密室の謎は解けた!
ありえないことを除外して残ったものこそが真実である。
たとえそれがどんなに信じがたいものであったとしても。
「ご足労頂きありがとうございます」
ベテラン刑事が一同に声を掛ける。十二月の午後の室内を肌寒い風が渡った。
「本日、皆様にお集まりいただいたのは、この事件の真相をお話するためです」
事件の現場となった平屋に、ベテラン刑事は関係者全員を集めていた。その一人が不快そうに顔をしかめる。
「もったいつけてないで早く言ってよ。私は仕事を抜けてきているのよ?」
そう言ったのは被害者の会社の同僚、服部 忍だった。この女が第一発見者である大家に電話を掛けたことが事件発覚の発端となった。
「そ、そうですよ。平日の昼間に呼び出すなんて。私にも都合があるのに」
どこかおどおどとした様子の白髪のこの男が、大家の岸川 大輔である。彼がスペアキーで玄関の鍵を開け、被害者を発見、通報した。
「くっくっく、まあとりあえず話を聞こうじゃないか。この刑事さんの言う、真相とやらをな。くっくっく」
独特な、どこか気に障る笑い方のこの男は黒刃 凶夜。全身黒尽くめの、まるで暗殺者のような風体をしているが、職業は全くの不明である。彼は被害者と共通の趣味である登山を通じて知り合い、世界の三千メートル級の山々を共に登る仲であったが、つい先日、被害者と激しい口論となり、それ以来関係は断絶しているという。今も両手に愛用のナイフを持ち、ジャグリングのようにくるくるともてあそんでいた。
ベテラン刑事は三人をなだめるように軽く右手を挙げ、そしてゆっくりと口を開いた。
「この事件の発端は、被害者である長谷川氏が送ったメールでした」
――もう、終わりにしよう。
その短い一言が書かれたメールが、被害者と犯人に悲しいすれ違いを生み、悲劇的な結末を呼び込んだ。ベテラン刑事は服部忍に目を向ける。
「あなたは、被害者の恋人でしたね?」
忍の顔から血の気が失せ、その身体が小さく震える。
「メールを受け取って、あなたは長谷川氏に捨てられたと思った」
「ち、ちがうわ! 私は……」
忍は激しい動揺を示し、うつむいて押し黙った。観察するように忍をじっと見つめた後、ベテラン刑事は視線を黒刃凶夜に向ける。
「被害者は、あなたの唯一の友達だった」
ハッと息を飲み、黒刃は弄んでいたナイフを床に落とした。カランと乾いた音が部屋に響く。
「メールを見て、あなたは長谷川氏が自分を裏切ったと感じた」
「ち、ちがう! オレは……」
黒刃はひどくうろたえ、せわしなく視線をさまよわせる。観察するように黒刃をじっと見つめた後、ベテラン刑事は岸川大輔に向き直った。
「被害者は、引っ越しを考えていた」
大きく目を見開き、岸川は苦しそうに浅い呼吸を繰り返す。
「メールを見て、あなたは長谷川氏が賃貸契約を解除すると思った」
「ち、ちがいます! 私は……」
岸川は強いストレス反応を見せ、シャツの第一ボタンを外した。他の二人の様子を見た忍が若干余裕を取り戻し、ベテラン刑事に言った。
「……つまり、私たちにはみんな、動機があるってことね」
ベテラン刑事は大きくうなずくと、鋭い視線で三人を見渡した。
「犯人は、この中にいる」
ごくり、と誰かが唾を飲む音が聞こえる。三人の顔は一様に青白く血の気を失っている。沈黙を厭うように、忍がやや引きつった笑いを浮かべて口を開いた。
「ま、待ってよ。確かに私たちには動機があるかもしれないけど、そもそも事件当日、ここは窓も玄関も鍵が掛かっていたんでしょう? 犯人はどうやってここから出たって言うの? それが説明できなきゃ、動機なんて意味ないわ」
忍の言葉を受けて、岸川が早口でまくし立てる。
「そうですよ! 長谷川さんを発見したとき、私は確かに玄関をスペアキーで開けて入りましたし、窓も鍵が掛かっていました!」
「密室の謎を解かない限り、犯人は逮捕できないぜ、刑事さんよ」
黒刃がくっくっくと喉を鳴らす。しかしベテラン刑事はどこか憐れむような瞳で小さく首を振った。
「その謎は、すでに解けている」
三人は硬直し、ベテラン刑事を見つめた。ベテラン刑事は三人を見つめ返す。そしてゆっくりと、諭すように、三人に告げた。
「……ここは、密室ではなかったんだ」
岸川が怪訝そうに眉を寄せる。
「ど、どういうことですか? 玄関にも、窓にも鍵は掛かっていた。私の証言が嘘だとでも言いたいのか!?」
「いいえ。あなたが嘘を言っているとは思っていません。確かに玄関にも窓にも鍵は掛かっていた。しかしそれこそが、犯人が仕掛けた巧妙な罠! 我々はまんまとミスリードされ、犯人が作り上げた心理的密室に囚われていたのです!」
「し、心理的密室!?」
黒刃が驚いたような、よく理解できないような声を上げる。ベテラン刑事は大きくうなずいた。
「玄関も窓も施錠されていれば、そこは密室。その先入観が我々の目を曇らせた。しかし虚心に、目に映るものだけを見つめれば、自ずと答えはそこにあった」
そしてベテラン刑事は顔を上に向ける。その場にいる全員が、釣られたように顔を上げた。冬の澄み切った青空が目に飛び込んでくる。
「……この家には、屋根が、なかったんだ」
言葉もなく一同は空を見上げる。一羽の鳶が空を渡り、彼方へと消えた。
長い、あるいはほんのわずかの沈黙の後、ベテラン刑事は人差し指を天に掲げ、ある人物に向けて鋭く振り下ろした。
「犯人は、あなただ!」
「仕方なかったのよ!」
服部忍は固く目を閉じ、崩れ落ちるように膝をついた。黒刃に向けた指をそっとずらし、ベテラン刑事は静かに問いかける。
「どうして、こんなことを?」
「……彼を、愛していた」
忍は彼を、長谷川を愛していた。長谷川も自分を愛していると信じていた。しかしあの日突然送られてきた別れを告げる短いメールは、彼女の希望も、未来も、プライドも何もかもを粉々に打ち砕いた。彼女は嘆き、戸惑い、混乱し、気が付けばナイフを手にこの家を訪れていた。
「犯行後、どうやって外に?」
若手刑事が素朴な疑問を口にする。忍は目を伏せ、かすれた声で答えた。
「私の家系は伊賀の血筋。壁を飛び越えるなど造作もないわ」
なるほど、と若手刑事は納得したようにうなずく。入れ替わりにベテラン刑事が口を開いた。
「あなたに届いたメールは、あなたに別れを告げるものではありません」
ベテラン刑事は感情を抑えた声で忍に告げる。それはともすれば残酷な響きを帯びているように聞こえたかもしれない。忍は信じられぬと言うように、目を見開き、ベテラン刑事を見据えた。
「……嘘」
「いいえ、嘘ではない。あのメールは本来、黒刃さんに送るものだった。くだらないケンカは終わりにしようという、仲直りのためのメールだったんです。しかし長谷川さんは誤って、BCCにあなたと大家さんを設定してしまった。あなたのところに届いたのは、誤送信だったんです」
忍が呆然と表情を失い、力の抜けた手がこつんと床を打つ。やがて忍の押し殺した嗚咽が部屋に広がった。今まで沈黙を守っていた長谷川健一が彼女に近付き、その背にそっと手を当てた。
「罪を償うんだ。私はずっと、待っているから」
その言葉を合図に、堰を切ったように忍は大声で泣いた。とめどなくあふれる涙が床を濡らす。ベテラン刑事はやりきれなさをこらえるように口を結び、ふたりを見つめていた。
「悲しい、事件でしたね」
若手刑事は複雑な表情で空を見上げる。冬の太陽は気忙しく傾き、すでに空は茜色に染まっていた。
「……ああ」
ベテラン刑事は短くそう答えた。もし長谷川がメールの誤送信をしなかったら、忍が長谷川にメールの真意を問い質していたら、この家に屋根があったなら――こんな悲劇は起こらなかったかもしれない。
「罪は、償えるさ」
ベテラン刑事は夕日を見つめながら、ぽつりとつぶやくように言った。それはきっと彼の願いであり、希望なのだろう。たとえ太陽が沈んでも、空には星が瞬き、月が世界の照らすのだ。世界は決して闇に沈むことはない。
若手刑事はベテラン刑事の横顔を見つめる。やりきれないたくさんの事件に傷つき、それでも人を信じる男の姿がそこにあった。
「……帰るか」
若手刑事を振り向き、おお寒い、と言いながら、ベテラン刑事は部屋を後にする。若手刑事は慌てて彼の背を追った。
さて、ミスターレッドラムから名探偵諸君に最後の問題だ。
この物語には明らかにおかしいところが存在する。
それが何か、果たして分かるかな?