だが確かに、彼の仕草にはいつも、そう表現してもいい礼儀正しさと品があった。
相手国には、王子が3人いる。
第1王子が王太子で、次期王となる予定だ。
第2王子は兄とともに王の補佐を務めている。この2人は20代。
次の第3王子がぐっと離れて、まだ8歳。
エルスの結婚相手は、第2王子だった。
さすがに王太子に嫁がせて、のちのち一国の王妃にするわけにはいかないのだろう。生まれた子がさらに次の王になる可能性が出てきてしまう。
「王国」とはいえ、王や貴族に政治的な実権はほぼないが、それでも国民にとっての存在感は大きい。
かつて彼らが「王国」としてまとまる時に、複数の国の王統から平等に、ということで交互に「王」を戴いた。
年月のうちに今は一統のみが王位を継承し、民の尊崇を集めているという。
テンス共和国側としては、血統を重んじるあちらの感情を刺激するつもりはない。
第2王子を差し出しただけでも誉めてやるべきだろう。
それに国民人気は、自由闊達な性格の第2王子のほうが高い。
エルスと第2王子との間に生まれる子供は、両国国民の祝福を受けるだろう。
ふたつの民は、もとはひとつの種だった。
けれど長い歴史の間に、互いに忌避と偏見と劣等感と傲慢、何より恐れが深く根ざしている。
その確執に翻弄され波乱の少女時代を送ったエルスは、血の歴史を終わらせたい。そのために軍に入った。
両者の血を継いだ子は、きっと次の世代を動かす。未来を。
王子と会った事はないが――停戦調印の席には、首相や軍の総督らだけで、王族は来ない――情報では好人物である。
互いに生殖機能も動作正常。
古式ゆかしく、手紙のやり取りだけが何度か交わされた。
王族が各自持つ紋章入りの用箋に、流れるような筆跡。明朗な人柄が伝わる文面。
王侯貴族でも、若い世代には政治的な気運が高まっており、テンスへの差別意識も薄いと聞く。新しい世代の人だと感じた。
両者が恋愛感情を持てて自然妊娠ができれば、それが理想的ではある。
「ジーク、マストに付いているあの部品は、何に使うの?」
エルスがすらりと真っ直ぐ腕を伸ばして指差すと、ジークは渋面で振り向いた。
グレイがかった青い目が細められ、眉間に皺が刻まれる。
船の周囲は見渡す限り、海と空だった。島影すらない。
「またか」
「またです」
エルスはにっこり微笑み返す。
甲板は潮風が強くて、互いの髪が強くはためく。
彼の顔にかかった長めの前髪が、軍属にあるエルスには、非常に邪魔くさいもののように思える。
(切るか縛るかしなさい)
士官学校の服装検査のようなことを思って、エルスは意図的でない笑いを漏らしてしまう。
その笑いに反応してか、ジークは荒々しくエルスの二の腕を摑み、船室に引っ張って行こうとする。
エルスはその手から手品のようにするりと逃れた。
ジークが、からになった手の平を見つめる。
エルスはにこりと微笑む。両者の距離はすでに3メートル離れている。
ジークはひとつ溜め息をつくと、初日と同じ丁重な口調と、高圧的かつ穏やかな態度を取り戻した。
それが彼の「外交」に過ぎないことは既に分かっている。
「失礼、手荒な真似をした。きちんとエスコートするので、お戻り願えるだろうか。そして錠はもう壊さないでほしい」
監禁するのにエスコートも何もないものだ。
エルスは内心苦笑する。
だが確かに、彼の仕草にはいつも、そう表現してもいい礼儀正しさと品があった。
「エスコート」されたのは、これまでに6回だ。
周囲にはすでに他の船員たちが集まっていて、エルスから距離を取って囲んでいる。
しかし7回目とあらば、緊張感は薄れている。
エルスは彼らに向かっても、微笑みかける。すでに顔は全員覚えた。
ねえ、ジークってひどくない? という気軽で親しげな微笑みだ。
構えは変わらないが、幾人かの面持ちは、すこし緩む。
エルスはそれを覚えておく。
「あの部品はなに?」
エルスは再度、対峙するジークに訊く。
「答える必要はない」
「知らないのね。あなたは少なくとも、海賊か海軍ではないということでしょうか?」
たとえ知っていても、彼の返事は同じだっただろう。
そもそも最初に見たときから分かっていた。肌が海の焼け方をしていない。
だからこれは、単なる挑発なのだ。
6回の脱走及びエスコートで、彼について分かったことがいくつかある。
そろそろ、彼から別の新たな情報を引き出したい。
ジークは表情を変えなかった。
変えない、ということが一つ情報として追加された。
自制的である、という情報の精度が上がったに過ぎないが。
彼は相変わらず、ゆったりした鷹揚な態度のまま、冷たい印象の唇をひらく。
「こちらは民間人を人質にとっている。そのことをお忘れなきよう、カレンズ大佐。合図があれば先日の町と言わず、どこの港、どこの島の人間も人質になり得るのだ。
あなたにはこれは単なる遊びなのだろうが、そのために罪もない人間を死なせたくはないはずだ。無血を掲げる誉れ高き十隊隊長の功績に、それに、聖女の名に、傷がつくのでは?」
「私も人質をとっています」
エルスは今度は冷たく微笑んでみせた。
目が笑みの形に細められると、菫色の瞳に影が落ちて、わずかに暗さを増す。
「人質? どこに?」
「私です」
ジークは沈黙する。
だがそれは「黙っている」のではない、たぶん「詰まった」のだ、とエルスは観察する。
「私を傷ひとつ付けず返さなくてはならないでしょう。でも私は、自分のせいで民の血が流れるなら、死を選びます。私のせいでせっかく成った平和停戦が覆るくらいなら、自害します。花嫁の代わりはいくらでもいる」
「あなたに矜持があるなら、なおのこと自害などするはずがない」
「私の矜持の在り処を、あなたごときが知っていると言うのですか。初日に言いましたね、殺せと」
「――――大佐の波形は分析済みだ。港で分かっただろう、何かしようとしても無効化させてもらう。いや――、待て。この話はここまでだ。こちらとしてはおとなしく船室で過ごしていてくれればいい。なぜあなたが自害するしないの話になっている」
「人命で脅してきたのはそちらです。私が生きている限り民の血が脅かされ続けると言うのなら、本望です。命はとうに捧げた。
そしてそちらの技術では、表出した外部現象にしか及べないはず。ノータイムの内部干渉の式までは認識できない。体内の液体を沸騰させて膨張させ、弾け飛ぶ。死体は見慣れていますか? そうであっても、ちょっと忘れられない光景になるでしょう」
「張ったりだ」
「かもしれません」
微笑んでそう言うと、エルスの全身は次の瞬間、炎に包まれた。