手とする淡水で満たされた泉があった。地の利に関しては完全に、水面を走り回れるジンの方が恵まれていた。

 気がつけば、最初は叉護杖で弾かれていたクナイも、途中から何本かナックラビーの体に突き刺さっていた。そろそろ余裕が無くなってきたらしい。そう予想したジンは、クナイの投擲をやめてすかさず臨戦態勢を整えた。いつでも水面を駆け抜けて、陸地にいるナックラビーに飛びかかれるようにスッと身構える。

 だが―――実のところ、ジンはナックラビーのことを甘く見ていた。正確には、例の宝具の力が、どれほど奴に奪われていたのかを想定していなかったのだ。

 それまでひたすら地団駄を踏んでいたナックラビーは、おもむろにギロッと目を見開きながら叉護杖を地面にガンッと叩きつけた。同時に、叉護杖の先端付近に設置された宝石から、妙に赤黒い雷のような閃光が瞬き始めた。

 その直後、ナックラビーに怯えてか泉の端に固まっていた水棲馬たちの目が、宝石と同じように赤黒い光を煌々と放ち始めた。そして、ナックラビーが叉護杖をジンに向けて振りかざした瞬間、全ての水棲馬たちが一斉にジンの元に向かって勢いよく泳いできた。

 ナックラビーが宝具の力を使って、この場にいる水棲馬たちを操っているのだ。

 流石に驚いたジンは咄嗟に体勢を変えると、水棲馬から逃れるために対岸に向けて急いで走った。ナックラビーに操られた水棲馬たちは、恐ろしいほどの速さでジンの後を追いかけた。しかし、ジンが対岸にある木の上に飛び乗ったことで彼を捕まえることは叶わなかった。それでもかなりギリギリの距離感だったので、背の高い木の枝に避難したジンは、冷や汗混じりに荒い呼吸を整えた。一方で水棲馬たちは、ジンの眼下に広がる水面にワラワラと集まりつつ、耳をつんざくほどの大声で泣き喚いた。目は相変わらず赤黒いし、サメのような鋭い歯で一斉にガチガチと音を鳴らしている。迂闊に近づけば途端に噛みつかれて一巻の終わりだ。

 そんなジンと水棲馬たちの睨み合いを遠目に眺めながら、ナックラビーは折れてしまうのではないかと思えるほどの力で叉護杖を握りしめつつ再び大声で叫んだ。

「わぁぁぁあが力をおおおお、見誤ったなあああぁぁぁ人間よおおおおお!!!この地のウォーターホースはあああみなあああ、我に忠実なあああ下僕なりぃいいいい!!!わぁぁれこそがああああ、この泉の王おおおお!!!そしてゆくゆくはぁぁあああ水の王となりいいいい、世界の王となるものだああぁあああ!!!」

「……くそ。なんて面倒なことを……!」

 片方の手でじわじわと痛む耳を押えつつも、ジンはマスクの下でグッと唇を噛み締めながら小さくそう呟いた。本当はすくにでもナックラビーの元に戻らなければならないのだが、水面に集まった水棲馬の群れのせいで道の大部分が塞がれているのだ。とはいえこのまま躊躇し続ければ、宝具の力が完全にナックラビーに取り込まれて厄介なことになりかねない。

 例の宝具一個だけで世界そのものを支配することは流石に不可能だろう。しかし、この休戦の泉以外の地域でも同じような被害が生じる可能性は十分にあった。それを防ぐためにも、今すぐナックラビーを倒さなければならない。奴の大き過ぎる声が原因で、今も苦しんでいるであろうニィナのためにも。

「……屈するな、恐れるな。己が心は、常に刃と共に。」

 ジンは小声で(まじな)いを唱えるようにそう呟くと、それまで待機していた木の枝から颯爽と飛び降りた。そして間髪入れずに、水面に浮かんでいた水棲馬たちのうち数匹の頭部にクナイを投げた。不意をつかれた数匹は途端に悲鳴をあげて、頭から血飛沫を出しつつ慌てて水中に逃げ込んだ。ほぼ真っ黒な水面に、先ほどの水棲馬たちのものと思しき赤い血が微かに浮かび上がる。残りの水棲馬たちは思わずザワッとどよめいて散らばったが、ジンは躊躇いなく水面に降り立つと残りの水棲馬たちにも向けてクナイを連投した。ナックラビーを倒す前に、自身の行く手を阻む水棲馬たちを倒すことにしたのだ。

 同時にナックラビーは、ジンを恐れて逃げ惑う水棲馬たちを操るために叉護杖を天高く掲げた。途端に水棲馬たちの目が再び赤黒く光り始め、みなが逃げの姿勢から一転してジンに襲いかかる。対するジンも戦う覚悟を決めていたようで、特に臆することなくクナイだけで奴らを蹴散らし始めた。泉の水が次第にバシャバシャと激しく飛び散り、近くの木々に隠れていた鳥や小動物たちが危機感を覚えて一斉に立ち去る。




 宝具を手にしたナックラビーと、奴に操られた飢えた水棲馬たち、そして忍びであり人間でもあるジン。

 そんな三者による、休戦の泉の復活をかけた激しい戦闘がついに幕を上げた。

 しかし、どれだけ森の中の一角が騒がしくなっても、黄金の傘が生み出した偽物の太陽は相変わらず静かに地上を見守っていたのだった。




***




 一方その頃、別の場所では―――




「……ジン、大丈夫かな。さっきからお馬さんの悲鳴みたいな声がするし、水が跳ねる音もさっきより激しくなってる……」

 少しだけ開けた空間の中で、太さのある木の傍に腰掛けていたニィナは、ひどく不安そうに膝を丸めながら眉をひそめた。彼女の傍らにはウサギやリスなどの小動物が、数匹ほど何かに怯えた様子で身を寄せていた。これらのうち半分近くが、ジンとナックラビーの戦闘が始まった泉から逃げ出したものたちだった。ナックラビーだけでなく、奴に操られた水棲馬たちの暴走にも恐れおののいたがゆえである。

 ニィナも得意の聴覚を頼りに、泉の方でジンがナックラビーと戦っていることを何となく察していた。ナックラビーのあの特徴的な大声は、当然離れた場所にいたニィナの元にも届いていた。そのためニィナは奴の大声などの騒音に苦しみながらも、今に至るまでジンの言いつけを守ってこの場で待機し続けていたのだ。

 しかし、時が経てば経つほど争いの音は激しさを増すようになり、それに比例してニィナの心の中における不安も強くなり始めた。ジンなら大丈夫、彼はとても強いから問題ない。頭の中でそう思い込もうとしても、もしジンの身に何かあったらという、曖昧ながらも最悪な未来ばかりをどうしても想像してしまう。命の恩人であるジンが死んでしまったら、と考えるだけでも背筋がゾッと震えてしまう。

「どうしよう……ジンには、戻ってくるまで動いちゃだめって言われたけど……ニィナ、やっぱり心配。ジン、本当に大丈夫なのかな……?」

 ニィナは次第に目に大粒の涙を湛えると、ひとりぼっちゆえの恐怖心と不安に駆られて静かに肩を震わせた。顔を膝に押し付けていたため、擦り切れた白黒のボーダー柄のハイソックスに、彼女の目からこぼれた熱い涙がじわっと染み渡る。

 耳を塞ぎたくても塞げない。自分の体を抱きしめたくても、抱きしめられない。今の自分には両腕がないから。そして、今は傍に、ジンが居ないから。

「……ちょっと、見るだけ……泉の方を、ちょっとだけ覗くぐらいなら、大丈夫だよね?」

 ニィナな不意にハッと目を見開いてそう呟くと、膝を使って涙を拭いてから後ろの木を頼りにゆっくりと立ち上がった。ニィナが急に動いた影響で、周りにいた小動物たちが一斉に彼女の元を離れて逃げていく。

 だが、ニィナは覚悟を決めた様子で鼻息を荒くすると、転んでしまわないよう慎重に道を進み始めた。泉の方で戦っているジンの様子を、ほんの一瞬だけでも見にいこうと決めたのだ。両腕の無い彼女の、ある意味無謀とも言える行動を止める者は居なかった。唯一止められるであろう者は今、神聖な泉を汚した悪しき妖と戦闘中なのだから。

 ニィナが己の肩や頭を使って、自分より背の高い低木樹を少しずつかき分けていく。途中で木の枝が肩などに軽く刺さり、微かな痛みを感じたニィナはその度に思わず足を止めた。だが、臆してる場合じゃないと思い直して、泣いたりもせずすぐに体勢を立て直した。自身の聴覚を頼りに、泉に向けて道無き道をどんどん歩いていく。

 そして、ニィナが移動を開始してから数分後―――彼女の体はようやく低木樹の群れを突き抜け、泉が間近に広がる開けた場所にたどり着いた。同時にあの不愉快な悪臭も鼻腔を掠めたが、ニィナは鼻の代わりに口で息を吸いながら泉の奥に目を向けた。ニィナの視線の先では、小島の中で叉護杖を振り回すナックラビーと、現在進行形で大量の水棲馬と戦っているジンの姿があった。

 ジンが水面を素早く走り抜け、自身に追いつこうとした数匹の水棲馬を回し蹴りやクナイで跳ね返す。背後から奇襲を仕掛けた個体には、すんでのところでかわして頭部にクナイを突き刺した。その隙にまた別の個体が、水中からジンの足めがけて浮上する。しかし、水に浮かんだ波紋で先にそれに気づいたジンは、すかさずその場から飛び上がって陸地へと避難した。そこからまたさらにクナイを投げ飛ばしつつ、水面の隙間を縫ってナックラビーの元へ向かおうとする。

 傍から見れば、ジンが多くの水棲馬たちを、クナイだけで一網打尽にしているように思えた。しかし、実際はナックラビーが宝具の力で、水棲馬たちを裏で余すことなく延々と操作し続けていた。そのせいで、一度倒れてもまた復活してを何度も繰り返す個体が予想よりも多くいたのだ。ジンがどれだけ倒しても、彼の行く手を阻む水棲馬の数が減らないのはそれが原因だった。

 とはいえジンもそのことにはすでに気づいており、まれに隙を窺ってはナックラビーめがけてクナイを投げることもあった。自分が水棲馬だけに集中してると予想して、奴が油断した瞬間を狙っていたのだ。しかし、宝具のお陰で遠距離からの攻撃が有効となっているからか、幾分か余裕を取り戻していたナックラビーは冷静にそのクナイを叉護杖で弾き返した。次第にジンの方は動くための体力が、水棲馬たちの方は満足に動ける個体が少しずつ減り始めていた。

 確実かつ徐々にお互いの戦力が減っているものの、一向に勝敗がつきそうにないジンとナックラビー、正確には水棲馬たちも含めての戦い。

 その一幕を垣間見たニィナは、周囲に蔓延した悪臭も忘れて、思わずジンの名前を大声で叫んだ。

「ジーン!大丈夫ー!?ジーン!!」

「にぃな!?お前、そんな所で何を……っ!!」

 戦闘の最中でも耳ざとくニィナの声を聞き逃さなかったジンが、一匹の水棲馬の顔面にクナイを突き刺しながらギョッと目を丸くする。

 だが、ジンの意識が遠くの対岸にいるニィナに向けられた、その瞬間―――ジンの死角から飛び上がった別の水棲馬が、ついに彼の左肩に勢いよく噛み付いた。サメのそれと同じ鋭さを持つ歯がジンの肉に食らいつき、油断していたジンがうめき声を上げながらバランスを崩す。

 それでも偶然近くに陸地があったので、ジンは水中に落ちることなく身を捩ってそこに逃げ込んだ。それでも肩に食らいついた水棲馬はなかなか離れず、むしろ肉を引きちぎらん勢いでグッと歯を突き立てた。クナイで水棲馬をどかそうとしたジンが、激痛に耐えかねて悲鳴をあげる。

「ぐ、あ、あ゛あっ!!く、そ……!!」

「ジン!?大丈夫、ジン―――きゃっ!?」

 ジンが水棲馬に襲われたことに気づいたニィナは、脇目も振らずに泉の方へ近づいて水面の近くで身を乗り出した。しかしその瞬間、いつの間にか彼女のいる水面近くに移動していた水棲馬が、ニィナのポンチョの裾にバクッと噛み付いた。ニィナの存在に気づいたナックラビーが、その一匹を操作してニィナを捕らえようとしたのだ。

 ナックラビー本人はジンとニィナの関係性を全く知らなかった。しかし、ジンが分かりやすく動揺したことで、彼女には人質としての価値があるとナックラビーは瞬時に悟ったのだった。

 一方ニィナは唐突な衝撃に驚きつつも、両足で地面を強く踏みながら、例の水棲馬に対して必死に抵抗した。だが、流石に力だけでは水棲馬の方が圧倒的に上だった。次第に水棲馬との距離が近くなり、ニィナの脳裏に両腕を失ったあの時の記憶がフラッシュバックする。

 あの時も、湖の中に落とされた自分は、凶暴な水棲馬によって両腕を食われてしまったのだ。

 当時のトラウマが一気に蘇ってしまい、ニィナの背筋がゾッと震え上がる。それによって彼女の足からも力が抜けてしまい、同時に水棲馬がポンチョを引っ張ったことで、ニィナはその場で盛大に転んでしまった。

「きゃあっ!ま、待って!お願い、離して……嫌ぁああああっ!!!」

「……っ!!にぃな!!!」

 ニィナが転んだ隙に、例の水棲馬はついにポンチョごと彼女を泉の中へと引きずり落とした。途端にぼちゃんと大きな水の音が鳴り響き、ようやくクナイで件の水棲馬を刺し殺したジンがギクリと身を強ばらせる。この泉には、餌に飢えた水棲馬たちがまだたくさん潜んでいるのだ。おまけにナックラビーのせいで、泉の水質自体もひどく劣悪なものとなっていた。仮に水棲馬たちに食われなかったとしても、小さくて弱いニィナの体に何かしらの悪影響が出る可能性は十分にあった。

 ジンはマスクの中でギリッと歯を食いしばると、傷ついた肩の痛みなんぞ気にすることなく、獣のように吠えながら水面に向かってダッと駆け出した。その水面には今もなおジンを狙っている水棲馬たちがいたが、ジンはクナイを駆使して一心不乱に奴らを追い払った。水面にいたままのものには頭にクナイを深く突き刺し、飛び上がったものには胴体を中心にクナイを刺して追い返す。

「退けっ!!邪魔を、するなっ!!」

 ニィナを救うために必死になっていたジンは、珍しく大声を張り上げながらついに水棲馬たちの群れをくぐり抜けた。そのままがら空きになっていた小島周りを走り抜け、全ての元凶であるナックラビーに向かって跳躍する。彼の赤い瞳は怒りの色一色に染まっており、目の前の敵を確実に殺すという決意が露骨に表情に浮かび上がっていた。

 しかし、この時のジンは完全に冷静さを失っていた。ゆえにその動きは当初の機敏さを失い、すっかり余裕を取り戻したナックラビーが簡単に回避できるほど単調なものとなっていた。

 同時に水面からは例の水棲馬が飛び上がり、それまで咥えていたニィナの体を小島の陸地に放り投げた。ニィナが受け身も取れずに地面の上へ落下し、彼女の体にまとわりついた水が藻ごとピシャッと飛び散る。

 しかし、遅れて地面に着地したジンがニィナの方に目を向けたその瞬間―――巨大な体を持つナックラビーは、彼に向けて叉護杖を勢いよく振り下ろした。我に返ったジンは咄嗟に回避を試みたが、叉護杖の先端はそれよりも早く、ジンの体を地面に叩きつけるように拘束した。先端がU字型なので殺傷能力こそないものの、土がえぐれるほどの勢いで体を捕縛されたジンが声にならない悲鳴をあげる。

「げほ、げほっ……じ、ん……ジン……!!」

 途端に茶色い土煙に包まれた小島の中で、どうにか九死に一生を得たニィナが激しく咳き込みながらジンのいる方に目を向ける。だが、しばらくして土煙が収まった頃、ニィナは己の目の前に広がる光景を見て思わず絶句した。

 皮膚がないゆえに、内側にある血管の動きが生々しく見える不気味な肉体。紫色に染まった、見るからに有害そうな息を吐いている大きく裂けた口。そして、叉護杖で捕らえたジンを見下ろす真っ赤な一つ目。

 生まれて初めて見た本物のナックラビーを前に、ニィナは恐怖で表情をひきつらせて息を飲んだ。しかし、ジンは先ほどの衝撃で気を失ったのか、ナックラビーの持つ叉護杖に押さえ込まれたままピクリとも動かなかった。水棲馬に噛まれた肩からだけでなく、頭からも真っ赤な血がドクドクと流れている。それを見たニィナは恐怖で体をガタガタと震わせたが、腕が無いせいでうつ伏せの状態から一人で起き上がるのは無理だった。

 これはもう死んだだろうと予想したのか、ナックラビーはおもむろにジンから叉護杖を離すと、ニヤニヤと不気味に笑いながらニィナの方に体を向けた。反射的にビクッと体が跳ね上がったものの、ニィナは足などを使ってどうにかその場から逃げようとした。しかし、異様なほどの長さを持つナックラビーの腕と手は、いとも容易くニィナの襟首を掴んで高く持ち上げた。ついに逃げ場すらも封じられたニィナが涙混じりにじたばたと激しくもがく。

「やだ、嫌だ!!お願い、離して!!離してよぉ!!」

「ほおおお……!!こぉおれはこおぉれはああぁ、見れば見るほどおおお、美しいいぃい生娘(きむすめ)じゃああぁぁないかぁぁあああ!!!なぁあああ生娘よおおおお、お前おおおお我が妃としてええええ、特別にいいいい迎え入れてやろうかぁああああ???」

「ひっ……!!」

 ナックラビーが己の眼前にニィナを近づけたことで、何やら興奮した様子の奴の口から、ニィナの体めがけて毒の息がブワッと吹きかかる。危うくそれを吸いかけたニィナは、慌てて目と口を閉じて息を吸うのをやめた。毒の息は急な突風のお陰ですぐに消えたものの、ナックラビーはニィナの体を摘んだままおもむろに泉の方に近づいた。ナックラビーが泉の水面に向けて手を伸ばすと、宝具の影響もあって暴走状態となった多数の水棲馬たちが、ニィナの体の真下にある水面へ一斉に集まった。まさに、池にいる魚に餌を与える時のような光景だ。ナックラビーが少しでも手を離せば、途端にニィナは水棲馬たちの元に落とされ、なすすべもなく無惨に食い殺されてしまうだろう。

 恐怖でゾワッと全身の毛を逆立てたニィナは、トラウマでもある水棲馬の顔を見たくない一心でギュッと目を閉じた。本当はもがきたかったものの、落ちてしまったら元も子もないので体も動かさずにグッと静止した。そんなニィナを脅すように、彼女の体を手で揺さぶりながらナックラビーは続けて大声を上げた。

「さぁあああ選べぇえええ生娘よおおおお!!!我が妃となるかああぁああ、それともおおおおお、我が下僕共の餌となるかをおおおおお!!!早く選ばないとぉおぉぉ、腹を空かせた下僕たちにぃぃいい噛みつかれてしまうぞおおおおおぉぉぉ!!!」

「!?い、いや……ニィナ、もう水の中には、落ちたくないの!!お願い、助けて、ジン……!!!」

「……っ……に、ぃな……」

 水棲馬への恐怖に耐えかねて、ついにニィナが大声で泣き叫ぼうとした、その瞬間。

 それまで微動だにしていなかったジンの指先が不意にピクッと動いた。かと思えば、ジンは苦しげに呻きながらも、そのままよろよろと起き上がろうとした。頭からはぽたぽたと赤い血が垂れているが、彼の鋭くて赤い瞳から生命の光は全く失われていなかった。

 てっきりジンは死んだものだと思い込んでいたナックラビーは、ニィナ片手に思わず彼の方に体を向けながら目を丸くして叫んだ。

「きぃぃぃさまあああああぁぁぁ、まぁああだ生きてたのかああああ!!?あれほどの勢いでええええええ、宝具を使ったというのにいいいいいい!!?」

「だ、まれ……今すぐ、にぃなを、地面に下ろせ……!そうすれば、お前の命だけは、見逃してや―――が、あ゛‬っ!?」

 出血の止まらない頭を押えつつ、ニィナを守るためにフラフラと立ち上がろうとしたジン。だが、彼の体はすぐにナックラビーによって再び叉護杖で固定されてしまった。最初と違って、その体勢は仰向けではなくうつ伏せの状態となった。そのお陰でか衝撃こそ減らせたものの、さらなる激痛を覚えたジンは低く呻きながら大きく目を見開いた。ナックラビーが体の向きを変えたことで、水棲馬からはどうにか逃れたニィナが慌ててジンの名前を呼ぶ。

「じ、ジン……!ジン!!」

「ええええいぃぃたわけえええええ!!!こおぉおおんな美しいぃぃぃぃ生娘を隠していた分際でええええぇぇ、調子に乗るなよぉぉおおお人間風情があああああぁああ!!!」

「ぅ、ぐ……!に、ぃな……」

 ジンはどうにか力を振り絞って叉護杖から抜け出そうとしたが、ナックラビーは容赦なく上から杖を押し付けて彼の動きを封じた。素早さなどでは負けているものの、腕力に関してはやはり巨体であるナックラビーの方が上のようだ。それでもジンは決して諦めることなく、懐から新たなクナイを取り出してナックラビーの足にそれを突き刺そうとした。

 しかし、そのクナイを目ざとく見逃さなかったナックラビーは、足をヒョイッと上げて簡単にそれをかわした。代わりにナックラビーは、空振りに終わったジンの手をその足でクナイごと踏みつけた。踏まれたジンの手から、骨が軋むミシッという嫌な音が小さく鳴り響く。それでもナックラビーは構うことなく、体を傾けることでその足に重力を全て集中させた。ジンの利き手である右手の骨が折れるのも時間の問題だった。

 途端に焦燥感を覚えたニィナは、ナックラビーの手に掴まれたままオロオロと目を泳がせた。ジンを助けたいのは山々だが、自分は今ナックラビーの手で捕まっているし、何より両腕が無いから助けようがなかった。今の自分に出来るのは、情けなく泣き叫びながらその場でじたばたともがくことだけだった。


 いや、違う。もっと、他にできることがあるはずだ。

 大切なジンが死んでしまう前に、こんな弱い自分でも出来ることが。


「お願い、もうやめて……!!ジンをいじめないで……ころさないで!!」

 気づけばニィナは、涙をこぼすのを我慢しながら大声でそう叫んでいた。本格的にジンの手をへし折ろうとしていたナックラビーが、赤い一つ目をギョロッと動かしてニィナの方に視線を動かす。叉護杖で地面に固定されたままのジンも、痛みに耐えながらニィナの方に顔を上げた。

 両者の視線を一点に浴びたニィナは、少しだけそれに戸惑いながらもすぐに気を取り直して、ジッとナックラビーの顔を睨みつけた。何かを察したナックラビーがニヤリと微笑み、暴れるのをやめたニィナの体を己の顔に近づけて彼女に尋ねた。

「おおぉっとおおぉお??わぁぁぁが妃になるぅううう決心がああああ、ようやくついたのかああぁあああ生娘ぇぇええええ??」

「……そう、だよ。ニィナ、おじさんの妃に……お嫁さんに、なるよ。そうしたら、ジンのこと、解放してくれるんでしょ?」

「……!にぃな、よせ……やめろ……!」

 ナックラビーの言葉に対してニィナがおずおずと頷いた瞬間、ジンはハッと目を見開いて強引に叉護杖の隙間から這い出ようともがいた。すかさずナックラビーが叉護杖を持つ手に力を込めて、ジンの体をより強く地面に押し付ける。それでもジンは諦めることなく、痛みも忘れて杖から抜け出そうとした。自分の命と引き換えに、ニィナがナックラビーの妃という形で犠牲になるのを防ぎたかったのだ。

 しかし、顔を俯かせたニィナは必死に泣くのを我慢しながら、微かに震えた声でジンに向けてポツポツと呟いた。

「あのね、ジン……ニィナはね、水の中に落ちたり、お馬さんたちに食べられたりするのはもう嫌なの。でも、今はそれ以上に……ジンがニィナのせいで、いっぱい傷つくところを見る方がずっと嫌なの。」

「……にぃ、な……」

「ごめんね、ジン。ニィナにも出来ること、これしか思いつかなくて……でも、ジンは今まで、ニィナのために戦ってくれたんだもん。だからニィナ、全然怖くないよ。痛くもないよ……ジンの方が、ニィナよりもずっと、怖くて痛い思いをしてるんだから……!」

 堪えきれない分の涙をボロボロと流しながら、ゆっくりと顔を上げたニィナが無理やりニコッと微笑む。いつもの純粋な明るい笑顔とは全く違う、強い悲しみを孕んだ儚い笑顔だった。それを見たジンの心臓が、途端にズキッと激しく痛む。


 同時に彼の脳裏には、今となっては懐かしい家族みんなの暖かな笑顔が過ぎった。

 妻のユキ、兄のヨロズと妹のネネ、そして赤子のコウタロウ。

 大切なみんなの笑顔が、頭の中から消えていく。白く霞んで、少しずつ見えなくなってしまう。

 このままでは、今見えているニィナの笑顔も、みんなと同じように―――


 するとその時、ニィナが正式に妃になったと確信したナックラビーは、ひどく興奮した様子でドタドタと盛大に足踏みをし始めた。同時に叉護杖と己の足をジンの体から離し、ニィナの体を持ち上げたまま大声で高らかに叫ぶ。

「なああぁぁぁら決まりだああああああ!!!よぉおおおろこべえええええ生娘えぇぇぇ!!!偉大なるこのぉぉおナックラビぃいいがあああああ、お前のことをぉおおおお、全身全霊で寵愛してやろぉおおおおお!!!」

「……っ……」

 ニィナを手に入れたことがよほど嬉しかったのか、激しく体を動かすナックラビーの口からは絶えず紫色の息が吐き出されていた。危うくナックラビーの手から振り下ろされそうになったものの、奴の吐く毒の息を見逃さなかったニィナが慌てて口を閉じる。再びタイミング良く突風が吹いたお陰でまた毒の息は消えたが、事態そのものは何も改善されていなかった。奴の握る叉護杖に設置された宝石は、いよいよ元の青い光を失って、赤黒いそれに満たされようとしていた。時間の経過に伴って、宝具の力のほとんどがナックラビーに奪われてしまったのだ。未だ暴走状態のままだった水棲馬たちもぎゃあぎゃあと喚き散らしており、神聖な泉の地はまさに地獄のような有様と化していた。




 しかし、その直後のことだった。

 上機嫌になって油断していたナックラビーの頭部から、急にドスッという鈍い音が鳴り響いたのは。




「…………お゛‬、あ゛‬…………?」

「イバラ村直伝、忍の掟第三十七条……目前の敵からは、いっぺんたりとも、目をそらすな……!!!」

 叉護杖が外されたことで自由の身となったジンが、深い怒りに満ちた獣のような唸り声でそう呟く。そのままジンは、ナックラビーの頭部に突き刺したクナイに力を込めつつ、気味の悪い肉で覆われた奴の首をガッと押さえた。そうすることで、ジンの持っていたクナイの刃はナックラビーの頭部をことごとく貫通した。

 ジンよりもずっと大量の血飛沫がナックラビーの頭部から吹き出し、急所を狙われたナックラビーが途端にけたたましい悲鳴をあげる。その瞬間、奴の両手からは力が一斉に抜けてしまい、そこにあった叉護杖とニィナがほぼ同時に空中に放り投げられた。

 すると、ジンはクナイをナックラビーの頭部に刺したまま、奴の体を蹴り飛ばして迷わずニィナの元に跳躍した。頭から血を流す怪我人とは思えぬほどの身のこなしで、為す術なく地面に落下しかけたニィナの体を受け止めようとする。

「にぃな……!!」

「じ、ん―――きゃあっ!!」

 飛距離を稼ぐためにジンが懸命に手を伸ばした結果、ニィナの体はすんでのところでジンの腕の中に着地した。しかし、地面からはほんの数メートルも無い距離だったので、ジンはすかさず猫のように身を捩って受け身を取った。そのお陰でニィナは地面にぶつからずに済んだものの、ジンは彼女の体を抱えたまま背中から激突した。思わず「う゛‬ぐっ!」と声を上げるジンの横で、例の叉護杖がカランカランと乾いた音を立てながら落ちてきた。

 一方、頭部をクナイで刺されたナックラビーは、激痛に悶えながらその場でフラフラとよろめいた。ほぼ満身創痍だったジンによる奇襲のせいで、途端に体のバランスが取れなくなってしまったのだ。しまいには片足が陸地近くに浮上していた藻と絡んでしまい、ナックラビーはそのまま足を滑らせて泉の中に落ちてしまった。

 元より淡水を苦手とするナックラビーにとって、休戦の泉の水は苦痛以外の何物でもなかった。皮膚のない肉体が絶えずズキズキと痛み、水棲馬の仲間ながらも浮上する余裕すらなくなってしまう。それまで高らかに王を名乗っていたナックラビーは、今や宝具すらも手元から失い、真っ黒な水の中で情けなくもがき続けていたのだった。

 その時、ナックラビーは不意に自身の周りから、何やら殺気のそれにほど近い異様な気配を感じ取った。それも一体だけではない。三体四体、否、ざっと数えても二桁は優に超えている。途端に嫌な予感を覚えたナックラビーに答えを示すように、水中に潜んでいた水棲馬(ウォーターホース)たちは沈みゆく奴の姿を睨みながら鋭い歯を剥き出しにした。宝具による支配は解かれたはずなのに、飢えに飢えた結果不気味なほどに血走った奴らの両目が、身動きの取れないナックラビーの姿を真っ直ぐ捉えていた。

 ナックラビーが大量のあぶくを吐き出しながら悲鳴をあげる。しかし、当然奴に救いの手を差し伸べるものなんてどこにも居なくて。

 念願の巨大な餌を見つけた水棲馬たちは、盛大に鳴き声を上げながら一斉にナックラビーの元へ突撃した。あるものは腕に、あるものは胴体に容赦なく噛みつき、ナックラビーの肉を骨ごと余すことなく引きちぎる。

 生き残っていた水棲馬の数がそこそこあったせいで、ナックラビーの巨大な体はものの数分足らずでそのほとんどを食われてしまったのだった。



 一転して静まり返った泉の水面から、次第に赤黒い血の塊と骨のようなものがぷかぷかと浮かび上がる。しかし、ギリギリの状態で地面に降り立ったジンたちにそれを見る余裕はあまり無かった。ジンに抱えられていたニィナが先に顔を上げて、慌ててジンに声をかける。

「ジン、ジン!!しっかりして、ジン!!」

「ぅ、く……にぃな……怪我は、無いか?」

「ニィナは平気だよ!でもジン、血が……!!」

 ニィナより少し遅れて目を覚ましたジンは、慌てふためくニィナを窘めるように彼女の背中を優しく撫でた。そのままニィナと共に起き上がり、彼女の体を地面の上に立たせてからパーゴラの柱に寄りかかる。ジンの肩と頭からはドクドクと赤い血が流れており、返り血の滲んだマスク越しの息もひどく絶え絶えだった。どこからどう見ても今すぐ治療が必要なほどの重傷である。

 しかし、ジンは心配そうな表情を浮かべるニィナに対して首を振ると、血の止まらない肩を手で押さえながら掠れた声で呟いた。

「これぐらいなら軽傷だ、問題ない。それより……俺が戻ってくるまで、あそこで待ってろと言っただろ。危険な目に遭うとも分かってたはずなのに、どうしてここに戻って来たんだ?」

「……っ……!ごめん、なさい……ニィナ、ジンのことが、どうしても心配になって……!!」

 何故元いた空間から移動したのかをジンに追及されたニィナは、一瞬ピシッと身を強ばらせたのちに、丸くて赤い目からボロボロと大粒の涙を零した。ここに来てジンからの指示を守れなかったことと、自分の身勝手のせいでジンを傷つけてしまったことへの罪悪感に駆られてしまったのだ。同時にナックラビーと対峙した時の怖さもぶり返してしまい、ニィナはワンワンと大声で泣きながらジンの体に寄りかかった。止血のために片手が塞がれていたものの、ジンはもう片方の手でニィナの体を優しく受け止めた。彼の表情には多少の呆れと疲れ、そしてそれらを上回るほどの安堵の色がひそかに滲み出ていたのだった。

「ひ、うっ……約束破っちゃって、ごめんなさい、ジン……!!また、ニィナのせいで、ジンのこと苦しめちゃった……う、うぅ、うわぁあああああん……!!!」

「そんなに泣くな、にぃな。軽傷だと言ってるだろ……それに、お前のことを長らく、一人にさせてた俺にも非がある。不安にさせてすまなかったな、にぃな。」

 ジンはニィナの頭を優しく撫でながらそう答えると、その手で涙に濡れたニィナの目元をそっと拭った。怪我人のものとは思えないほど穏やかな手つきを前に、ニィナの心臓がキュッと締め付けられ、余計に涙が止まらなくなってしまう。

 自分が勝手なことをしなければ、ジンはここまで大怪我を負わずに済んだ。自分が油断して泉に近づかなければ、ジンは難なくあの敵を倒すことが出来たはずだ。

 すっかり後の祭りではあるものの、心優しい性格のニィナはジンの傍で延々と悔やみ続けた。やはり自分はジンにとってお荷物なのだと、本人は何も言っていないにもかかわらず、勝手な思い込みを抱いて自身の心を傷つけていく。

 すると、ジンは不意にニィナの頭を軽く押しのけて、涙で汚れた彼女の頬にそっと手を添えた。そして、親指で器用に目元を拭いながら、とても柔らかな表情を浮かべてニィナに言った。

「聞いてくれ、にぃな。最初にお前が来た時は、流石の俺もお前が奴に殺されてしまうんじゃないかとひそかに恐れていた……でも、逆にお前がここに来てくれなかったら、俺はあの瞬間まで奴に致命的な一撃を与えることが出来なかったんだ。怖い思いをさせてしまってすまなかった。でも、お前のお陰で本当に助かったよ……ありがとう、にぃな。」

「……!!ニィ、ナ……恩返し、出来たの?ジンの、役に立てたの……?」

 ジンの口から紡がれたまさかのお礼の言葉を前に、ニィナは思わずハッと目を丸くして彼の顔を見つめた。ジンは迷うことなく「あぁ」と言って頷くと、小刻みに震えていたニィナの頭を猫耳ごとポンポンと優しく撫でた。途端にニィナの心は、とても熱くて暖かい不思議な感情に包み込まれた。色々と悲惨なことにはなりかけたものの、ジンの役に立てたという紛れもない事実がひどく嬉しく思えたのだ。


 やっぱりあったんだ。こんな自分でも、ジンのためにできることが。


 水中に引きずり込まれたことで、彼女の髪に付着した少量の藻を、ジンが手際よく払い除ける。そのタイミングで全身が水に濡れていることを思い出したニィナは、水気を払うために犬のようにブルブルと体を揺らした。それによって水しぶきがパタパタと飛散し、彼女のすぐ近くにいたジンが思わず顔を覆いながら眉をひそめる。ニィナはすぐにジンに謝りながらも、お互い無事に生き残れたことに喜びを覚えてニコッと微笑んだ。緊張から解放されたジンも、彼女に釣られてマスク越しに小さく微笑む。

 ナックラビーの暴走によって、地面と水が一気に汚染されてしまった休戦の泉。

 元は神聖だったその場所における、人間と妖による激しい戦闘は、この時をもってようやく幕を閉じたのであった。




***




 それから数分後―――




 しばらく休んだことで体力を取り戻したジンは、予め身につけていた腰袋を漁って自らの手で応急処置を施した。腰袋の中には包帯などの用具類が入っており、簡単にだがいつでも傷の手当が出来るようになっていたのだ。初対面のニィナに対してジン一人で手当てが出来ていたのも、必要な物品が収納されたこの腰袋があったお陰だった。ニィナはずっと手伝いたそうにジンの横でソワソワとしていたが、両腕が無いと結局何も出来ないので、代わりにジンのことを傍で優しく見守り続けたのだった。

 こうしてようやく心身ともに回復したジンは、傍らに落ちていた例の宝具、叉護杖をゆっくりと手に取った。かなり強い力で握られていたはずだが、どうやら杖自体は折れたりしていないようだった。しかし、ナックラビーの手元にあった際は終始赤黒く光っていたこの杖も、今となってはそもそも全体的に光ってすらいなかった。本来は美しく輝く青い宝石も、天から日が煌々と差しているのにすっかりなりを潜めていた。膝を着いた体勢で叉護杖を眺めていたジンがボソッと呟く。

「叉護杖の宝石が完全に光を失っている……なっくらびーの力は消えたようだが、同時に宝具自身の力もかなり弱まっているようだ。まぁそれでも、ほとんど壊されていないだけましと言ったところか。」

「ジン……その杖があれば、この泉も地面も、本当にみんな元に戻るの?あのお馬さんたちも、みんな優しくなってくれるかな?」

 ジンの傍に近づいて叉護杖を見つめたニィナが、時折自分たちの背後を一瞥しながら不安そうに呟く。ジンも共に後ろを振り返ると、二人の真後ろにある泉の水面では、生き残った水棲馬たちのうち何匹かこちらを睨んでいた。一部のものには口の周りに赤黒い血が付着している。水中に落ちたナックラビーの体を食した跡だろう。それでも飢えは完全に満たされなかったのか、奴らの目は未だにギラギラと鈍く光り続けていた。

 ナックラビーは死んだので奴に操られることはもう無いが、不用意に近づけばまた水中に引きずり込まれてしまうことだろう。そう予想したジンは深いため息を吐くと、意外と長い叉護杖を抱えながらどっこいしょと立ち上がった。そして、自分たちのすぐ近くにある、ボロボロに欠けた石像に向けてスタスタと歩き始めた。水棲馬たちを見ていたがゆえに、少し反応が遅れたニィナが慌ててジンの後を追いかける。

 壊れかけた円形のパーゴラ、そのほぼ中心にあたる位置に例の石像はひっそりと置かれていた。水の精霊(ウンディーネ)を模した石像である。石像自体は大部分が奇跡的に残っているものの、ナックラビーによる毒の息を浴びたのか、一部がひび割れている上にカビのようなものもところどころ生えていた。もともと宝具を構えていたであろう両腕の中はもちろん空っぽだ。

 そんな石像とジンの姿を交互に見つめながら、ニィナがソワソワとした様子で小さく足踏みをする。ジンの推測が正しければ、宝具であるこの叉護杖を石像に戻すだけで、辺り一帯の自然が元通りになるはずなのだ。杖にある宝石の輝きはほとんど失われているものの、今のところ泉の自然を取り戻すためにはこれしか方法がなかった。

「……水の精霊、うんでぃーねよ。かの宝具の奪還が遅くなってしまったこと、深くお詫び申し上げる。」

 ジンは石像に向けて恭しく一礼をすると、石像の腕の中に嵌るように叉護杖をそっと置いた。叉護杖は滑り落ちたりすることなく、しなやかに伸びた石像の腕の中にすっぽりと収まった。石像から少し後ずさりをしたジンが、地面に膝を着いて再び深く一礼をする。彼の隣に立っていたニィナも、少し慌てた様子で石像の前でペコッと頭を下げた。

 すると、二人が(こうべ)を垂れたその瞬間―――突然二人の目の前から、太陽のそれよりも眩い光がパァッと瞬き始めた。思わず顔を上げたニィナが、その眩しさに耐えかねてすかさずギュッと目を閉じる。

 その直後、石像を中心とした休戦の泉全域に向けて、目に見えぬ波動のような衝撃波が一気に広がった。強い風などは起きなかったものの、その衝撃波をめざとく感じ取った小動物たちは一斉にその場から逃げ出した。至近距離から波動を受けたジンとニィナも、目の前の眩しさに耐えながら本能的に身を強ばらせる。

 それからしばらくしたのち、不意に二人の立っていた地面から、青々と茂る草と花の群れがジワジワと生え始めた。草花の群れは石像のある小島に限らず、その対岸における陸地にも波のようにふわっと広がった。同時に、あれほど暗く澱んでいた泉の水は元の透明さを取り戻し、浮かんでいた廃棄物は全て塵となって霧散した。そして、先ほどまで飢えた顔を見せていた水棲馬たちは、全員が穏やかながらもキョトンとした表情でお互いの姿を見比べていた。今まで何をしていたんだっけ、と言わんばかりの反応だ。血走っていた目は普通の馬と同じく柔らかなものに変わっており、心做しか体の肉付きも良くなっている気がした。徐々に周囲からは小鳥たちの綺麗なさえずりが聞こえ始め、例の悪臭の代わりに華やかな自然の香りが周りを優しく包み込むようになる。

 しばらくして眩い光が消え去った頃に、ジンとニィナはそれぞれ顔を上げてすかさず辺りを見渡した。いつの間にか泉周辺だけでなく、壊れかけていたパーゴラと石像もすっかり元の姿を取り戻していた。ヒビやカビはもちろん見当たらないし、当初は枯れていたつる性植物も元気よくパーゴラ全体に絡みついている。泉の水はそこが見えるほど美しく透き通っており、そこを泳ぐ水棲馬たちは楽しそうな鳴き声を上げつつ軽快に水面を跳ねていた。

 途端に感動で目を輝かせたニィナが、ジンを置いてトテトテとパーゴラの外に駆け出す。そんなニィナに対して、あの水棲馬たちが襲いかかってくる気配は全く無い。むしろ奴らは“君たちのお陰か!”と言わんばかりに、ニィナの方に向けて嬉しそうに微笑んでいた。遅れてニィナに追いついたジンが、完全に緑を取り戻した泉全体を改めてゆっくりと見渡す。

 当初ジンは、叉護杖の力が弱っていたがゆえに、石像に戻しただけでは流石に無理だろうと考えていた。しかし、どうやらそれは杞憂だったようだ。ナックラビーが本格的に死んだことで、奴に奪われていた宝具の力が気付かぬうちに全て戻っていたのである。この様子ならば、今後また新たな脅威がやってこない限り、休戦の泉全域が再び汚染されることもないだろう。他の水域に逃げ出した水棲馬たちも、泉が元に戻ったことを本能的に悟って住処であるここに帰ってくるはずだ。

 ようやく全てが終わったと考えたジンは、感極まった様子で周りを見つめていたニィナの体を後ろから抱き上げた。ナックラビーは倒したし、休戦の泉自体も元の美しい自然を取り戻した。ならば、これ以上ここに長居する必要は無い。有害な妖による被害は、今もほかの場所でひそかに起き続けているのだ。妖討伐隊の元隊長として、怪我をしていながらも休んでいる暇はあまり無かった。

 しかし、ジンがニィナを連れてその場を立ち去ろうとした瞬間、二人の背後から美しい女性の声がぐわんぐわんと反響しながら聞こえてきた。

『御仁……そこの、黒き御仁と白き御仁。よければ、ここから立ち去る前に、こちらの方にお越しください。』

「!?ジン!今の声、誰の?」

「……うんでぃーねか?」

 思わずその場でピタッと立ち止まったジンは、驚きで目を丸くするニィナを抱え直しながらクルッと後ろを振り返った。そして、自分たちの後ろにあった石像の変化に気づいてハッと息を飲んだ。

 元通りになった石像に飾られた叉護杖。その杖の先端に取り付けられた青い宝石が、いつの間にかキラキラと眩しく輝いていたのだ。ついさっきまでは、そもそも光ってすらいなかったというのに。

 少し訝しげに眉をひそめながらも、ジンはニィナを抱えたまま恐る恐る石像の方に戻った。すると、叉護杖に飾られた宝石の輝きがさらに増したのちに、あの女性の声がより大きく反響しながら二人の耳に届いた。

『私は水の精霊、ウンディーネ。この世界のあらゆる“水”を司る者……この度は、かの暴君ナックラビーから、ここ休戦の泉を守ってくれたこと感謝致します。』

「……あなたは最初から、分かっていたのですか?あのなっくらびーが、この泉に来ていたことに。」

 精霊本人から話しかけられるとは予想していなかったのか、ジンは少し警戒気味にニィナの体を抱き寄せながらウンディーネにそう問いかけた。彼女の口からナックラビーの名前が、さも当然の如く出てきたのが少し不自然に思えたのだ。本当は最初からナックラビーの暴挙を知っていて、その上で自身に奴の討伐を任せたのではないかと疑ったのである。

 しかし、ウンディーネは石像越しに小さく息を吐くと、ひどく申し訳無さそうな口調でジンに向けて答えた。

『いいえ。同じ海に住まうものとして、奴がかねてより、私に対して強い対抗心を抱いていたことは知っていました。しかし、この叉護杖が奴に奪い取られるまでは、休戦の泉に奴が現れたことに全く気づけませんでした。しまいには宝具の力も奴に奪われてしまい、海の奥深くにいる私は今に至るまで、そちらの詳しい状況を把握することすら出来なかったのです……しかし今では、ナックラビーの気配そのものを一切感じていません。黒き御仁、あなたが奴を倒してくださったのでしょう?本当にありがとうございます。これで休戦の泉だけでなく、海に住まう多くの妖たちにも、穏やかな平和と安寧が訪れることでしょう。』

「……なるほど。そちらの事情は大方分かりました。ですが、私にはまだ成すべきことが山のようにあります。なので申し訳ありませんが、私たちはそろそろお暇させていただきます。」

 嘘偽りが感じられないウンディーネの言葉を前に、ジンは少しげんなりとした様子でため息を吐きながらそう呟いた。怪我のせいで疲れてるのかと勘違いしたニィナが、ひどく心配そうな表情を浮かべてジンの顔を覗き込む。

 海に住んでいるナックラビーが休戦の泉に来たのは、やはりジンの予想通りウンディーネに対抗するためだった。要は、限りなく小さくそして間接的ながらも、今回の事件にはウンディーネも関わっていたという訳である。とはいえ、結局は下位の妖であるナックラビーが勝手に怒りを覚えて勝手に動いただけのことだ。偉大なる四大精霊の一人である彼女だけに、すべての責任を押し付けるわけにはいかなかった。それに、こちらにも仕事が山ほどあるので、これ以上精霊絡みの厄介事に巻き込まれるのも正直ごめんだった。

 しかし、ジンがそそくさとその場を後にしようとした途端、ウンディーネはどこまでも冷静な声音で言葉を返した。

『お待ちなさい、御仁……休戦の泉を守ってくださったお礼として、こちらを受け取ってください。』

「あ!ジン、見て!石像から光が……!」

 終始石像の方に目を向けていたニィナが、ウンディーネに背を向けて歩き出そうとしたジンを慌てて引き止める。それに釣られたジンが大人しく後ろを振り返ると、そこではニィナの言う通り、いつの間にか例の石像から青々とした丸い光が浮かび上がっていた。その光はしばらく石像の前で浮遊したのちに、立ち止まっていたジンの目の前へフワフワと移動した。思わずたじろいだジンだったが、青い光はそのまま彼の胸の前まで接近した、かと思えば彼の体内に潜り込んで消えてしまった。ジンに抱かれていたニィナが、驚きで目をキョロキョロとさせながら、先ほどの青い光を慌てて探し始める。

「わわっ!?光が、ジンの胸の中に消えちゃった!ジン、大丈夫!?」

「お、俺は大丈夫だ。でも、今のは……」

『今あなたに与えたのは“永遠の恵み”という力……黒き御仁の腰にかけているその入れ物に、際限なく満たされた聖なる水を授けました。あなた方が旅をする上で、きっと役に立つことでしょう。』

 オロオロと戸惑うニィナ、そして動揺して固まるジンに対して、ウンディーネが微かに優しく笑いながら言葉を続ける。その声でハッと我に返ったジンは、慌てて自身の腰に手を添えて、そこにあった瓢箪型の水筒を掴んだ。片手で器用に蓋を開けてから、恐る恐る水筒を傾けて水を出してみる。

 元よりその水筒の中には、ジンが予め集めていた綺麗な水がたっぷりと注がれていた。当然だが、本来ならば量に制限があるし、流し続けていればいつかは無くなって空っぽになるはずだった。

 しかし、ジンがどれだけ水筒を傾け続けても、その中から水が途切れることは決してなかった。まさに際限なく流れる滝のように、延々と水が湧き出ているのだ。しかも、その水が落ちた地面の上では、小さくて美しい花が勝手にちらほらと咲き始めていた。永遠の恵みという特殊な力の影響で、青々とした緑に新たな自然が宿ったのである。

 思わず呆気に取られて目を見開くジンに対して、ニィナは目をキラキラと輝かせながらとても興奮した様子でキャッキャとはしゃいだ。

「す、すごい……!水筒から全然水が無くならないし、水が落ちたところにお花もいっぱい生えてる!うわぁぁあ、精霊さんすごーい!!」

『うふふ……黒き御仁と白き御仁、あなた方に精霊の加護があらんことを。いつか直接お会い出来る日が来たら、私は喜んであなた方を歓迎致しましょう。』

「……かたじけない。」

 ウンディーネの穏やかな声が二人の耳に届き、水筒の蓋をはめ直したジンが石像に向けて小さく頭を下げる。ニィナも遅れてペコッと頭を下げると、それまで青く輝いていた叉護杖の宝石は徐々に元の光を失い始めた。そして数分も経たないうちに、石像自体も光を失ってしまい、ウンディーネの声も完全に聞こえなくなった。ニィナが少し寂しそうに猫耳を垂らしながら首を傾げつつ呟く。

「あ……石像の光、消えちゃった。精霊さん、もう居なくなっちゃったのかな?」

「……そのようだな。俺たちもそろそろ行こう。また新たな、成すべきことを成すために。」

 ジンが淡々とそう答えると、ニィナは元気よくコクリと頷いてジンの顔に自身のそれを擦り寄せた。ジンはマスクの下で小さく微笑むと、愛らしい少女の体を大事そうに抱えながらパーゴラの外に出た。

 すると、不意に二人の目の前の水面からブクブクと大粒の泡が立ち始めた。そして次の瞬間には、均等に間隔が開けられた真っ白な飛び石が、対岸に向けて真っ直ぐ浮かび上がった。これがあれば、ジンが水面を走らずとも安全に対岸に渡れそうだ。どうやら泉の水質が戻ったことで、もともとあった飛び石も見事に復活したらしい。相変わらず楽しそうにはしゃぐニィナを宥めつつ、ジンは目の前にある四角い飛び石の上に足を一歩踏み出した。

 すると、スタスタと歩くジンたちの左右で、見た目がすっかり穏やかになった水棲馬たちが、何やら嬉しそうに各々鳴き声をあげた。休戦の泉を守ってくれたジンたちに対して、ウンディーネと同じくお礼か何かを言っているようだ。咄嗟にニィナは奴らに手を振り返そうと身を乗り出したが、今の自身に両腕が無いことを思い出してすぐに落胆した。そんなニィナの代わりに、小さく息を吐いたジンが水棲馬たちに向けてそっと手を振り返す。

 その結果、水棲馬たちは一斉に喜びの声を上げて、そのうち数匹がまるでイルカのように飛び石の間を高くジャンプした。水飛沫と共に綺麗な虹も浮かび上がり、頬を紅潮させたニィナが、ひどく嬉しそうにジンの顔に自分の頭をぐりぐりと押し付ける。



 ―――こうして、休戦の泉での戦闘を終えたジンたちは、優しい水棲馬たちに見送られながらその場を後にした。予め決めた次の目的地に向けて、一人の人間と一人の猫妖精が、ほとんど休む間もなく進み続ける。

 二人が歩く森の中では、最初から何事も無かったかのように、いつも通り平和な時間が静かに流れていたのだった。




***




 ……あぁ……今夜も冷たい雨が降りそうね。


 あなたが居なくなってしまった、あの日と同じように。


 でも、大丈夫……あなたの無念は、この私がいつか必ず晴らしてあげるわ。


 だからその時までおやすみなさい……愛おしいあなた。




―――弐之章 終幕―――

~妖紹介~


※実在する(?)元の妖怪と内容が一部異なっている箇所がございます。予めご了承ください。



♂水棲馬男-ナックラビー-


馬のような四肢と巨大な人型の上半身を持つ、非常に凶暴な妖。その名の通り水棲馬の一種だが、元と見た目が大きく異なる上に陸地でも自由に活動することができる。普段は海の方に住んでおり、淡水が非常に苦手。常に大音量で語尾を伸ばしながらしゃべるくせがある。どうやら同じ海に住んでいるウンディーネのことを勝手に目の敵にしていたらしい。



♀水の精霊-ウンディーネ-


この世界における四大精霊のうちの一人で『水』をつかさどっている。非常に温厚で心優しい性格。

普段は人間が気軽に行くことができないほど海の奥深くで暮らしており、特定の場所に置かれた宝具を通じて世界の情勢を観察している。絶えることの無い聖なる水を生み出す『永遠の恵み』という力を他者に与えることができる。

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