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忍~the Blade With the Heart~  作者: 独斗咲夜
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壱之章【猫と馬】

※本作品は一応『連載作品』と設定していますが、今後の更新については今のところ未定です。

とりあえずお試しで書いてみたような作品なので、軽い気持ちで読んでくださるとありがたいです。


※本作品には実在すると言われる西洋の妖怪たちが多数登場しますが、史実(?)のそれとは若干異なる表現や、本作の世界観に合わせた改変などを一部含んでおります。いわゆる解釈違い等が起きるかもしれませんが予めご了承ください。



 今から数万年も大昔のこと―――ある時、空から突然黄金の傘(ゴールデンアンブレラ)が降ってきた。

 世界中の空を覆うほどの大きさを持つその傘は、次第に本物の太陽の光を覆い隠し、逆に偽物の光を下界に与えるようになった。同時に傘の裏側からは金色の雨がとめどなく降り注ぎ、大地に降り立ったそれはのちに人ならざるもの、あらため(アヤカシ)へと変化した。

 黄金の傘によって生まれた妖たちは、人類と同じく長い年月をかけて変化し続けた。気づけば世界には数多くの種類の妖が生息するようになり、時には人類と共存したり、またある時には無差別に人を襲ったりしていた。

 しかし実のところ、人間の中でも妖の中でも、お互いに対して非友好的な立場をとるものがきわめて多かった。それゆえに両者間の対立関係は改善することなく、むしろ日に日に悪化していった。時には百妖夜行(ザ・パレード)という形で、多くの妖たちが人間の暮らす領域内に侵入し暴走することもあった。こういった有害な妖を討伐するための部隊も世界各国に作られたが、大抵は妖の持つ強大な力に打ち負けて返り討ちに遭っていた。

 こうして、妖と人類のあいだで数え切れないほどの戦争を繰り返した結果、妖の数がある時を境に過半数を超えた。元居た人類の人口をついに上回ったのだ。これにより人類の居場所は少しずつ減っていき、妖たちが食物連鎖の頂点に立つのも時間の問題だった。



 これは、黄金色に光る傘の下で紡がれる、残された数少ない人類と、人ならざる妖たちのお話。

 小さな奇跡の出会いから始まる、不思議な絆の物語―――



***




 ケット・シーの国 スフィンクス王国―――




「スフィンクス王!我らがスフィンクス王!」

「建国百周年と、次期后妃のお誕生日おめでとうございます!」



 音楽隊による豪華な音楽をBGMに、巨大な城の前に集まった大勢の国民たちが、感極まった様子で各々歓声をあげる。頭には猫耳、そして臀部から猫の尻尾を生やした彼らの視線は、城のど真ん中にある大きなエントランス一点に集中していた。そこでは真っ白なフェンスに手を置いて、とても穏やかな表情で城前を見下ろす大柄な男が立っていた。男の頭にも猫のそれと酷似した耳が生えており、豪華な赤いケープの隙間からもふさふさとした尻尾が少しだけはみ出ていた。そんな男はカラフルな紙吹雪の舞い踊る晴れた空の下で、城前の人々に向けて静かに手を振り続けていた。さらに、彼の周りには複数の警備兵が各々武器を構えた状態で待機していた。どの警備兵も厳かな表情を浮かべており、城内への侵入者などが居ないか常に目を光らせていた。

 彼の名はリオン・スフィンクス。ここスフィンクス王国を現在統治している王様だ。年齢は三十代後半と少し若いが、元来から慈悲深く寛大な性格ゆえに国民たちの多くから今もなお愛されている男だ。そんな彼が治めているスフィンクス王国には、ケット・シーと呼ばれる“妖”たちが暮らしていた。『猫妖精』という別名でも知られており、人類に対してはとても友好的という、妖たちの中では数少ない部類に属する妖だった。

 ケット・シーは二本足で歩く猫そのものな種族と、人間の要素を多く残した種族とが入り混じって生活している。どちらも性格はみな穏やかかつ温厚でいわゆる平和主義を掲げる者が数多く集まっていた。もちろん人類に対して非友好的なものも居なくはないが、それでもスフィンクス王国の中で言えばきわめて少数だった。そもそもスフィンクス王国では、いわゆる戦争行為が法律で全面的に禁止されている。そのため、王家直属の警備兵と憲兵以外の者が武器を持つことは固く禁じられているのだ。仮に法律を破って反逆者となってしまえば、王国に住む全ての国民から一斉に批判されることだろう。

 さて、そんなスフィンクス王国では今、建国から百周年を祝う祭典が盛大に行われていた。リオンは先代から数えてちょうど十代目にあたる王様であり、今日にいたるまで二人の娘を授かっていた。残念ながら彼の妻は数年前に病死しており、それでいて後妻にあたる存在は現時点で一人もいない。リオンは亡くなった妻を深く深く愛していたので、どうしても新しい妃を受け入れることができなかったのだ。

 そんなリオンの血を引く二人の娘のうち、姉にあたる女性―――ジィナ・スフィンクスも彼の隣に立って国民に対し手を振っていた。彼女は父親よりも猫の要素が強い顔と体をしており、中身の無い上辺だけの笑みを張り付けながら城の前を見渡していた。

 すると、そんなジィナの傍らに隠れていた、見るからに年齢が二桁も無い幼い少女が彼女のドレスの裾をクイッと引っ張った。もう一人のリオンの娘、ニィナ・スフィンクスだ。真っ白でふわふわな髪と、赤くて丸い目が特徴的な子だった。ジィナと違って、こちらの見た目は人間の要素が色濃く残っていた。今日も今日とて、暖かい日和ながらもお気に入りの赤いポンチョを全身に羽織っている。

 彼女はその愛くるしい見た目と王様譲りの慈悲深く優しい性格によって、リオンだけでなく国民の多くからも愛されていた。しかも彼女の誕生日は建国記念日にあたる今日であり、齢はこの日でちょうど六歳だった。そんな小さな奇跡と若いながらも美しい容姿から、リオンは早くも彼女のことを次期后妃として育てることを決定していた。流石にまだ若すぎるという理由で側近などからは反対されたが、リオンは珍しくなかなか聞く耳を持たなかった。というのも、ニィナの容姿や性格が、今は亡きリオンの前妻にそっくりだったからだ。六歳にしてこのような祭典の場に来ることができたのも、王様であるリオンの厚い推薦があったゆえだった。

 そんなこんなで何かと優遇を受けていたニィナだったが、彼女は幼いゆえに背が非常に低いので、姉や王様のようにフェンス越しに城前を見下ろすことができずにいた。祭典の途中で姉のドレスを引っ張ったのも、一緒に国民に向けて手を振りたいから抱っこしてほしい、という純粋な願いを叶えたかったからだった。

 しかし、ジィナはニィナの物欲しげな視線を一瞥しただけで特に何もしなかった。代わりにフンと鼻を鳴らしつつ、ジィナはニィナからそそくさと目をそらした。ニィナによる無言の要求を無視したのだ。音楽隊の演奏が大音量ゆえに仕草だけで意思表示をしたニィナが、わざと無視されたことに気づかないまま再びジィナのドレスの裾をグイグイと引っ張る。

 単刀直入に言えば、ジィナは実の妹であるニィナのことを心底恨んでいた。というのも、本来ならば自分に与えられるべき次期后妃の座を、十個以上も歳の離れた妹に呆気なく奪われてしまったからだ。

 ジィナは幼い頃から、立派な后妃になるために毎日絶え間なく勉学に励んでいた。そのおかげで、后妃として持っておくべき知識などは、ニィナよりもずっと多く学習して自分のものにしていた。しかし、その一方で彼女は非常に自己中心的かつ我儘な性格で、一部の使用人や国民からもひそかに嫌われていた。おまけに容姿は人よりも猫寄りの、お世辞にも美しいとは言い難いものだった。要は見た目と性格、その両方が幼きニィナよりもずっと劣っていたのである。それらの要因が絡み合った結果、いつからか実の父親であるリオンからも距離を置かれるようになり、彼女一人だけが何かと肩身の狭い日々を強いられていたのだ。

 ゆえにジィナはニィナのことを他の誰よりも一際嫌っていた。ニィナの抱っこしてほしいという願いをわざと無視したのも、祭典の最中ながらも大嫌いなニィナを虐めるためだった。しかし、純粋無垢なニィナはそのことになかなか気づかず、しまいには“気づいて!”と言わんばかりにジィナの腰にギュッと抱き着いた。次第にジィナの心の中に苛立ちが募り始め、無理やり貼り付けていた笑顔が危うく壊れてしまいそうになる。

 すると、そんな彼女たちの動きをこっそり観察していた警備兵の一人が、おもむろにリオンの元に近づいてひそひそと耳打ちをした。しきりに抱っこをせがむニィナと、それを無視し続けるジィナとを見かねて、勝手に王様に告げ口をしたのだ。そんな彼のお陰でようやくニィナの方に目を向けたリオンは、ひどく愛おしそうにニコニコと笑いながらその場で軽く身を屈めた。そして、ジィナが止める暇もなく、ニィナの体を抱きかかえてフェンスの前に戻った。リオンはとても背が高いので、ニィナは彼の大きな手に支えられるだけでも城の前を遠くまで見渡すことができた。途端にニィナは嬉しそうにキラキラと目を輝かせ始め、彼女の登場に気づいた国民たちも心底嬉しそうに歓声を上げた。

「おい、見ろ!次期后妃のニィナ様だ!」

「本当だ、いらしてたんだね!今日も変わらず、聖母マリアのように美しいお姿で……!」

「きゃあ~ニィナ様ぁ~!!可愛い~!こっち向いてぇ~!!」

国民たちの声に応えるように、音楽隊の演奏は最高潮に達し、上空を舞い上がる紙吹雪の数も一気に増加した。建国記念の日に産まれたニィナが顔を出したことで、ただでさえ熱気の高まっていた祭典がさらに盛り上がったのだ。幼いニィナはその歓声と大音量の音楽に驚きつつも、祭典の雰囲気に釣られて興奮したのか、満面の笑顔を浮かべながら必死に手を振った。リオンも溺愛してやまない娘が注目されて鼻が高いのか、とても満足気に笑いながらニィナの頭を優しく撫でた。それを喜んだニィナが王様の首周りにギュッと抱き着き、その可愛らしい仕草を見た国民たちがまた更に黄色い声を上げる。

 ニィナが顔を見せたことで、城どころか国全体のボルテージが高まりに高まった建国記念日。

 だが、その一方で完全に笑顔を失った猫顔の女は、怒りで頬を引くつかせながらひそかに後退した。そして、心底恨めしそうにリオンとニィナそれぞれの背中をギロッと睨みつけた。残念なことに、どちらも国民たちの方に意識を向けており、背後に移動したジィナの視線には全く気づいていないようだった。


 また、溝が深くなる。実の父との距離が、長年求めていた次期后妃の椅子が、さらに遠くへ離れてしまう。

 どうして、未熟なあの子ばかり。自分よりもずっと年下で、世界の厳しさや恐ろしさを知らない彼女ばかりが、美味しい思いをしているのか。

 許さない、許さない。やはり予定通り(・・・・)、この手で彼女を―――


 ここに来て恨みと怒りが頂点に達したジィナが、何故か一転してひそかにニヤリと怪しげに微笑む。しかし、リオンもニィナも微笑ましそうに二人を見つめる警備兵たちや国民たちですらも、ジィナが練り上げた計画や彼女の浮かべた不気味な笑顔には全く気づいていない。それを陰ながらに見つめていたのは、本物の太陽を奪い取り空を覆い隠した、黄金色に輝く巨大な傘だけなのであった。




***




「ニィナ、ちょっとそこで止まりなさい。話したいことがあるわ。」




 時は巡って、夜も少しばかり遅い頃のこと。祭典に応じた豪華な夕食を終えたニィナが、使用人たちと共に自室に向かうため廊下を歩いていた時のことだった。

 ジィナに呼び止められたニィナは、すかさずパァッと顔を綻ばせながら彼女の方に顔を向けた。どれだけ陰湿な虐めを受けていながらも、ニィナは姉のジィナのことが大好きで愛していたのだ。その一方でニィナの傍にいた使用人たちは、途端に表情を強張らせて彼女を守るようにジィナの前に立ち塞がった。彼女たちはみなニィナの味方であり、ジィナがまたニィナにいじめか何かをするのではないかと警戒したのだ。

 しかし、ジィナは疎まし気に使用人たちを睨みつけると、二人きりで話がしたいからと言って、使用人たちに“今すぐこの場から離れなさい”と命令を出した。当然嫌な予感を覚えた使用人たちだったが、流石に位の高いジィナに対して堂々と歯向かうことはできなかった。ジィナは次期后妃ではないものの、王様の血を引く娘であることに変わりはなかった。そのため、ジィナの機嫌を損ねてクビになることを恐れた使用人たちは、渋々ながらもその場から速やかに退散したのだった。

 あっという間に一人残されたニィナは、どこまでも純粋無垢な表情でジィナの顔を見上げながらキラキラと目を輝かせた。この国と自分にとってのお祝いの日ということで、いつもよりも気分が高ぶっているのだろうか。それとも、珍しく姉から直接声をかけられたことが単に嬉しいからだろうか。どちらにせよ、小さく息を吐いたジィナはフンと鼻を鳴らしてからニィナに向けて言葉を続けた。

「ねぇ、ニィナ……あんた、水棲馬(ウォーターホース)の噂って知ってるかしら?」

「うぉーたーほーす?」

 ジィナの口から零れた聞き慣れない単語を前に、ニィナがすかさずキョトンと目を丸くしながらたどたどしく復唱する。名前を聞いてもあまり動じていないあたり本当に知らないようだ。そう考えたジィナは一転してニヤリと怪しい笑みを浮かべながら、先ほど述べた水棲馬のことについて簡単にだがニィナに話した。

 彼女曰く―――水棲馬は、全体的には大魚(たいぎょ)の姿だが、頭は馬のそれという不気味な見た目をした“妖”の一種である。温和な性格のケット・シーと違って非常に凶暴で、住処に迷い込んだ人類や妖を無差別に食い殺すらしい。そんな水棲馬が、ここスフィンクス王国の近くにある大きな湖の中に潜んでいると、最近国民たちの間で密かに噂されているのだ。この話はジィナが少し前にお忍びで街に出かけた際、彼女の近くにいた若い住民たちが話していたものだった。のちにジィナが独自に調べてみたところ、どうやら例の噂のことを知っているのは、国民たちの中でもほんの一部だけのようだった。国の外にあまり出かけない使用人たちに聞いても、みな知らないの一点張りだったからだ。

 それゆえに、水棲馬の話はニィナにとっても初耳だった。とはいえ妖の話自体は父親などから度々聞かされていたので、幼いニィナは特に怯えたりすることなく、むしろ興味深そうに頷きながらジィナの話を最後まで聞いていた。性格は凶暴だとか人や妖を食い殺すだとか、そういった残酷な言葉も余すことなく伝えたというのに。

 若干拍子抜けしたジィナは微かに舌打ちをしたが、すぐに平然を装ってスラスラと話を続けた。

「まぁとりあえず、水棲馬について私が知ってるのはこれぐらいだわ。そのうえであんたにちょっとした提案をしたいんだけど……今からお城を抜け出して、私と一緒に例の湖に行ってみない?私と二人きりでね。」

「!ほ、ほんと?ニィナ、夜にお出かけして、いいの?」

 お城を抜け出して、水棲馬がいると思われる湖に向かう。

 二人の父である王様が聞いたら、確実に怒って拒むであろう提案を聞いたニィナの猫耳と尻尾が、途端に何かに期待するようにピクピクッと動く。幼いがゆえの好奇心が瞬時に刺激されようだ。夜の街に出かけたことが一度も無いという点も、父に内緒で外出するという禁忌を犯すうえでニィナの背中を押したらしい。これは都合がいいと言わんばかりにニヤリと微笑んだジィナは、背の低いニィナの目線に合わせてしゃがみながら、彼女にしか聞こえない声でひそひそと囁いた。

「大丈夫よ、安心してちょうだい。私が一緒についていってあげるんだから問題ないわ。でも、流石にお父様たちに怒られちゃうから、これは私とあんただけの秘密よ。絶対に他の誰にも話しちゃダメだからね……分かったかしら?」

「うん、わかった!ニィナ、約束する!」

 ニィナはすかさずそう答えてパァッと明るい笑顔を浮かべると、ジィナの目の前でズイッと小指を差し出した。父親などに言わないという約束を破らないために、ジィナと指切りげんまんをしたいようだ。しかし、ニィナがあまりにも無邪気に振舞うため、ジィナは一瞬不快そうに眉をひそめた。こちらとしては半分怖がらせるつもりで話を持ち掛けたというのに、これでは調子が少し狂ってしまう。

 それでも言い出しっぺは自分の方なので、ジィナはコホンと咳ばらいをしてからニィナとの指切りげんまんに応えた。六歳の少女特有の柔らかな小指が、もはや猫の手でしかないジィナの指と肉球に優しく触れる。普通の人間のようにはなかなかできないので、ニィナは口だけで元気よく指切りげんまんの歌を歌ってからパッと手を離した。そして、よほど姉との外出が嬉しいのか、陽気にスキップをしながらジィナの周囲をクルクルと回り始めた。その動きはまさに子猫のようで、ジィナ以外の者が見たら微笑ましさで頬を緩ませていたことだろう。しかし、残念なことに、今ここにいるのはニィナのことをひどく恨んでいるジィナだけだった。ゆえにジィナは苛立たしげにギリッと歯を食いしばると、走り回るニィナを窘めるように猫のそれと同じ威嚇の声を上げた。その声で流石に罪悪感を覚えたのか、ニィナはすかさず足を止めるとジィナに向けてペコッと頭を下げた。彼女が怒っていると瞬時に悟って謝ったのだ。プライドの高いジィナにはなかなかできない芸当でもある。

 あぁ、また差が生まれてしまう。妹よりも劣っている点が、姉である自分の前で明るみになっていく。今日にいたっては、そのことが異様に腹立たしくてたまらない。

 昼の時と同じようにじわじわと苛立ちを募らせたジィナは、いい加減さっさと準備をしようと考えて、素早くニィナを抱えてからスタスタと歩き出した。ジィナのふわふわな両手に抱きかかえられたゆえか、ニィナは嬉しそうにキャッキャッと笑いながらジィナの胸元に顔をうずめた。ドレスの隙間から飛び出た猫らしい柔らかな毛が、同じく柔らかいニィナの頬や髪の毛を優しくくすぐる。

 だが、ジィナは特に反応することなく、己の自室に向けてひたすら歩みを進めた。祭典の片付けなどに追われているゆえか、無断外出を企てる二人の姉妹を止める者は一人も、そしてどこにもいないのだった。




***




 それから数時間後―――




 手早く身支度を整えたジィナとニィナは、父親のリオンや警備兵などの目をかいくぐって城の外に出た。当然服装はいつものドレスではなく、シンプルで動きやすい服と薄汚れた目立ちにくい外套という出で立ちだった。ニィナに関しては、お気に入りの赤いポンチョの上に外套を着ている状態だ。厚着になってしまうものの、やはりお気に入りなので結局手放せなかったようである。走っている最中に外套が外れたりする可能性はあったものの、そうなったら私だけでも隠れてやり過ごそうと考えたジィナはあえてそれを黙認したのだった。

 いつもならば所構わず大声をあげがちなニィナも、事前にジィナから強く言われていたのもあって、珍しく懸命に息を殺していた。おまけに、ジィナがあらかじめ手を回していたのか、城から外に出るまでの道のりだけやけに警備が薄かった。そのおかげで二人は特に周りから何か言われたりしないまま、無事に街の方にまで向かうことができた。未だに祭典の興奮冷めやらぬ住民たちの群れを利用して、人ごみに紛れつつ出入口にあたる場所へと向かう。

 こうしてようやく国の外と中の境界線にやってきたジィナたちは、見るからに忙しそうな警備兵の隙をついて人気のない道の方に回り込んだ。実を言うと幼い頃のジィナは、今回のように秘密裏に城を抜け出す癖があった。今でこそ頻度や行動範囲は減少しているものの、当時利用していた裏道などのルートはしっかりと覚えていたのだ。そのため、ニィナが予想していたよりもずっと短い時間で、ジィナは彼女を連れながらついに国の外へと出たのだった。

「わぁ……!すごいね、お姉ちゃん!今の歩き方、ニンジャみたいな動きでかっこよかったよ!」

「ニンジャ?あぁ、東の方の……まぁそれは別にどうでもいいわ。あとはこの先の道を進むだけよ、行きましょう。」

 よほど集中して移動していたのか、ジィナはニィナの言葉を雑にあしらいながら舗装されていない土の道をスタスタと歩いた。それまでジィナによって抱えられていたニィナはそこで降ろされたが、興味深そうに周りを見渡しつつ姉の跡を必死に追いかけた。部屋から持ってこれた明かりが小さなランプ一つしか無く、少しでも距離が離れると途端に姉の行方を見失ってしまいかねなかったのだ。一応猫妖精(ケット・シー)なので夜目は効く方なのだが、夜の外そのものが初めてなニィナにとっては、姉の持つランプの明かりの方が圧倒的に信頼感があった。

 そうしてさらに道を進むこと数分―――二人の姉妹は、ついに例の大きな湖の傍にまでたどり着いた。周りに街灯などがほとんど無いせいで、全体的にどれぐらい広いのかを目視で確認するのは難しかった。しかし、ぱっと見ただけでもそこそこ大きい湖であることは容易に窺えた。これほどの広さならば深さもそこそこあるに違いない。人が近くにいたり、魚が泳いでいる気配もあまり無いので、湖の周りはもはや恐ろしいほどシン…と静まり返っていた。

 人によっては周りが暗いのもあって不気味さなどを覚えるところだろうが、生まれて初めて湖を見たニィナは、むしろ目を輝かせてひどく感動したように口を開けていた。ここまでたっぷりの水が溜まっている場所なんて、城の庭先にある鯉の泳ぐ池以外に見たことが無かったのだ。それゆえにニィナは迷いなく湖に向けて走り出そうとしたが、ジィナはすかさず彼女のポンチョを引っ張ることでそれを止めた。そのうえでニィナの体を半ば引きずりながらとある場所へと向かった。

 そこはいわゆる桟橋にあたる場所で、近くには一台の小さな船が停まっていた。船の上には一人分の(かい)が置かれており、いつでも湖の真ん中などに向けて漕ぐことができるようになっていた。それをランプの明かりで確認したジィナは、ニィナを再び抱きかかえて船の上にどっこいしょと乗り込んだ。人力で動かすタイプとはいえ、ニィナにとっては船に乗ることも初めてだ。そのためニィナは相変わらずわくわくとした表情で周りを見渡しつつ、船から身を軽く乗り出して冷たい湖の水にそっと触れた。お風呂のそれとはまた異なるちゃぷちゃぷという音が、うすら寒い風の音に混ざって静かに鳴り響く。

 そのあいだに船に設置されていたロープをほどいたジィナは、大きな猫の手で櫂を握ってついに船を動かし始めた。枷代わりだったロープを外されたがゆえに、木製の船はジィナの操作によってゆっくりと桟橋を離れ始めた。明かりは相変わらず甲板に置かれたランプぐらいしかない。元が小さいので照らされている範囲も極めて狭かったのだが、夜の暗闇にも慣れたニィナは特に怖がる様子もなく、まさに興味津々といった様子で湖の水面をジッと見つめていた。この湖にいると言われる水棲馬でも探しているのだろうか。あまり身を乗り出し過ぎると、こちらが手を出す前に(・・・・・・・・・・)船から落ちたりするかもしれない。ひそかにそう危惧したジィナは、あらかじめ立てていた計画をニィナに壊されたくない一心で、少し急ぎ気味に櫂を動かした。

 結局ジィナの動かした船は、およそ十分ほどかけて湖の真ん中付近に到着した。正確な距離などは測れないものの、元居た桟橋がはるか遠くに見えるのでそこそこ遠くまで漕いできたようだ。どうあがいても泳いで帰れるような距離ではないし、そもそもケット・シーは猫なので泳ぎはかなり苦手な方だ。

 ―――そろそろ潮時か―――

 そう考えたジィナはおもむろに櫂を甲板に置くと、それまで湖の水面ばかり見つめていたニィナに声をかけた。

「ニィナ、ニィナ!湖ばかり見てないで、ちょっとこっち向きなさい!」

「あ!ごめんなさい、お姉ちゃん。お魚さんとかいるかなぁって思って―――え?」

 我に返った様子でハッと目を見開いたニィナが、子供らしくえへへと笑いながらようやく顔を上げる。だが、彼女の笑顔はその足元からガチャンと鈍い音が鳴った瞬間にピシッと強張った。同時に自身の両足が異様に重たいことに気づいたニィナが、ランプの明かりと自身の目を頼りに己の足元を確認する。

 ニィナの細い両足には、いつの間にか短い鎖で繋がれたシンプルな足枷が装着されていた。よくみると、鎖の中間からさらに別の鎖が伸びており、その先端には見るからに重たそうな鉄球が吊り下げられていた。これでは満足に歩くどころか、普通に立ち上がることすら難しい。流石に驚きを隠せなかったニィナは、慌てて両手を伸ばして足枷に触りながらジィナに尋ねた。

「お、お姉ちゃん、これ……これ、一体何なの!?ものすごく重たいよ、足が全然動かせないよ!」

「見て分からないの?それは囚人用の足枷よ。警備兵に頼んで持ってきてもらったの……あんたのためだけにね。」

 ジィナはやけに冷静な口調でそう答えると、動揺してジタバタと暴れるニィナの体をおもむろによいしょと持ち上げた。足枷と鉄球のせいで重量は増していたものの、どうにかニィナの小さい体を水面に移動させたジィナは、そのまま彼女の両足を湖の中にちゃぷんと沈めた。ここでようやくジィナのせんとすることに気づいたニィナは、途端にヒュッと息を飲みながら必死にイヤイヤと被りを振った。落ちたくない一心でジィナの両腕を掴みつつ、目に大粒の涙を浮かべながら大声で懸命に懇願する。

「お姉ちゃん、待って、やめて!!ニィナ、泳ぎ方分からないの!!足も動かせないから、このままじゃ溺れちゃうよぉ……!!」

「はぁ?やめて、ですって?やめるわけないでしょ?今日という日のために、少し前からこっそり準備してたんだもの……目障りなあんたを、誰にも気づかれずに殺すために、ね。」

 ジィナは最後にニィナの目をジッと睨みながらそう言うと、ついに彼女の両脇からスッと手を離した。ニィナの握力に限界が来て、こちらの腕を掴む力が弱まった瞬間を狙ったのだ。驚きと恐怖で咄嗟に目を大きく見開いたニィナだったが、もうすでに後の祭りだった。

 足枷と鉄球で重さが増したニィナの体は、悲鳴をあげる暇もなく重力に従う形で、そのまま湖の中へぼちゃんと落下した。見た目以上に重さのある鉄球だったのか、水の飛び跳ねる音が予想以上に大きく鳴り響き、同時にジィナの乗っていた船もグラグラと揺れ動いた。しかし、湖の中に落とされたニィナが戻ってくる気配は全くない。足枷と鉄球、さらには服の重さや泳げないなどといった様々な不運が、今この場で静かに重なり合っているからだ。多少のあぶくが浮かぶ薄暗い水面を見つめながら、ついにニィナを始末できたと確信したジィナが、周りのことを全く気にせずに高らかに笑う。

「あっはははははは!!!やっと、やっと憎たらしいあいつを殺せた……!!水棲馬がいれば勝手に食い殺されるし、仮にいなくても足枷で浮かび上がれないから、いつか必ず溺れ死ぬわ!!あぁ、これで次期后妃の座は、必然的に私のものになる……!!!私、私が次期后妃に……うふ、うふふふふ、ふふふはははははっ!!!」

 もはや狂気じみた笑い声と笑顔を浮かべながらも、再び櫂を手にしたジィナは急いで船を漕いで桟橋へと戻り始めた。ニィナを殺したからと言って、まだ計画自体は完遂したわけではない。今は予め賄賂を通じて協力関係を築いた警備兵たちが、父親や使用人たちが部屋に来ないように時間稼ぎをしている真っ最中なのだ。そのため、とりあえず今はアリバイ作りのために急いで城に戻って、今までずっと部屋で休んでいた体を振舞わなければならなかった。

 そんな焦燥感に駆られて少し冷静さを失っていたジィナは、人の気配がないのをいいことにそれまで高めていた警戒心をすっかり緩めていた。それゆえに、彼女は最後まで気が付かなかったのだ。

 自身が桟橋に向けて戻っている最中に、遠く離れた浅瀬から何かが湖の中へ素早く飛び込んだことに―――







 ところ変わって、ここはどこまでも冷たい湖の中。

 姉に騙されてまんまと水中に落とされたニィナは、それでも溺れたくない一心で必死にもがいていた。枷などのせいで足はほとんど動かせないので、代わりに両手を執拗にばたつかせて浮上を試みた。それによって上に着ていた古い外套が外れてしまったが、今のニィナにそれを気に留める余裕は全く無かった。とにかく水面に浮かび上がるために、ニィナは鳥のように両手で大きく何度も水をかいた。

 しかし、幼くて非力なニィナだけの力では当然浮かび上がることができなかった。むしろ足枷による重量がニィナの力を余裕で上回っており、動けば動くほど逆に奥に向けてどんどん沈んでしまった。水中ゆえに次第に十分な酸素も得られなくなり、ニィナの小さな口からごぽごぽと大量の気泡が吐き出されて消えていく。

 するとその時、呼吸困難で意識が霞みかけたニィナの耳に、馬のいななき(・・・・・・)のような大きな騒音が少し離れた場所から届いた。いや、ここは紛うことなき水中の奥深くだ。地上にいるはずの馬の鳴き声が、こんな場所でこんなはっきりと聞こえるはずがない。

 ならば、この声は、まさか。



 薄れかけた意識の中で、ニィナが何かを思い出そうと必死に思考回路を巡らせる。

 だが、そんな彼女の未熟な脳内は、右腕全体から突然伝わった激痛(・・)によって一気に真っ白に染まった。



「―――――っ―――――!!!!」

 ニィナの口から、もはや声にすらならない悲鳴が気泡と共に吐き出される。同時に彼女の視界はほとんどが赤黒く染まり、何かを引きちぎるようなぐちゅりという嫌な音も聞こえてきた。閉じることのできない口の中に、湖の水と混ざって鉄臭い何かが滑り込んでくる。

 これは、なに。痛い、苦しい、気持ち悪い。助けて、誰か。

 今まで感じたことの無い痛みが原因で、逆に意識が覚醒していまったニィナが途端にパニック状態に陥る。もがいて浮かぶ上がる余裕なんてもう無い。強いて言えば、何やら異様に大きな物体が、自分の周りを旋回して泳ぎ回っていることしか分からない。

 これが、そうか、あれか。姉が話していた“水棲馬”というものか。

 ニィナの頭がようやくそのことを理解した瞬間、今度は彼女の左腕全体から同じような激痛が全身に走り抜けた。目にも止まらぬ速さで、また奴に噛み千切られたのだ。水面へ浮かぶために必要だった、唯一自由に動かすことのできた細い腕を。

 ニィナの口の奥から、気泡と共に赤黒い血がごぽっと噴出する。湖の水と血液とが乱雑に混ざって、嗅覚においても視覚においても、もう訳が分からなくなっていた。かろうじて機能していたのはもはや聴覚だけであり、ニィナの両腕を噛み千切った水棲馬の泳ぐ音ばかりが四方八方から聞こえていた。それと同時に何かをバキボキと噛む砕くような音も聞こえていた。どうやら水棲馬が、ちぎったニィナの両腕を捕食しつつ器用に泳いでいるらしい。つまり、それを食い終えたら、次に奴が狙うのは。

(い、やだ……しにたく、ない……たすけ、て、だれか……)

 もがくどころか、まともに動く体力すらも無くなったニィナは、ついに己の死を覚悟してスッと目を閉じた。薄暗く霞んだ脳内に、父親や使用人たちや自分を愛してくれた大勢の国民たちの顔が、走馬灯のように流れ込んではふわっと消えていく。

 こんなに大好きな彼らに、もう二度と会えないだなんて。さよならも言えずに、お別れしないといけないだなんて。

 強い悔しさと寂しさ、そして悲しみや罪悪感に駆られながらも、何もすることのできないニィナは静かに意識を手放そうとした。ジィナと共にここに来た時点で、周囲に人の気配は全く無かったのだ。深く考えるのが苦手なニィナでも、そう都合よく助けなんて来るわけがないことぐらいちゃんとわかっていた。

 それまでニィナの周りを旋回し続けていた水棲馬が、ついに彼女の左腕を食い終えて余った骨をペッと吐き出す。そして未だに沈みゆくニィナの体を確認すると、再び馬特有の盛大な鳴き声をあげながらニィナの元へ真っ直ぐ突っ込んだ。獲物を捉えたその目は異様なほどに血走っており、大きく開かれた口からは馬らしからぬ鋭い歯がむき出しになっていた。



そして、ついに水棲馬がニィナの元に到着する―――と思われたその直後、猪突猛進の如く泳いでいた水棲馬の頭部に、突然鋭く尖った刃物のようなものが深々と突き刺さった。かなり強い力で刺されたらしく、その刃物はすぐに頭を通り越して下顎まで貫通した。唐突過ぎる奇襲に驚く暇もなく、ピタッと動きを止めた水棲馬は瞳が飛び出るのではないかと思えるほど大きく目をかっぴらいた。

 そんな水棲馬に刃物あらためクナイを突き刺した張本人は、途端に動かなくなった水棲馬を容赦なく蹴り飛ばし、その勢いを利用してニィナの元に接近した。ニィナの体はその時点でぐったりと脱力しており、流石に自ら動く気配はなかった。それでも男は新たなクナイをどこからともなく取り出すと、ニィナの足枷についていた鎖を鉄球ごと強引に壊して切り離した。それによってようやく軽くなったニィナの体を抱えつつ、男はとても滑らかな動きで水面へとすかさず浮上した。

 男の首に巻かれた長いボロボロの布切れが、まさに魚のヒレのように薄暗い水中で美しく蠢いていたのだった。




***




「……ぅ……」




 重たい瞼を恐る恐る開ける。それまで真っ暗だった視界は端から少しずつ明るくなり、同時にパチパチと何かが燃えるような音も聞こえ始めた。どうやら自分は今、柔らかい藁の上で仰向けの状態で寝かされているらしい。黄金の傘が見せる偽物の星が、暗い夜空の上でまばらに散らばっているのがよく見える。のちに遅れて伝わってきた燃えた木の匂いにつられて、ニィナはついにゆっくりと顔を横に動かした。そのおかげでニィナは、自分の近くに焚火があることと、そのそばに誰かがいるのを確認することができた。

 やけに濃い褐色の肌に、全体的に濃い紺色をした奇妙な服装。少なくとも、ニィナの住んでいるスフィンクス王国の住民が着るような服ではない。だが、ニィナは偶然にもそれが何なのか知っていた。昔父親から読み聞かされた本の中に、彼と似たような格好をした絵が記載されていたからだ。

 これはいわゆる、忍装束と呼ばれるものである。この世界の東側にあるという『和ノ国(わのくに)』で特に多く見られる格好で、忍者という職業に就く者が身に着ける正装らしい。スフィンクス王国の者で言えば、忍者はいわゆる警備兵や憲兵にあたる役職のようだ。和ノ国の人にしてはやけに肌が黒い気もするが、目覚めて間もないニィナの頭はそんな細かいことにまで注目することができなかった。代わりにニィナは、もっと男の顔をよく見るためにその場でもぞもぞと動いた。すると、布が擦れる音で気づいたのか、それまで無言だった男が不意に立ち上がってニィナに声をかけた。

「ようやく起きたか……気分はどうだ?手当は一通りおこなったが、痛みとかはあるか?」

「……?だ、れ?ここ、どこ……っ……!!」

 未だに状況が飲み込めず、男の正体もまだ完全には分かっていないニィナが何気なくその場で起き上がろうとする。しかし、その瞬間彼女の両肩からはズキッという鈍い激痛が全身に走り抜けた。その痛みで一瞬だけ頭の中が真っ白になり、ニィナはたまらず苦しそうに眉をひそめて目を閉じた。仰向けの状態ならなんともなかったのだが、横向きに寝た途端に痛みが止まらなくなってしまう。その原因が分からず戸惑うニィナの元に、あの忍装束を着た男が音もなくサッと近づいた。そして、掠れた呼吸と咳を繰り返すニィナの体を支えつつ、男はどこまでも冷静な口調で彼女に言った。

「無理に動こうとするな、傷口が開く……今のお前は両腕が無いんだ。一人で起き上がろうとする行為は、断じて推奨しない。」

「う、で……?……ぁ……」

 両腕が無い。

 男からそう知らされた途端、ニィナは何かを思い出したようにヒュッと息を飲み、自身の両腕があった場所に慌てて目を向けた。そして、己の身に降りかかった残酷な真実をようやく知り、驚きと恐怖とで表情をひきつらせた。

 ニィナの肩から先―――彼女の両腕が、男の言う通り綺麗に無くなっていた。

 肩の部位には真っ赤な血の滲んだ包帯が、傷口を丸ごと覆うように首などを経由して丁寧に巻かれていた。そのおかげで出血はだいぶ抑えられているようだが、肝心の無くなった両腕はどこにも見当たらない。焚火の明かりを頼りに周りを見渡すが、やはり見つからない。そもそも、ここは一体どこなんだろうと、ニィナは心臓がどくどくと脈打つのを感じながら、赤くて丸いその瞳をそっと横に動かした。その視線の先には、不気味なほど微動だにしていない川が、正確には大きな湖が広がっていた。それを見た瞬間、ニィナはついにここに至るまでの経緯を全て思い出した。本当は思い出すべきではなかったのだが、場所が場所ゆえに思い出さざるを得なかった。



 自分は姉の手で湖の中に落とされて、その際に前々から噂されていた水棲馬に襲われ、そして両腕を噛み千切られたのだ。



 途端にあの時の恐怖が蘇ったニィナは顔を青白くさせると、ニィナの体を慎重に起こしてくれた男に縋るように身を寄せた。これ以上一人になるのが怖くて仕方なかったのである。また水棲馬に襲われたり、あるいは水中に沈んで溺れてしまうのが嫌だった。もう二度と、姉のジィナがそうしたように、誰からも捨てられたくなかったのだ。

 しかし、今のニィナには、自分を助けてくれたと思しき見ず知らずの男に頼ることしかできなかった。自分の近くにいてくれたのが彼しかいなかったからだ。本来ならば多少なりと警戒するべきなのだろうが、純粋なニィナは一人になりたくないという思いから躊躇いなく男の体にひっついた。ニィナの頭部にある小さな猫耳が、男の鍛えられた胸板の上でフルフルと弱々しく震えていた。

 すると、またしばらく無言を貫いていた男は、おもむろに近くにある焚火の方へグッと手を伸ばした。そして、その傍に置かれていた串刺しにした魚を掴むと、それを不意にニィナの口元に近づけた。焚火の炎で香ばしく焼かれた魚の美味しそうな香りが、身も心も衰弱したニィナの鼻腔を優しくくすぐる。それでもニィナが何も言えずに黙り込んでいると、男はさらに焼き魚を彼女の口元に近づけながら淡々と言った。

「食え。とりあえず、飯を食って腹を満たせ。話はそれからだ。」

「……」

 大部分を手甲(てこう)で覆われた、男の硬く強張った大きな手が、ニィナのふわふわとした白い髪を優しく撫でる。彼女の体は自然と男の胸元に抱き寄せられ、生き物としての確かな温もりがニィナの体をそっと包み込んだ。大好きな父親に抱きしめられた時とそっくりな暖かさだ。途端に寂しさだけでなく懐かしさも覚えたニィナは、自然と目に熱い大粒の涙を湛えながら、男の差し出した焼き魚を一口だけかじった。

 この湖で取れた魚なのかは不明だが、程よく焼いたお陰で外はカリカリ、そして中はジューシーで非常に美味だった。ニィナは元より魚が大好物なのだが、城の食事で出される魚は大半が新鮮な生の状態で提供されていた。猫の血を強く引くケット・シーにとって、魚は焼くよりも生で食べる方が美味しいとされていたからだ。それゆえに、ニィナが焚火の炎で焼かれた魚を食べたのは今回が初めてだった。

 しかし、これはとても美味しい。何なら生魚として食べる時よりも美味しい気がする。すっかり弱りきっていたニィナの心は、あっという間に物理的なそれとはまた別の、熱くて温かい何かに包み込まれた。

 元よりお腹が空いていたのもあって、ニィナは最初の分を軽く咀嚼してからすぐにもう一口食した。丁寧に噛み締めてゴクンと飲み込み、またさらにパクッと口に含む。そのたびに男は、ニィナが食べやすいように魚ごと細かく串を動かした。その何気ない気づかいや頭を撫でてくれる男の優しい手つきなどが、絶望の淵に落ちかけていたニィナの心を救いあげ、そして守るように抱きしめてくれた。次第にニィナの目から、様々な感情を孕んだ大粒の涙がポロポロとこぼれるようになる。

「う、ぅ……ひっぐ、うぅ……お、とうさん、お父さん……!!うわぁぁぁんっ!!!」

「……魚はまだたくさん残ってる。骨が喉に詰まると危ないから、ちゃんと噛んでから飲み込めよ。」

 遂に耐えかねて大声で泣き出してしまったニィナを宥めるように、男が静かながらも穏やかな声でそう呟く。ニィナは嗚咽混じりにコクコクと頷くと、再び焼き魚に口をつけてモグモグと咀嚼した。それを数回繰り返したのちに、また我慢ができなくなってワンワンと泣いてしまう。だが、男は何も言わずにそっと目を伏せると、泣き止みそうにないニィナの小さな体を守るようにより強く抱きしめた。

 寂しさや怖さだけでなく、誰かに守られる嬉しさと喜びを感じたニィナの泣き声が、夜の色に包まれた暗い湖周辺に粛々と響き渡っていたのだった。



***



「……なるほど。姉の手で足枷をつけられ、この湖に容赦なく落とされた、と。」

 ニィナが倒れてしまわぬように、彼女の肩を片手で支えながら男は短くそう呟いた。数分ほどかけてようやく落ち着いたニィナから、ジィナが計画した犯行の一部始終を聞いたのだ。気が済むまでとことん泣いたゆえか、ニィナはどことなく疲れ切った様子で男の体にもたれていた。二人の目の前にある焚火は、時間の経過に伴って最初よりも火の勢いを弱くしていた。水中に沈んでいた当時のニィナの姿を思い出した男が、彼女に気づかれないように赤くて細い己の目をギラリと鈍く光らせる。

 実を言うと男は、とある事情でニィナたちが来るよりも前からこの湖の近くにやってきていた。彼の目的は端的に言えば、スフィンクス王国の外でも噂されていた水棲馬の退治だった。男の聞いた話では、最近はこの湖だけでなく川や海などの水がある地域で、度々獰猛な水棲馬が出現し暴れ回っているとのことだった。ほんの少し前まではそこまで頻繁に出現していなかったし、現れたとしても特定の地域にしかいなかったというのに。

 ちなみに水棲馬は馬の頭部を持っていながらも、その中身は魚なので地上では長く生きることができない。しかし、逆を言えば奴らは水の中では無敵にほど近い存在となるのだ。大魚ながらも馬の如く俊敏な動き、そして馬というよりは鮫のそれに近い鋭い歯で、水中にいる魚や飛び込んだ人間などを容赦なく捕食するのである。その有害さと凶暴さが原因で、水棲馬は人類だけでなく他の妖たちからも存在自体を敬遠されていた。場所によっては大規模な駆除活動が積極的に行われることもあった。要は男も、例の湖に潜んでいると言われていた水棲馬を駆除するためにひっそりと行動していたのである。

 事件が発生した当時、桟橋とは別の場所にある浅瀬近くで休んでいた男は、何かが水中に落ちる音を聞いてすかさず湖の方に向かった。本当は昼の時間帯から何度も潜って水棲馬を探していたのだが、彼が代わりに得られたのは生きのいい魚ばかりだった。昼がだめならば夜にもう一度探索をしようと休んでいた矢先に、男はニィナが水中に落ちた音を偶然聞いたのだ。計画的に彼女を殺害しようとしていたジィナだったが、男が別の場所に潜んでいたことには全く気づいていないようだった。丹念に計画を立てていたがゆえに、自分と妹以外に人がいるなんて夢にも思わなかったのだろう。

 何はともあれ、やけに急ぎ足で去り行く船の影を確認した男は、落とされた何かあらためニィナを見つけるために咄嗟に湖の中へ潜水した。この時点ではまだ人が落とされたとは思っていなかったが、散々探し求めていた水棲馬のいななきが、やけに遠くから聞こえた瞬間に男は嫌な予感を察した。頭部は馬であれど、水棲馬はれっきとした肉食だ。ゆえに彼らが食べるのは魚か、あるいは水中に迷い込んだ魚以外の生き物である。そのため、急に現れた水棲馬に真っ先に狙われるのは、現在進行形で潜水している自分のはずだった。しかし、水棲馬の鳴き声は湖の奥深く、それも中心のほど近い場所から聞こえていた。言い換えればそこに、水棲馬が男よりも優先して狙っている獲物(いきもの)がいたのだ。

 そう―――当時足枷をつけられていたニィナが、ちょうどその場所でゆっくりと沈んでいたのである。

 水棲馬が水中でわざわざ盛大に鳴き声をあげるのは、よほど気合を入れて捕食しようとしている合図でもあった。そのことから自分以外の人間か妖がいると推理した男は、もはや並みの魚よりも素早い動きで湖の中心へと急いだ。お陰で数分足らずで現場に到着したものの、その時点でニィナは水棲馬によって両腕を食われており、水と混ざって赤黒い血液が煙のように蔓延していた。

 夜目を利用してニィナの姿を確認した男は、持っていたクナイを構えてからニィナに襲い掛かろうとした水棲馬の元に急接近した。そして、水棲馬の頭部をクナイで突き刺し、凶暴な水棲馬を一発で倒したのだ。その後は大量出血やら酸素不足やらで死にかけていたニィナを水中から引きずり上げ、人気のないこの浅瀬近くで懸命に介抱していたのである。

 しかし、結果的にニィナが再び目覚めるまでには数日ほどの時間がかかってしまった。その間に男が調べた情報によると、スフィンクス王国では次期后妃であるニィナが突然行方不明になったと大騒ぎになっているらしい。彼女を溺愛していた王様は精神が不安定になって寝込んでしまい、彼の側近や警備兵たちも混乱した住民たちを落ち着かせるのに悪戦苦闘していた。姉のジィナもひどく憔悴した様子で自室にひきこもっているようだが、彼女はれっきとした主犯なので悲しみに暮れた演技をしているだけだろう。何にせよ、このままでは王国自体の統治が困難となり、場合によっては文明そのものが崩壊しかねない状況にもあった。

 とはいえ今はまだ深夜である上に、ニィナが起きてからもまだ間もない。それに、急に行方不明になった娘が両腕を失った状態で帰ってきたとなれば、王様だけでなく国全体がさらなる混乱に陥ってしまうことだろう。そのため男は、ニィナから数々の証言を聞き込む反面で、これから一体どうしたものかとひそかに思案を巡らせていたのだった。

 その最中に男は小さく息を吸い込むと、疲労が溜まってひどく眠たそうなニィナの頭を撫でながら不意に彼女に言った。

「……すまなかった。」

「?どうしたの、急に。どうして、おじさんの方が、悲しそうな顔をしてるの?」

「いや……夜も遅い時間帯だったとはいえ、もっと早くお前を見つけるべきだった。そうしたら、小さいお前が両腕を失うことも、ひどく苦しい思いをすることも無かったというのに。俺はまた(・・)、誰かをちゃんと守ることができなかった……本当に、すまなかった。」

 それまで誰かに対する怒りに満ちていた男の目が、何かを悔やむように、そしてひどく悲しそうに大きく歪む。少し意味深な言葉も零れ落ちていたが、ニィナは男の悲痛さに満ちた顔を見た瞬間、彼と同じように悲しげな目で男の顔を見つめた。男はこちらに対して一切目を向けておらず、ニィナの頭に添えられた手も、気づけば何かに怯えるように微かに震えていた。

 先ほどの言い方から察するに、彼にはきっとニィナの知らない、ひどく切なくて苦しい過去があるのだろう。守れなかったと話していたあたり、大切な家族かそれにほど近い誰かを失ったようだ。詳しいことは全く分からなかったものの、後悔などが原因で男が抱いた苦痛は幼いニィナでもちゃんと感じ取ることができた。むしろ、若くして慈悲深い性格の彼女だからこそ、その豊かな感受性のお陰で男にもつらい過去があったと察することができたのだ。

 しかし、ニィナにとってこの男は、危うく死にかけた自分を救ってくれた、まさに救世主である。ゆえにニィナの視点では、助けるのが遅かったからと言って、彼の方から謝る必要性は全く感じられなかった。元の性格が穏やかゆえに、ニィナは彼の優しさを無視して、理不尽に怒ったり泣きわめいたりしなかった。代わりに彼女は、再び甘えるように男の体に身を寄せながら、柔らかくニコッと微笑んで彼に言った。

「ううん、大丈夫。おじさんは何も悪くないよ。だって、おじさんはニィナを助けてくれた英雄(ヒーロー)なんだもん。」

「……!」

「おじさんはね、ニィナの傷の手当てもしてくれたし、美味しいご飯もいっぱいくれた。ずっと、あったかい火と一緒に、ニィナの近くにいてくれた……腕が無いって知った時は、やっぱりとても怖かったし悲しかったよ。でも、それでもおじさんが傍にいてくれたから、ニィナ全然怖くなくなったの。ありがとう、おじさん。」

 ニィナのふわふわとした髪の毛が、彼女を宥めるために少し身を屈めていた男の頬を軽くくすぐる。湖の近くなので若干の湿気はあるものの、それはまるで羽毛のような触り心地をしていた。ケット・シーの毛はみな等しく上品で良質だと言われているが、彼女は王家の者ゆえにより丁寧に手入れがされているのだろう。彼女の着ている赤いポンチョの生地も、普通のものよりはずっと高級感のある布が使われているように思われた。

 これほどまでに皆から愛されいたであろう心優しい少女の命を、計画的にかつ秘密裏に屠ろうとする輩がいるとは。

 男は口元を覆うマスクの下で微かに歯を食いしばると、自身を責めないでくれたニィナに感謝を伝えるように、彼女の体をより強く抱きしめた。腕を失って怪我をした箇所にはあまり触れないように、ニィナの頭を猫耳ごと抱き寄せる。ニィナは心底嬉しそうにもう一度微笑むと「おじさんの手、あったかいね」と呟きながら安堵したように耳と目を伏せた。

 その直後、男はおもむろにコホンと咳払いをすると、火の勢いが衰えた焚火に木の棒を投げ込みつつニィナに言った。

「その、“おじさん”という呼び方はやめろ。これでもちょうど三十路(みそじ)なんだ。おじさんと呼ばれるほどの歳ではない。」

「えー!でもニィナ、おじさんのお名前知らないよ?だってまだ全然教えられてないもん!」

「……失敬。そういえばまだ、俺からは正式に名乗っていなかったな。」

 一瞬ハッと目を見開いたのちに、ちゃんと自己紹介をしていなかったことに気づいた男が、少し気まずそうにマスクに手を当ててニィナから目を逸らす。その一方でニィナは男の名前を今すぐにでも聞きたいのか、期待に満ちた眼差しで男の横顔をジッと見つめ始めた。どこまでも純粋なその視線に耐えかねた男が、仕方なくニィナの方に顔を向けながら淡々と言葉を紡ぐ。

「俺は和ノ国直属妖討伐隊忍び之部()隊長、ジン・アラタカだ……手短にジンでいい。」

「とうばつたい、しのびのぶ……うーん、よく分かんないけど、やっぱりおじさ……ジンって和ノ国の人なんだね!ニィナ、お父さんがむかし読んでくれた本で、ジンと同じ服を着てる人を見たの!でも、本物のニンジャって、本で見たのよりもずっとかっこいいし強いんだね!ニィナ、初めて知った!」

 ようやく男、あらためジンの名前と素性を知ったニィナは、途端にキャッキャとはしゃぎながらジンの隣で足をばたつかせた。自分の予想していた通り、ジンがニンジャであると分かって気分が高まったのだろう。だが、あまりにも興奮しすぎたせいで、両腕を失ったニィナは危うく後ろに倒れそうになった。ジンはすかさず彼女の背中を支えて転落を防ぎつつ、すぐにごめんなさいと謝るニィナの体を抱えながら言葉を紡いだ。

「明日の朝にはここを発つ。だからお前はもう寝ろ。俺は夜通しで周囲の監視を行う……明日はできる限り穏便に、お前の父親の元へ送り返してやるからな。」

「……あの、ね、ジン……ニィナ、お家、帰りたくない。」

「……なんだと?」

 ジンによって寝床である藁の上に寝かされた途端、ニィナは一転して表情を曇らせながら小声でそう呟いた。彼女の体に例の赤いポンチョを被せようとしたジンの手の動きがすかさずピタッと静止する。

 ニィナの口から紡がれた、まさかの帰りたくないという一言。齢六歳の幼子ならば、こんな状況下に陥った時点で元居た家に真っ先に帰りたがるはずなのに。

 ニィナ本人がそう告げた理由が分からず、ジンはどうしてと尋ねるように、鋭く光る赤い目でニィナの顔をジッと睨んだ。その目で見下ろされたニィナは、少し不安げな表情でジンの顔を見上げながら続けて彼に言った。

「だって、ニィナがお姉ちゃんと一緒に勝手にお外に出ちゃったから、お父さんとか国の人たちみんなががものすごく困ってるんでしょ?あの日の夜に、ニィナがちゃんとお城の中に残っていたら、そもそもこんなことにはならなかったんだよ……だから、全部ニィナが悪いの。勝手に夜にお出かけしちゃって、お姉ちゃんにちゃんとやめてって言えなかったニィナが悪いの。だから、お城に戻ってもお父さんはきっとニィナのことを許してくれない。むしろ、悪い子なニィナのこと、嫌いになってると思う。だから、帰りたくない……帰るべきじゃ、ないと思うの。」

「…………」

 ニィナの言葉が途絶えた途端、二人の周囲をひどく冷たい夜の風が颯爽と吹き抜けた。それに煽られた焚火の炎がブワッと火柱を巻き起こし、会話が途切れた両者間の重たい空気を払拭するようにパチパチと軽快な音を鳴らした。

 当初ジンは、単に自分を殺そうとした姉に再会したくないから、ニィナは家に帰りたくないと言ったと推測していた。こちらに一度でも殺意を向けてきた相手と、ひとつ屋根の下で再び暮らし直すだなんて、流石のニィナでも無理だろうと考えていたからだ。

 しかし、実際の理由は全く違っていた。姉に会いたくないからとかそんなものではなかった。むしろニィナは、彼女に騙された己自身を責めていたのだ。要は今回の事件における全ての責任が、紛うことなき自分自身にあると勝手に思い込んでいたのである。並みの幼子では到底思いつかないような、ある意味一種の自己犠牲に偏った考え方だった。思えばジンが調査を進めていた際に、スフィンクス王国で暮らしていた国民の多くは口を揃えて、ニィナがとても心優しい性格の王女様だと主張していた。どうやらその話は間違いなく本当らしい。

 どこまでも他人に優しくてお人好しな子。そのせいで悪い奴らにそそのかされて、いつしか取り返しのつかないほどの大損を被ってしまう―――それがニィナ・スフィンクスという名の、世界の残酷さを知らない無垢な少女なのだ。

「お前、あれだな……まだまだ小さいとはいえ、中身はとんだ阿呆(あほう)のようだな。」

「……あほうって、なぁに?」

「そのうち分かる。それよりも……お前の父親はいつ、お前に対して嫌いだとか許さないなどと言ったんだ?」

 ジンは深いため息混じりにそう尋ねると、キョトンと目を丸くするニィナの体にポンチョを被せてから、彼女の腹をポンと優しく叩いた。そのままその箇所を一定のリズムで撫でつつ、若干の呆れと怒りを孕んだ表情を浮かべたジンは続けて彼女に言った。

「お前の父親はそもそも、お前が生きているかどうかすら、まだちゃんと分かってないんだぞ。王国全体が大混乱に陥っているせいで、色んな情報が錯綜しているらしいからな。それに、丁寧に足枷まで用意して、お前を確実に殺そうとした姉のことだ。お前が落とされたこの湖への捜索が入らないように、裏で手を回している可能性もある……水棲馬は肉食だが、内臓だけはどうしても苦手で必ず食い残すと言われている。それが仮に証拠として押収されたら、なんで城にいたはずのお前の内臓がここにあるんだなどと一気に騒がれるからな。行方不明のままで迷宮入りにさせる方が、姉にとってはずっと都合が良いんだろう。」

「そ、そんな……お姉ちゃんは、そんなことしない!たしかにお姉ちゃんは少し厳しくて冷たいけど、本当はニィナといっぱい遊んでくれるぐらい優しいんだもん……あ、そうだ。きっと、あれだよ!あのお馬さんがすっごくお腹を空かせていることを知ってたから、お姉ちゃんは仕方なくニィナを食べさせようとしたんだよ!ころそうとしたとか、そんな理由でニィナを落としたりなんてしな―――」

 ジンによる冷たい声音に耐えかねたのか、しばらく口ごもっていたニィナは途中でブンブンと首を左右に振りつつ慌てて体を起こそうとした。彼女は今もなお、自分を殺そうとした姉のジィナのことを、大切な家族の一人として信じていたのだ。ジンの憶測とはまた異なる、何か別の深い事情があったに違いないと彼女は考えていたのである。

 しかし、ジンは起き上がろうとしたニィナの動きをすかさず止めると、少し強引に彼女の体を藁の上に寝かせた。イヤイヤと駄々をこねるように足をばたつかせたニィナだったが、自分よりもずっと大人であるジンは彼女の足を片手で軽々と押さえつけた。途端に「うぅ…」と軽く唸るニィナをしりめに、ジンは相変わらず冷たい声で彼女に真実を突き付けるように淡々と言い放った。

「被害者が加害者を援護するなど、言語道断。俺はこの耳でたしかに聞いたんだ……お前が水中へ落とされたのちに、お前の姉と思しき奴がひどく嬉々とした様子で笑っていたのを。」

「……!!」

「お前は例の国で、次期后妃……要は将来、立派な姫君として迎え入れられる予定だったんだろ?そういうものは本来、お前のような若輩者ではなく、姉や兄と言った年長者が引き継ぐものだ。おそらく、お前の姉はお前を殺すことで、確実に自分の方が次期后妃に選ばれるようにしたんだろう……真偽のほどは不明だが、少なくとも俺はそう推測している。」

 ジンの言葉に応じて、彼の眼下で軽く暴れていたニィナの動きが少しずつ治まり、しまいにはほとんど動かなくなる。齢六つの脳みそでは、ジンの主張に対する効果的な反論を思いつくことができなかったからだ。それでもどこか不満げかつ不安そうな表情は終始崩しておらず、ジンは再びため息を吐きつつようやくニィナの体から手を離した。

 とはいえ結論から言えば、ジンの推測はほぼ的を得ていた。ニィナについて調べるために予め国に潜入していたとはいえ、知り得た情報やニィナ本人の話から今回の事件の全貌を独自に暴きだしたのだ。しかし、当のジン本人はそれが正解であるとまだ確信していなかった。自分の抱いた考えだけを答えにするなという、元居た故郷での教えが彼の中に根付いていたからである。

 そのため、ジンはさらなる調査や明日の行動のために、夜回りついでにもう一度スフィンクス王国に潜入しようと考えていた。しかし、そのためにはまず先にニィナを寝かせなければならない。湖近くの浅瀬で尚且つ焚火もあるので、ジンがいなくても妖の類はそう簡単に寄ってこないだろう。だが、起きている状態でニィナをここに残した場合、彼女がすぐに寂しさなぢを覚えて泣き出してしまう可能性があった。それを危惧したジンはニィナの隣であぐらをかくと、彼女に向けて『分かったならもう寝ろ』と伝えるように片手で彼女の頭をポンポンと撫でた。

 すると、ニィナはおもむろに頬を膨らませると、ジンの手を無理やり払いながらどっこいしょと起き上がった。まさか彼女一人の力で起き上がるとは思わず、ジンは驚きで目を丸くしつつも危うく倒れかけたニィナの体を慌てて支えた。両腕が無いので、上半身を起こせたところでそのままバランスを取るのは難しかったのだ。何にせよ怪我の悪化につながりかねないニィナの強引さを前に、ジンは少し強めの口調で彼女を窘めるようにこう言い放った。

「よせ、にぃな。急に動いたりするな。包帯の数にも限りがある。傷口が開いて血が滲み出たりしたら危ないだろ。」

「……帰りたくない。それでもニィナは、お家に帰りたくない。」

 ニィナはそう言って再び首を左右に振ると、ジンが支えているのをいいことに、体を大きく動かしてジンの顔に自身のそれをグイッと近づけた。結果的にニィナは膝立ちにほど近い体勢となり、お互いに真っ赤な瞳が至近距離でばっちりとぶつかり合う。それまで見せていた不安げな表情を一新して、どこか悲しそうな顔を見せたニィナは思わず驚いて固まったジンに向けてぽつぽつと呟いた。

「今のニィナは、今みたいに誰かに支えてもらわないと、お布団から起きることもできないの。一人でご飯を食べることもできないし、一人で服を着替えたりお風呂に入ったりすることもできない。歩いたり走ったりしても、一回転んじゃったらもう二度と一人では起き上がれない……手も腕も、もうどっちも無いから。」

「……にぃな……」

「ニィナはね、大好きな人たちみんなに、いっぱい迷惑をかけたくないの。お父さんにも、国の人たちにも……ニィナを助けてくれた、ジンにも。」

 ニィナはそこまで言うと、膝立ちの体勢が地味にしんどかったのか、不意にガクンと体を揺らしてジンの肩にもたれかかった。力なく垂れた猫耳と尻尾が弱々しく震えている。自分が腕を失っているという事実を、あらためて再認識したことで軽く打ちひしがれているのだろう。人が生きていくうえで必要不可欠な体の部位を、何一つ抵抗もできずに奪われてしまったのだ。しかもそれらは、どうあがいても二度と取り返すことが叶わないものでもあった。凶暴な水棲馬によって強引にちぎられた挙句、餌として食われてしまったのだから。本人がそのことを理解してようがいまいが、幼きニィナが強いショックを受けるのも無理はなかった。

 しかし、それでもジンは心の奥底でとある疑問を抱いていた。その疑問は、大人の自分ではどうしても解が分からぬものだった。そのためジンはニィナの小さな体を優しく抱きしめながら彼女の頭を撫でつつ手短に問いかけた。

「お前……復讐をしたいとは、思わないのか?」

「……ふくしゅう?」

「お前を殺そうとした姉に対して、相応の報復を……仕返しをしたいとは思わないのか?お前の姉は『次期后妃の座を奪い返す』という自分の欲求を満たすためだけに、念入りに計画を立てたうえでお前をここに連れて来たんだ。お前の姉がお前に向けてそうしたように、お前も姉に対して恨みを抱いたりしていないのか?」

 途中で分かりやすく言葉を訂正したジンの問いに対し、ニィナは終始怪訝そうに眉をひそめながら首を傾げた。そんな彼女の反応をしばらく見守っていたジンが、もしやと言わんばかりに頭を抱えて軽く唸る。すると、しばらく間を開けたのちにニィナはジンの胸元に顔を埋めながらたどたどしく呟き始めた。

「あのね、ニィナ、人を恨むってことがよく分からないの。たしかに、たまに怒っちゃうことはあるし、大好きだった人が急に嫌いになっちゃうこともあるにはあるよ。でも……気がついたら、どっちもすぐに治まっちゃうの。これはニィナの方が悪いんだって、すぐに気づくことができるから。だから、いつもニィナの方からごめんなさいって言って、すぐに相手と仲直りするの。どれだけいっぱい喧嘩をしても、いつかどっちかがごめんなさいって言って謝れば絶対に解決するんだもん!だから、ニィナはお姉ちゃんのことを恨んだりしない。ちょっと怖いとは思ってるけど、お姉ちゃんのことを嫌いになったりもしないよ。最後までお姉ちゃんの苦しみに気づけなかった、ニィナの方が全部悪いんだから……」

「……」

 ニィナの頭や背中に添えられたジンの手に微かに力が込められる。ニィナの視点ではジンの顔がよく見えなかったが、彼の赤い目はまたしても一抹の怒りなどで鋭く尖っていた。その一方でどこか呆れたように深くため息を吐くと、ジンはニィナの体を少しだけ離しながらおもむろにつらつらと言葉を連ねた。

「和ノ国忍の里、イバラ村直伝忍の掟第九十八条壱の項……罪人には、罪に応じた適切な罰を。続けて弐の項、罪人に情けなどは一切不要。如何なる事情があれど、罪人は罪人に変わりないことを忘れることなかれ。」

「……?」

「分からない、という顔をしているな……お前はとんだ阿呆だと思っていたが、それ以上にとんだ馬鹿でもあるようだな。」

「あぁ!バカって言葉はニィナでもわかるよ!絶対人に言っちゃいけない悪口なんだよ、それ!」

 自分でも意味合いを知っている言葉が飛び出たことで、すかさずそれに反応したニィナがぷくぅと大きく頬を膨らませる。過去に父親から、馬鹿という言葉は絶対に人に向けて言ってはいけないものだと教わっていたからだ。しかし、ジンはそんなニィナの反応に対して特に戸惑ったりせず、怒ってまた倒れかけた彼女の体を冷静に支えた。こちらと同じ赤い色をしているのに、まるで鷹のように細いジンの目がニィナの顔を真っ直ぐ見つめる。まるでこちらを問答無用で説き伏せるかのような視線を前に、流石のニィナも身を強張らせて背筋をゾクッと震わせた。まさに蛇に睨まれた蛙のような状態となったタイミングで、ジンがいつもよりも冷たい声で続けて言葉を紡ぐ。

「さっきも言ったが、被害者のお前が加害者である姉のことを無理に援護する必要はない。真実というものは、しばらく隠すことができてもいつかは必ず明るみになるものだ。ゆえに、姉の犯した罪も、いつの日か必ず暴かれることになるんだぞ。その“いつの日か”を少しでも早めるために、お前自身が国に戻る必要があるんだ。その両腕を失ったお前の体……それだけでも、お前の身に何かしらの事件が起きたであろうことは、誰だって容易に想像することができる。国王であるお前の父親も黙っていないことだろう。きっと大量の兵士を率いて、総力をあげて調査を始めるに違いない。そうなったら最後、姉の悪事が暴かれて奴が裁かれるの時間の問題となる。姉は国民全員の敵となり、お前は奴に殺されかけた時の恨みを晴らすことができる……他国の人間が口をはさみ過ぎるのもあれだが、今回の事件をこのままお前の泣き寝入りで済ませるつもりは毛頭ないぞ。未遂であれども殺人の罪を犯したお前の姉に、国を巻き込んででも相応の罰を与えなければならないからな。」

「……」

 時間が進んで夜が深くなり、さらに冷たい風が湖の周辺を撫でるようにザァッと吹き抜ける。二人の耳に届いたのは、焚火の炎が煽られる音と風の音、そしてお互いの呼吸する音だけだった。またしても妙な気まずさに満ちた空気感が、二人の間で雪の如く降り積もった。

 ジンはニィナの体を支えたまま何も言わない。彼女の自己犠牲じみた意思が変わるまで動かないつもりのようだ。一方でニィナは、ジンに対してどう答えるべきか未だに迷っているようだった。思えば彼女はまだ六歳になったばかりであり、姉に裁きを下すかどうかの選択をさせるのは少し酷ですらあった。並みの大人ならばもっと穏便に説得を試みただろうが、あいにく今の相手は見るからに堅苦しい雰囲気のある忍の男、ジンだった。ニィナ程度の小さな子供では、少なくとも言葉による太刀打ちは不可能も当然だった。

 ―――こうして本日何度目かの長い沈黙を経たのちに、小さく息を吸ったニィナは今までの中で一番ハッキリとした口調でジンに言った。

「ごめんなさい、ジン。それでも、ニィナは帰らない。たとえお姉ちゃんがどれだけ悪いってなっても、これ以上ニィナのせいで周りの人を困らせたくないの。」

「……俺は今でも、お前自身の我儘に困らされているんだがな。」

 やはり揺るがないかと、そういいたそうに眉をひそめたジンが軽く肩を竦めながら容赦なくそう答える。子供の我儘がそう簡単に崩れるわけがないと、最初から分かっていたがゆえだろうか。何にせよ、すかさず痛いところを突かれてしまったニィナは途端にあわあわと目を泳がせながら、ジンに向けてペコペコと頭を下げた。

「それは本当にごめんなさい!でもね、ニィナはちゃんとジンのことも困らせたくないって思ってるの!何の恩返しもできずに、ジンにお世話になってばかりなのは嫌だ……そうするぐらいなら、この湖の近くでひとりぼっちになってもいい。そもそもジンは、ニィナのこと置いていくつもりなんでしょ?」

「おい待て。それは聞き捨てならない言葉だな。そんなことをするつもりは一切ないぞ。むしろ俺は、お前を連れていく(・・・・・)つもりなんだが……仮にこんな場所に残したところで、他の凶暴な妖に襲われるか、人攫いに遭って攫われるだけだろう。」

 何を言ってるんだお前はといわんばかりに、ジンは片手で己の頭を掻きつつ少し困惑した様子で彼女にそう言った。だが、実際に一番困惑していたのはニィナの方だった。彼女としては、いつか時が来たら必ずジンに置いていかれると思い込んでいたからである。

 ニィナにはニィナなりの生活があったように、ジンにもジンなりの生き方というものがある。部外者である自身がそんな彼の生活に水を差したり介入することは許されない。そんな考えが幼きニィナの頭の片隅に自然と浮かび上がっていたのだ。

 しかし、先ほどジンは自身のことを『連れていく』と言ったではないか。ジンはぱっと見でも定住者というよりは放浪者である。そのため普通に考えてみれば、体の一部が欠損した幼い自身は彼にとってお荷物でしかないはずだった。しかし、ジンの目を見る限り、彼がここに来て嘘などをついているような気配は全くなかった。ジンは本当に、腕を失ってしまった自分を共に連れていくつもりなのだ。彼女のことを見捨てたりせず、本当の別れの時が来るまで守り通すつもりでいるのだ。

 途端に一抹の期待を抱いて目を輝かせたニィナが、はやる気持ちを抑えながら恐る恐るジンに尋ねる。

「ねぇ、ジン。もしかして……ニィナ、ジンと一緒に居ていいの?これからも、ジンの傍にいていいの?」

「あぁ。袖振り合うも他生の縁、というものだ。これでも戦闘面にはそこそこの自信がある。お前のような幼子一人ぐらいならば問題なく守れる……城に帰らないというのなら、問答無用で俺についてきてもらうぞ。それでもいいんだな?」

 ジンはさも当然の如くそう答えると、一転して優しく目を細めながらニィナの頭を撫でた。お城の中で、自分と遊んでくれた時の父親と同じ目をしている。そんなジンの目を見て強い懐かしさに駆られたニィナは、自然と目頭が熱くなるのを感じながらひどく安心したように顔を綻ばせた。そのままコクコクと頷きつつジンの体に抱き着き、まさに子猫の如くゴロゴロと喉を鳴らして彼に甘える。自分を救ってくれたジンの傍にいていいと知って、途端に強い喜びと安堵を覚えたからだ。そんなニィナの甘えっぷりに対してジンは特に嫌がる様子もなく、むしろニィナを受け入れるように彼女の体をそっと抱きしめた。

 最初はお互いに距離感が上手く掴めず少し躊躇していた節があった。しかし今、二人の心はようやく壁を越えて通じ合い、それまで二人の間にあった気まずい空気感もついに払拭された。ニィナの決意を受け入れたゆえか、ニィナの体を抱きしめるジンの手つきも最初よりずっと優しくなっていた。幼いニィナの復讐のためにと、勝手に躍起になっていた自分自身に気づいたからだろう。心なしか、ジンの表情も怒りなどの感情が消えて少しだけ柔らかくなっていたのだった。

 すると、ニィナは不意に「あ!」と声を上げると、ジンの胸元からバッと顔を上げてジンに言った。

「そうだ、お手紙!ニィナ、お手紙書きたい!」

「手紙、だと?」

「うん。お父さんとか兵士さんとか、国の人たちのためにのお手紙を書くの!直接会いに行ったらみんなを困らせちゃうから、口の代わりにお手紙で言葉を伝えるの。お手紙だったらね、どんなに上手く話せないことも文字に乗せて伝えることができるんだよ!昔お父さんがそう教えてくれたの……ねぇジン、だめ、かな?」

 ニィナは一転して心配そうに眉をひそめながらそう言うと、彼に懇願するような眼差しでジンの顔を見つめた。珍しくキョトンと目を丸くしたジンが、なるほどと言わんばかりに顎に手を添えてふむふむと頷く。

 たしかに、王様などに対して何も伝えないままこの場を去るのは流石に無礼だし後味も悪い。如何にして相手に手紙を渡すんだという問題点はあるものの、あらためて考えてみても手紙を渡すというのはあまり悪くない提案だった。試してみる価値はあるなと考え込むジンの目の前で、ニィナは終始心配そうに目を伏せて唇をかみ締めていた。自分の考えが、先ほどのようにまた拒まれてしまうのではないかと危惧しているらしい。そう察したジンは小さく首を振ると、ニィナの体を再び藁の上に優しく下ろしながら彼女に言った。

「そう案ずるな。さっきは無理に窘めてすまなかった。お前のその提案、今回は俺も素直に受け入れることにする。ただしばし待て、紙と筆の類を集めてくる。」

「あ……そう、だよね。ニィナ、紙もペンも全然持ってないもんね……それなのに、急なお願いをしちゃってごめんなさい。」

「別に構わん。それより、そうやってすぐに他人に謝る癖を治せ。(こうべ)を垂れるだけで万事解決するほど、この世界は優しくないんだ。」

 ジンは片手で藁の寝床を整えながらそう言うと、その上にニィナの体を寝かせて彼女の頭を撫でた。その手つきはニィナが今よりもっと小さい頃、怖い夢を見て寝付けなかった時に父親がしてくれたそれに不思議と酷似していた。思えばジンは独身である印象が強いのに、子供である自身に対してやけに優しく接してくれるではないか。ニィナの頭の片隅ではどうしてだろうと小さな疑問が浮かんだが、流石に夜遅くまで起き続けたせいか、すぐに込みあがった強い睡魔によって全てがかき消された。

 柔らかい藁の寝床の心地良さも相まって、自然と意識が霞んで瞼も重たくなる。ジンはその間にニィナの体にポンチョを被せると、手紙を書くための道具を見つけるためにその場から素早く立ち去ろうとした。そんなジンの背中に向けて、とても眠たそうに目を細めたニィナが小さく微笑みながら声をかける。

「ねぇ、ジン……ありがとう。」

「……礼など不要だ。」

 ジンは少し素っ気なく、それでいてどこか恥ずかしそうに言葉を返すと、目にも止まらぬ速さでその場からサッと姿を消した。後に残されたのは、ジンが作成した焚火と周囲を吹き抜ける小さなつむじ風だけだった。流石はニンジャ改め忍といったところか。かっこいいなぁと独り言を呟きつつ、一人残されたニィナはついに眠気に負けて瞼をそっと閉じた。ジンの丁寧な手当のお陰か、肩から感じていた痛みはとうの昔に消え去っていた。優しく頭を撫でてくれたジンの手を思い出しつつ、ニィナは己の意識を夢の世界へと沈みこませた。

 焚火の炎に守られたか弱き少女の姿を、偽物の月と星はいつまでも静かに見下ろしていたのだった。




***




 翌朝 スフィンクス王国スフィンクス城内―――




「……ニィナ様が行方不明になられてから、今日で早くも四日目。しかしながら、ニィナ様につながる手掛かりは一切無し。」

「このままニィナ様は見つからず、事件は迷宮入りになってしまうんでしょうか……あぁ、あの時に最後までニィナ様のお傍にいれば、こんなことには……」

 どこまでも続く豪華な作りの廊下を歩きつつ、二人の使用人たちはお互いにそんな会話を交わし合っていた。彼女たちはどちらも、かつてニィナの世話係として彼女に仕えていた者たちだった。しかし、ニィナがいない今は代わりに姉のジィナの世話役を務めている。

 ちなみに片方の使用人は、ニィナがいなくなった日の夜に最後まで彼女の傍にいた者だった。当時は結局ジィナの命令に従ってその場を離れたのだが、今となってはそのことを深く後悔していた。使用人という比較的弱い立場にいたことで、ジィナ相手に簡単に屈してしまった自分に嫌気がさしているのだ。もう片方の使用人は当時現場にいなかったものの、職務経験が非常に豊富で、数多くいる使用人たちの中でも特にリーダー的な立場にいた。加えて彼女は、かつてニィナが一番懐いていた使用人でもある。

 そんな彼女は窓の外の景色を一瞥しつつ、何かを訝しむように眉をひそめながら相方の使用人に言った。

「やはり今回の件、私はジィナ様が怪しいと睨んでいるわ。あの日最後にニィナ様とお会いになられたのは、間違いなくあの人だけですもの。」

「私もそう思います!ですが、流石に御本人に向けてそれを問いただす勇気は……」

「そうよねぇ、結局そうなるのよねぇ……本当、使用人という立場は常々歯がゆいものだわ。クビにされる未来に怯えてしまって、言いたいことが全然言えなくなってしまうの。似たようなことを今まで何度も経験しているはずなのにね。」

 手練れの使用人はひどく残念そうにため息を吐くと、若い使用人と共にとある部屋の前でピタッと足を止めた。ここがニィナがこれまで使っていた自室なのだ。しかし、少し前までは国王であるリオンの指示で一切の立ち入りが禁止されていた。ゆえに掃除や手入れの行われていない部屋の扉には、ほんの少しだけだが小さな埃が溜まっていた。その埃を指で掬いながら、若い使用人はひどく寂しそうな口調でポツリと呟いた。

「ニィナ様のお部屋、未だに手つかずのまま放置されてるんですよね。御本人が居なくなってしまった、あの日のまま……」

「えぇ。今日になってようやくリオン様から掃除の許可が出たのよ。当のリオン様は、今も自室に引きこもって寝込んでいらっしゃるようだけど。」

「仕方ありませんよ、愛情をこめて育てていた娘様が突然いなくなったんですから……あれ?」

 嘆き悲しんでいる国王の姿を思い出した若い使用人が、微かに苦笑いを浮かべつつ扉をゆっくりと開く。しかし、彼女の歩みは室内に進むことなくその場ですぐにピタッと静止した。早く入りなさいよと急かすように、手練れの使用人が腕を組みつつ彼女の背後から室内へ顔を覗きこむ。

 その瞬間、手練れの使用人は外に面した部屋の窓が割れている(・・・・・)ことに気が付いた。いや、正確には小鳥が通れるぐらいの不自然な穴が、窓のほぼ中央に空いていたのである。ニィナが行方不明になった建国記念日の時から立ち入り禁止となっていたので、この部屋は今に至るまで実質密室の状態にあった。ガラスの破片も室内に向けて散らばっているので、外部から窓を割られたことはもはや明白だった。しかし、その一方で誰が一体何のためにそうしたのかは全く分からなかった。

 途端に軽いパニックに陥った二人の使用人たちは、慌てて室内に駆け込みつつもう一度周りを見渡した。ぱっと見では、何かしらの物が盗まれたりもしてないし、棚が荒らされた形跡なども全く見当たらない。おまけに窓をよく観察してみると、何故か鍵は施錠されたままだった。要は先に窓に穴を空けて、そこから鍵を解錠しようとした様子が無かったのだ。侵入自体が目的ならば、ちゃんと窓を開けないと室内そのものに入れないはずである。

 何故どうしてと解決できない疑問ばかりが脳内に浮かび上がり、使用人たちは少しだけ埃臭い室内でどちらもひどく悩まし気に頭を抱えた。穴が空いたままの窓から朝方の風が微かに吹き込み、二人の使用人たちの素足をそっと撫でる。

「ど、どういうことなの?穴は空いているのに、窓の鍵自体は開いていないだなんて……まさか、こっちは囮で別の場所から侵入したとか?」

「流石にそんな訳ないでしょ!強盗とかが目的なら、こんな回りくどいことなんてしないはずだもの。とにかく、早くこのことをリオン様にお伝えしないと―――って、あら?扉に何か突き刺さってる……?」

 冷静さを取り戻すために首を大きく左右に振ると、手練れの使用人はくるりと踵を返して部屋の外に出ようとした。だが、その矢先に彼女は、部屋の扉の内側に何やら物騒な刃物が突き刺さっているのを目撃した。扉が内開きだったがゆえに、今に至るまで全く気づけなかったようだ。

 形状だけ見ればそれは、自国の警備兵たちが使用している槍の先端にとても似ていた。だが、槍のそれよりは全体的に平たくて小さく、おまけに後ろの部分は綺麗な丸みを帯びていた。さらに言えば、そのわっかに括り付けるように、一枚の紙のような物が巻き付いていたのだ。

 実のところそれは一本の小型クナイだったのだが、無論それはスフィンクス王国では全く使われない特殊な武器である。そのため使用人たちは少し警戒気味にクナイの元に近づくと、それをじっと見つめながらお互いに小声で言葉を交わし合った。

「見たことのない形状の刃物ですけど、何か後ろに紙のようなものが巻かれていますね。まさか、これが窓を突き破ってここに突き刺さったのでしょうか?」

「刺さってる角度からして多分そうだろうけど……とりあえず、私は紙を取って中身を確認するわ。あなたは先に、リオン様にこのことをお伝えして!」

 手練れの使用人はキビキビと指示を出すと、ついに意を決してクナイに手を伸ばし、後部に巻かれていた紙の結び目をほどいた。そんな気軽に手を出していいのかと若い使用人は恐れたが、先輩でもある手練れの使用人からの指示を受けて慌てて部屋を飛び出した。その一方で手練れの使用人は、ゴクリと生唾を飲み込んだのちに恐る恐る紙を開いた。そして、そこに達筆で書かれていた、見たことの無い国の言葉を注意深く見つめ始めたのだった―――




【拝啓、偉大なるすふぃんくす王国すふぃんくす王家の皆様方。

 無礼を承知の上でかような形での伝書を行ったこと、深くお詫び申し上げる。

 この度は王家の皆様方にどうしてもお伝えしたいことがあり筆を取らせて頂いた。私自身がすふぃんくす王国の者でないゆえに、異国の文字で文章を綴ることをあらかじめご了承願いたい。

 まずはじめに、そちらの方で行方不明扱いになっているにぃな・すふぃんくすは生きている。かの暴虐な水棲馬によって両腕を失ってしまったが、本人は至って健康な様子である。食欲も旺盛で、一人で歩く力なども残っているので安心してほしい。

 しかし、にぃな本人はかのすふぃんくす王国に戻ることを望んでいない。彼女曰く、王家の皆様方や国民たちに迷惑をかけたくないから、とのことだ。できることなら、私のことはもう忘れてほしいと。みんなを悲しませてしまうことにはなるけれど、それ以上にいつまでもみんなを困らせ続けるのが嫌だと。それでも、父親や国民たちのことは今も大好きで愛している、とのことだ。全てにぃな本人がみなに伝わって欲しいと願った言葉である。一切の嘘偽りなく書き記したことを、下記の血の印を以てここに証明する。

そしてもう一つ。にぃなを水棲馬に襲わせて殺そうとした真犯人は、姉君のじぃな・すふぃんくすだ。確実に水中に沈めるため、足枷も付けられたとにぃな本人が主張している。疑わしく思うのならば、すふぃんくす王国の近くにある湖の中を調査せよ。ニィナの両腕の残骸や、彼女を襲った水棲馬の死体などが湖の底で沈んでいるはずだ。

 ただし、あらかじめ伝えておくが、にぃな本人は姉が裁きを受けることを全く望んでいない。無垢なる幼子は、殺されかけてもなお実の姉のことを苦しめたくないと考えているのだ。そして、下手に国民たちに真実を伝えるのも、余計な混乱を引き起こすので控えてほしいとのことだ。

 ゆえに、今後の姉君にまつわる処罰の行方は、王家の皆様方に一任させて頂く。そしてにぃな本人は、現在手紙を書いているこの私が責任を持って預かることとする。

 素性の分からぬ者ゆえに相応の不信感などはあるだろうが、そこはどうかご了承願いたい。かつて数多の戦場を駆け巡った一人の忍として、己の命が尽きるまでこの幼き姫君を護衛しよう。両腕を失った彼女の新たな腕として、彼女の身の回りの世話なども行おう。お互い異国に産まれし者同士であれども、私は彼女のために全ての忠義を尽くそうと考えている。

 これでもまだ信じれないというのならば、総力をあげて我々の跡を追いかけるがいい。

 だが、忍は常々影と共に生きる者。ゆえに追跡は推奨しない。一度宵闇に紛れれば最後、皆様方が我々を見つけることは不可能なのだから。


 さらば、すふぃんくす王国の王家の皆様方。その御心に、決して折れることのない屈強な刃があらんことを。



                     和ノ国直属 妖討伐隊元隊長 ジン・アラタカより】



 ***







「寒くないか、にぃな?今日は少し風が冷たいようだ。肩の傷口も痛んだりしてないか?」

「ううん、全然平気!お父さんがくれたポンチョがあるし、ジンが抱っこしてくれてるから大丈夫!」

「……そうか。なら、そろそろ行こうか。己が成すべきことを成すために。」




 黄金の傘の下で、偽物の太陽が空に顔を覗かせる朝方のこと。

 スフィンクス王国の領土から少し離れた場所にある山の上で、お互いに王国の大地を眺めていた二人の男女は颯爽と姿をくらました。

 黒き人間の忍と、白くて小さな猫妖精の行方を知る者はいない。少なくとも、今のところは。







***壱之章 終幕***

~キャラ紹介~


♂ジン・アラタカ(30)


種族:人間

出身地:和ノ国


常に忍装束を身に付けている謎多き男。妖討伐隊元隊長。種族はれっきとした人間だが、それにしては異様なほど濃度の高い褐色の肌を有している。訳あって常時口元をマスクで隠している。愛用の武器はクナイ。どうやら予備が無限にあるらしいが、その詳しい出所や隠しどころなどは一切不明。

冷静で寡黙な性格ながらも非常に面倒見がよい。特に子供に対してはまるで父親のように振舞うことが多い。戦闘力は極めて高く運動神経も抜群。その一方でカタカナを正確に発音することがかなり苦手らしい。



♀ニィナ・スフィンクス(6)


種族:猫妖精ケット・シー

出身地:スフィンクス王国


王家の生まれで二人姉妹のうちの次女。かつては若くして次期后妃の未来も約束されていた。ふわふわな白い髪(猫耳つき)とリンゴのように赤くて丸い瞳が特徴。父親からもらった赤いポンチョがお気に入り。好きな食べ物は魚全般で、骨なども気にせず丸ごと噛んで飲み込むことが多い。

非常に無邪気な性格で人懐っこく好奇心旺盛。純粋無垢ゆえに人を疑うという事を知らないので、悪い大人などに唆されて損を被ることも。歳の離れた姉のジィナ・スフィンクスからひそかに強い恨みと殺意を向けられていた。



~妖紹介~


*猫妖精-ケット・シー-


半人半猫、あるいは完全な猫の姿(二足歩行)をしている妖。性格は非常に温和かつ穏やかで、人類とも友好的な関係を築いている数少ない種族。彼らの住んでいる国は『スフィンクス王国』と呼ばれており、現在は十代目にあたるリオン・スフィンクスという男が王様として君臨し国を統治している。


*水棲馬-ウォーターホース-


体の大部分が大魚で、頭部が馬という異形を有した妖。ちょっと変わった見た目に反して性格は非常に凶暴。水中にいる魚や、そこに沈んできた人間や妖などを容赦なく食い殺す。どの凶暴さゆえに、人類だけでなく一部の妖たちからも存在を嫌われている。元々は特定の地域でしか姿が確認されていなかったが、最近はとある事情で普通の川や湖などでも目撃されている。

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