希望
化け物が一歩前に進む。床に散らばった瓦礫を踏みしめる音がする。
その小さな音ですら、チェチーリアにはひどく恐ろしいもののように聞こえた。
ひどくゆっくりと近づいてくる。
教会内には既に、化け物に対峙しようという人物は残っていなかった。
それは彼女の目の前で立ち止まる。
潰れた顔で、彼女の顔を覗き込む。
『みつけた。そこだ―――』
不快な声だ。下水の底にへばり付いたヘドロのような粘着質。
化け物の触手が、チェチーリアへ伸びる―――絡みつく。
その直前、咄嗟に、抱えていたヴィクターを床へ下ろしていた。
彼を自分への攻撃へ巻き込むわけにはいかない。
―――彼を手放した瞬間、自分の胸に空白が広がったような気がした。
触手は、彼女の四肢をじわじわと締め上げる。
腕が軋む。鬱血した腕の先が痺れてくる。感覚が遠のく。
脚が締め付けられる。筋肉が圧断されるのを感じた。
化け物は、苦しむチェチーリアを自らの目前まで近づけた。
触手をなんとか外そうともがいている彼女の顔の近くに口を寄せ、囁く。
『いいぞ……。目は見えずとも、感じる!貴様の苦痛、絶望、恨みが……!
実に心地よい!さあ、もっと苦しんでくれ……!』
愉快そうに開くその口からは、異臭が漂う。
首元の触手が急に絞まる。
ぐっ、という声を漏らし、首に絡まる触手を外そうとするが、彼女の腕は締め付けられ続けた影響で、自由に動かすこともできない。
意識が落ちる―――。その寸前に、巻き付いていた触手が急に緩んだ。
チェチーリアは、咳き込みながら空気を貪る。
大きく息を吸い込み、涙が浮かんだ瞳で、化け物の方に目を向けた。
化け物は、まるでそれが見えているかのように醜悪に笑う。
再び触手で首を絞め上げる。無様にのたうつしかできないチェチーリアを弄ぶ。
その後も、何度も首を絞めては緩めることを繰り返す―――。
ヴィクターは、ぼんやりとした視界の中、混濁したまま、意識を取り戻す。
今まで、暖かな何かに抱かれていた気がしたのだが、それが急に無くなってしまった。
体中が重たくて冷たい。
―――俺は、一体どうしたんだろう?
ヴィクターの体は出血がひどく、その意識は朦朧としていた。
定まらない視界の端に、チェチーリアの姿が見えた。
―――ああ、チェチーリア。僕の体がおかしいんだ。どうかしたのかな?
言葉を発そうとするが、それは意味のある発音とはならない。
そして彼は気付く。彼女の異変に。
彼女は異形の怪物に、縛り上げ、吊るし上げられていた。
彼女は苦しそうにもがいていた。
―――大変だ。チェチーリア。今助けるよ。
ヴィクターは、欠けた長剣を杖にして、ゆっくりと立ち上がる。
足元がふらついた。床に数滴血痕が散る。
ただ立ち上がっただけなのに、息が上がる。力が抜け、へたり込みそうだ。
それでも、彼女を救うために踏ん張った。
彼女を拘束する、醜悪な化け物へ、欠けた剣を引きずり、徐々に近づいてゆく。
……チェチーリアも、化け物も、近寄るヴィクターには気付かない。
ついにヴィクターは、化け物を攻撃圏内に収める。
小さく震え、いう事を聞かない体に鞭を打ち、剣を高く掲げる。
その瞬間、拘束されているチェチーリアと視線が合った。
彼女は、驚いたようにヴィクターを見る。
ヴィクターは、微笑む。
化け物の胴体ど真ん中―――水晶を抱くその位置へ、真っすぐ剣を突き立てた。
化け物は、耳を聾する程の絶叫を上げる。
『貴様、何を―――!?
私は、負の感情……絶望、敵意、恐怖を完璧に感じることができる!その負の感情を破壊してやることができるのだ!!
だのに、貴様は何故、私に剣を突き立てることができたのだ!?』
理解できないといった風に愕然とする化け物に、ヴィクターは、確かな表情で答える。
「今俺が感じているのは、絶望や恐怖じゃない……。
チェチーリアが危なかったから助けたかった。それだけだ」
『馬鹿な……。絶望!敵意!恐怖!それ無しで私に挑み、傷つけるなど……。
そんなことはあってはならない!人間の本質は、負の感情のはずだ!!』
「そうかもな。ただ……。今ここで一番確かな感情は、誰かを助けたいと思う気持ち……。
すなわち愛だ」
ヴィクターは、そう呟くと、突き立てた剣を捻る―――。
化け物の体内で、水晶が割れた音がした。
『き、貴様、よくも私の水晶を……くそ、魔力が、制御できないっっ!!』
化け物の魔力源である水晶が破損した。
体内で、行き場を無くなった魔力は暴走を起こす。
なんとかそれを押さえようと、化け物は自分の体を掻き抱く。
チェチーリアを縛っていた拘束も解かれた。
宙に放り出された彼女を受け止めようと、何とか彼女の下に滑り込む―――。
満身創痍の体で上手く動けるはずもないが、ひとまず下敷きになることで彼女を受け止めることができた。
苦し気に咳き込むチェチーリアだったが、ヴィクターを認めると、強く抱きしめた。
腕が痺れている。しかし、ヴィクターに撫でられたところから、痛みが引いていくような気がした。
『……この野郎おぉっっ!!私を、私をコケにしやがってえぇぇぇ!!!
私は、貧民窟からようやく這い上がったんだ!!変態教皇にも耐えた!!私が教団をここまで育て上げたんだ!!!
なのに……それが!!ぽっと出の貴様らの、愛だ!?助けたいだ!?
そんなものに私の築き上げてきた物が崩されるのか!?
ふざけるなっっっ!!!私の憎しみで、怒りで!絶望で!!貴様らを塗りつぶしてやるっっ!!!』
化け物が―――。
いや、魔力が抜け、人の姿に戻りかけているナサニアが、最期の力を振り絞り、ヴィクター達に殴りかかってくる。
チェチーリアは目を伏せる―――。
正面を向く。
棍棒を正眼に構えた。
「貴女にも、貴女の正義があるのでしょう。
でも……。私達にも、私達の信じる正義があります。
これもエゴなのでしょうね……。
しかし、譲れないものなのです。貴女を倒し……、この騒動に、ケリをつけますっ!」
無策にも、一直線に殴りかかるナサニア―――。
勢いを合わせ、棍棒を思いっきり降り抜く。
赤い花が咲く。
―――いつしか教会を覆う結界は晴れ、青空が澄み渡っていた。