軍猪
猪房の近くまで近づくと、うずくまっていた軍猪・ジェサレットがのそりと立ち上がった。
相変わらず巨大で、物凄い威圧感だ。
ヴィクター達を値踏みするようにぎろりと睨め付けるが、そこにチェチーリアの姿を認めると、一転人懐っこく鼻を鳴らす。
チェチーリアは、微笑を湛え、近づいてゆく。
喉の下をくすぐると、ジェサレットは嬉しそうに体を揺する。
厩務員・ムクタルは肩を竦めて、ヴィクターに耳打ちする。
「何でか知らんが、このでっかい猪は姫様にしか懐かないんだ……。
高貴な気配ってのが分かるのかな?」
ジェサレットに餌をやり、猪房から運動のために連れ出す。
その巨大な軍猪は、逆らうことなく大人しくついてきた。
ムクタルはヴィクターに念を押すように言う。
「分かってると思うが、一人でこいつを猪房から出すなよ。
こいつが従ってるのは姫様だからで、並みの厩務員だと舐められて怪我するぜ」
「……忠告されるまでもなく、こんなおっかない猪を檻から出そうとは思わないので大丈夫ですよ」
それからしばらく、チェチーリアはジェサレットに乗り、厩舎の周りを軽く流す。
馬具のような補助具は装着せず、背中にひらりと飛び乗っただけで走り出した。
軽く、とは言え、巨体が疾走する様はそれだけで迫力があり、足が地面に着くたび軽く揺れる。
厩舎の周囲を3周したところで、ヴィクター達の所に戻ってくる。
ジェサレットは汗一つ掻いておらず―――実際は剛毛に覆われ、よく分からないのだが―――、息も上げずに涼しげな顔をしていた。
「いや、あの速さで3周して平気な顔をしてるとは、さすが姫様の猪だぜ」
ムクタルは感心したように頷いている。
「ええ。久しぶりに走ったので気持ちよかったです」
チェチーリアは、まるで自分が褒められたかのように自慢げな顔をしていた。
ジェサレットの背からひょいと飛び降りる。
そのまま頭を撫でると、ジェサレットは気持ちよさそうに目を細めていた。
「ふむ。軍猪の疾走はいつ見ても迫力があるもんだ……。
まあお前は立派な猪には乗れないだろうからな。そうだな。馬房で一番とろい馬から始めるか」
ムクタルは、横にいるヴィクターに話しかける。
「そうですね……大人しい奴でお願いします」
頭を下げるヴィクターに、チェチーリアが不思議そうに尋ねる。
「??ヴィクターさん。何を始めるんですか?」
「ああ、姫様。こいつはね。元騎士のくせに馬に乗れないって言うもんだから。
ちょいと俺が教えてやろうってことになってまして……」
「ええっ!?馬に乗れないんですか!?」
チェチーリアは、心底驚いたという風にヴィクターを見る。
メラムトオーク族の中では、馬に乗れないという人はほぼいない。狩りが生活様式の基本であるオーク族にとって、移動手段である乗馬は必須技能と言ってよかった。
それでなくとも、ヒトの騎士とは、甲冑を纏い騎乗しているような印象を抱いていたチェチーリアにとって、ヴィクターが馬に乗れないということは衝撃と言うほかなかった。
「え、ええ。ちょっと、室内の仕事が多かったものですから。その、あまり乗る機会が無くてですね……」
気まずそうにヴィクターが弁解する。
「まあ、そういう事だから、俺が乗馬の仕方を教えてやろうとなった訳だ」
ムクタルが胸を張り、にっと笑う。
「なるほど……」
チェチーリアは頷いた。
「さあ、じゃあ、馬具を持って馬の所に行くか―――」
ムクタルが、馬具を提げ歩きかけると、厩舎の管理人から声を掛けられる。
「あ、おいムクタル。ちょっと来てくれ」
「なんですか?ちょいとこいつに馬の乗り方を教えてやろうと思ったんですが……」
「あーすまんな。ちょいと新しく仕入れる馬についての相談をしたくてな。悪いけどこっち優先で頼む」
「ふむ。おやじさんに言われちゃ仕方ないですな。
……という訳でヴィクター。乗馬の練習はまた今度に―――」
ムクタルがそう言いかけると、傍に居たチェチーリアが意を決したように声を上げる。
「いえ……ムクタルさん。こうなれば、私がヴィクターさんに稽古をつけて差し上げます!」
「え!?姫様が!?」
「いけませんか?……一族の姫とは言え、他種族の方との交流も必要なはずです」
「いや……まあ。おやじさん。どうします?」
ムクタルは困ったように管理人に首を向ける。
「まあ……いいんじゃないか?エギンさんには、一応丁寧に扱えって言われてたからな。こいつもそこそこの立場があるんだろう」
「そうですか……じゃあこれ。問題は起こさないでくれよ?」
ムクタルは馬具をチェチーリアに手渡す。
「ええ。任せてください」
馬具を受け取ると、笑みを浮かべる。
そのまま、くるりとヴィクターに向き直る。
「さあ、ヴィクターさん。私と練習しましょうね!」
楽しそうなチェチーリアの笑顔に、一瞬どきりと胸が高鳴った。
「え、ええ。よろしくお願いします。」
ぎこちなく笑みを返す。
「練習用のとろい馬は、あっちの方にいるぜ。見れば分かると思うが……」
ムクタルは、馬房の東の方を指差す。
「分かりました。さあ、ヴィクターさん。行きましょう!」
チェチーリアは、軽い足取りで東へ進む。
ヴィクターは慌てて追いかける。彼女の後を追うと、微かに花の香りがした。