袋の鼠
バジルは馬を駆り、追手から必死に逃げる。
しかし、真夜中ということもあり、視界が利かない。その上、がむしゃらに逃げていたこともあり、道の悪い森の中に突っ込んでしまった。落ち葉が積もり、木の根がそこかしこに露出している地面では、騎乗ではうまく走れない。
焦りを覚え、振り返る。
しかし、視界にあるのは、墨をぶちまけたような一面の闇だ。敵の位置が分からない不安は、毒のようにバジルの心を蝕む。
そこにも、ここにも、追手がいるように感じる。
心拍数は上がり、呼吸が早く、浅くなる。舌を突きだし、口で無理やり空気を貪った。
叫び声を上げそうになる自分を抑え、何とか走り出そうとする。
―――と、顔の横を風切り音が通り過ぎて行った。
頬に手を当ててみると、手のひらに血が着いた。
たまらず叫び声を上げ、馬の腹を蹴る。
しかし、当然というか、道が悪いので、速度はそう出ない。
くそっ、早く走れ、早く走れ!早く走れ!!!
焦る気持ちとは裏腹に、一向に前に進まない。
底なし沼に捕まって、沈んでいくような錯覚さえ感じた。
その一瞬後、追いついた追手たちによる一斉射撃が始まる。
まず、的の大きい馬に、数本の矢が食い込んだ。
馬は、悲痛に嘶き、身を捩る―――
バジルは地面に投げ出された。
背中から叩き付けられ、肺の空気が絞り出される。
しかし、痛みにかまけている暇はない。
慌てて立ち上がろうとする―――
バジルの視界いっぱいに、猛烈な勢いで突進してくる馬体が見えた。
馬の前脚がバジルの顔面を捉える。
首が無理な角度でひん曲がり、生木をへし折るような音が響く。
下顎骨が粉砕され、ついで延髄が破壊される。
前脚は奇麗に振り抜かれ、真後ろへ吹っ飛ばされる。
倒れた彼から鼻血が噴き出す。
延髄にある中枢神経が裂断され、生命維持機能を喪失したバジルは即死した。
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岩陰で息を潜めていたヴィクター達は、襲撃者たちの異変に気付いた。
明らかに人数が減っている。
ついさっきまでと比べ、気配が半分以下になっている気がする。
バジルが陽動をしてくれたのだろうか?
であれば、この荷物は捨てて、逃げ出した方が良いのだろうか?
ヴィクターが逡巡していると、グギを始めとしたエウロス社社員たちが、口々に逃げることを提言する。
「だ、旦那、敵が少なくなってる内に逃げちまいましょうぜ……!命あっての物種でさあ。とりあえず逃げて、お上へ報告しなきゃいけませんし……」
ヴィクターは同意する。
確かに、麻薬は、命を懸けてまで守る価値があるとは思えない。
「ああ、分かった……。奴らがなぜ監視を薄くしたかは分からないが、これはチャンスだ。いつ相手が戻ってくるかも分からないし、さっさと逃げよう……行くぞ!」
一応、一同は上着を脱ぎ、中に草や葉を詰めて、人が居るように置いておいた。
よく見られればすぐバレてしまうような子供騙しだが、こんなことで時間を取っているわけにはいかない。
姿勢を低く保ち、岩陰からそっと這い出る。
そのまま、静かに進む。
5分程度、じりじりするような時間が過ぎていった。
後ろを振り返ると、まだ幌馬車が大きく見える。周囲にばれないよう、ゆっくりと進んでいるため、思いのほか進めていないようだ。
少しづつ進んでいると、緊張が否応なく高まってくる。
緊張は高まるが、この場所からは中々離れられない。
だんだん緊張の糸が切れかけてくるのを感じる。
周りを確認すると、他も同じような顔をしていた。
緊張に耐えかね、過呼吸になっている者もいる。
呼吸の音が大きく聞こえ、ばれやしないかと心臓の鼓動が大きくなり、その音でばれやしないかと、さらに緊張が高まる。
極度の緊張が一同に走る中、ついに、緊張の糸が切れた者が現れた。
エウロス社社員の一人が、不意に立ち上がり、叫びながら駆け出す。
叫んで、とにかく動かなければ不安で仕方がなかったのだろう。
だが、その姿は、襲撃者たちの注目を集めるに十二分すぎた。
ヴィクター達が逃げ出したのを知った襲撃者たちが、こちらへ駆け寄る気配がする。
「くそっ……こうなったら仕方ない!各自、全力で逃げるぞ!!」
ヴィクターは、腰を浮かし、中腰で森へと走る。
少しでも援護物が多い森へ飛び込めば、隠れてやり過ごせるかもしれないと思ったのだ。
しかし、相手の方が一枚上手であった。
今のヴィクターに知る由もないが、オークの隠密部隊は襲撃前に、十分に夜目を慣らしていたのだ。焚火をずっと眺めていたヴィクター一行と比べ、どちらに分があるかは明白だった。
襲撃者は、叫び、駆け出したエウロス社社員には目もくれず、ヴィクターを探し当てた。
黒い影が、ヴィクターを取り囲む。
そのとき、初めて、襲撃者がオーク族であることに気づいた。
「動くな……マズトン騎士だな?」
襲撃者が、低い声で問う。
肌は泥で漆黒にカモフラージュされており、両眼だけが金色に輝いている。
ヴィクターは、観念したように呟く。
「ああ……そうだ」
自分は、これからどうなるのだろう?と自問した。
自ら望んだことでは無いにせよ、不正に関わってしまっていたのだ……
悲惨な最期になるのも仕方ないのかもな、と捨て鉢な気持ちになった。
「貴様には、我が主の元へ向かってもらう……しばらく眠っていろ」
襲撃者は、ヴィクターの頭に麻袋を被せる。
視界が奪われる。
と、首筋に衝撃が走る。
ヴィクターの意識は飛んだ。