おとなしくしてないと、純潔を奪われちゃう
「私は特殊部隊の隊長を務めていた、と言ったでしょう。通常の陸、海軍とは違って、特殊作部隊の戦略目標というのは、実に多様なのです」
「そこに繋がるんだったのか」
「純粋な軍事もそうですが、たとえば人質の救出や、通常軍を援護する攪乱作戦や、あるいは第三国の紛争を収めて味方につける工作なんかもします。今回の平和構築もその一つです。そして、現地の状況は目まぐるしく、かつ複雑に遷移します。いちいち本国や上官の指示を仰ぐヒマはありませんし、またそのための情報もあちらにはありません。自らどんどん計画を修正していって、リアルタイムで実効的な作戦を創造し、そして実行します」
「結婚の話だよな?」
「結婚の話です」
「つまりこの船に乗ったのも、その実効的作戦か」
「やだなあ、無差別な人質をとって私を脅して、無理やり拉致したくせに。部屋で二人きりになった時も、とても怖い思いをしました」
「………………」
「おとなしくしてないと、純潔を奪われちゃう」
「…………………………」
ジークは無言でデスクに肘をつき、大きな両手で顔を覆った。
ペンが力なく、ころころと机上を転がる。
エルスはソファの肘掛けに体をもたせかけ寛ぎ、そんなジークの様子をたっぷり眺めて味わった。
(うーん、可愛いんだよなあ、この人)
7回の脱走で彼について分かったことの、ひとつ。
あの慇懃で冷酷な態度は、対「敵」用の仮面だった。本来の彼を、隠すためのもの。
隠したい、本当の彼。
海に落とされたとき見せた、むきだしの顔。
燃えるような純粋な怒り。
真っ直ぐ過ぎるほどの、直情。
落とされたあの海中で、ようやくエルスは彼に「会った」と思った。
あの時、初めて、本当の意味で出会えた。ジークに。
会って、そして--、気づいた。
どうして自分があんな乱暴な狂言までして彼を暴きたかったのか。
いつも見え隠れしていた彼の本性が、なぜあんなに気掛かりで、なぜあんなに心が波立っていたのか。
彼が誰だと期待していたのか。
自分の中に生まれていた「余分な情報」。
脱走して船を探ったら何食わぬ顔で部屋に戻っていればいいのに、なぜ毎回、わざわざ彼に見つけてもらおうとするのか。
どうして彼のことを、こんなにも知りたいと思うのか。
けれど彼は、エルスの告白をまったく真に受けていない。
ものすごく胡散臭そうな、疑わしい、不審な、警戒する目を向けられただけだった。
そのジークは今は、演出を暴かれて身の置き所なく顔を覆ったまま、地の底から這い出てきたかのような絶望的な溜め息を、重く吐いている。
ここで鉄面皮を保てない人なのだ。
エルスは嬉しくなる。なぜだか。
彼の耳は今、赤くはなってはいないだろうか?
やや長めの髪とその影とで、よく見えない。デスクとソファとの距離は、3メートル。ちょっと遠い。
切らなくても縛らなくてもいいけど、その漆黒の髪に手を伸ばして、搔き上げてはみたい。
そう感じている自分に、エルスは驚く。感動さえする。
「ねえジーク、私、あまり良い捕虜とは言えませんね」
エルスは立ち上がって、近づき、彼の肩にそっと手をかけてみた。
ジークは両手から顔を上げない。触れた瞬間ぴりっと肩の筋肉が反応したけれど、じっとしている。
エルスはついでに、机上の書面にもさっと目を走らせる。
その紋章にも筆跡にも、見覚えはなかった。
「こうやってまた部屋の錠を壊して、あなたの部屋に遊びに来たり。全然、おとなしくしていないけど、…………」
最初の日に彼が自分を恫喝した時と同様、エルスも彼の耳元に唇を寄せた。これもまた、ある意味恫喝だろう。
囁く。彼を真似て。
優しく、低く、耳に響かせて。
「どうしますか?」
ぱっ、とジークがエルスの手を払った。
「部屋に戻れ」
唸るように命じる。顔が怒っている。
払われた手を降ろして、エルスはその場にただ、立つ。
やや遅れて、失敗したのかな、と思う。
そう、ちょっと浮かれすぎだったかもしれない。脳に、昂揚する物質が出ているのだ。
「ごめんなさい」
エルスは謝罪した。
触れたい、近づきたい、こちらを見てほしい、という感情に、行動の制限ラインを自分に甘く見積もった。
これでは犯罪者と同じだ。そうしたいからそうする、なんて。
三歩、下がる。距離をとる。
「もうしません。不愉快な思いをさせてしまいました。勝手に触れたりして、どうかしていました」
「いや、それは……」
ジークは途端に口ごもる。
「こちらも、潔白ではない。あなたの言うとおり、最初の日に怖い思いをさせた。効果があると判断したからだが、卑劣な行為だ。いや、そうじゃないだろ。そういう話じゃない。なんなんだ」
エルスはわずかに首を傾げた。
彼の意図が汲み取れない。謝罪は受け取ってもらえていないようだ。
「とにかく……、部屋に戻ってくれ。頼むから。謝る必要はない。手を叩いてすまなかった」