エルスは、恋というものをしたことがない。
「さて、本題だが」
ハウザー事務総官は飲み干したグラスをテーブルに置いた。
「例の件、やはりうちではない。潜伏していた輩と昨日接触があって確認したが、どうもあちらではないかとのことだ。こちらは低位の構造式を使ったが、咄嗟に素手で払ってきたそうだ」
エルスは頷いた。
接触があった、などという言い方をしているが、わざと仕掛けたのだろう。たちの悪い一般人が喧嘩をふっかけたようにでも装ったか。
テンスの民と違って、あちらは構造式を先天的に扱えない。後天的に学ぶのだが、よほど訓練された者でなければ、反射的には出ない。
フェイに「安全確認は入念にされている」と言ったのは、それは噓ではなかった。ただ「入念に確認した結果、危険が予測されている」とは、伝えなかった。
「次の中継地点でおそらく襲撃がある。きみを拉致するか、殺害するか。目的は分からない」
「調印はもう済んだのに、まだ停戦を受け入れない者が、あちら側に存在するということですか。それもそんな組織レベルで。うちの軍部の過激派だとばかり思っていましたね」
「そっちはダリルが上手くコントロールしてる。あいつには汚れ役になってもらうが……」
「殺されますよ、民衆に、この後」
「かもな」
研ぎ澄まして貫かせた視軸を、ハウザー事務総官は軽くいなした。
「否定してください」
息子のようだと言った口で、彼はあっさり切り捨てる。
子供の頃、エルスと生き別れになって放浪していた弟を軍に拾い上げたのは、彼だ。当時自身が副隊長を務めていた精鋭部隊で保護し、能力を認めると、まだ少年だったにもかかわらず戦地に同行させた。ダリルは弱年ながら次々と目覚ましい軍功を上げ――、その後の「英雄」街道は周知の通りだ。
ハウザー事務総官はその後負傷により一線を退いたが、良くも悪くも人目に立ち過ぎるダリルの軍内における「保護者」としてあり続けた。
そんな彼の事を弟はいつも煙たがるように言うけれど、入軍時に元の姓を捨てた際、代わりにつけたのは「ハウザー」の姓だった。その彼が今は、
「あいつが選んだことだ。『首輪』の件もな。英雄の名は今後、地に落ちる」
すでに終わったことのように言う。エルスは目を眇める。
「あなたこそ、このためにダリルの味方であり続けてきたのですか」
「それについては、きみと同じ答えだ。こうした使い道もあるとは、思っていた。最後の切り札として。――エルス、きみだって自分をそう扱っているだろう。ダリルがそうしてなぜ悪い。あいつは自分を最大限効果的に使おうとしているだけだ。だいたいあいつは英雄の名にも社会的地位にも執着がない。捨ててけろっとしているだろう。俺はあいつのことは心配していない。心配しているのは、きみだ」
「私? ああ、襲撃者の話でしたね」
「違う。きみは大丈夫か? 結婚の話だが」
「大丈夫です。英雄の名が落ちるというなら、それこそ聖女の名は、今が高値で売り抜け時です。話を戻しましょう、ハウザー殿。潜伏している人数は?」
「把握している限りでは25」
「たったの?」
エルスは微笑んだ。
「もちろん明日にはもっと増えているかもしれない。港などの出入りは引き続き見張らせるが、とにかく目的が分からない。あっちの内部で何か問題が起きているのか」
「あるいは私の素性がばれたとか? 実父のことが」
「だとしたら堂々と抗議してくる。自分たちに都合の良い条件をくっつけてな。きみとダリルの出生は少なくとも記録上は完全に抹消されている」
「ですね。うーん。あ、分かった」
「何か心当たりが?」
「いえ、あなたがご自分でここに来た理由が」
「頼めるか?」
エルスはワイン瓶に、つっと人差し指を滑らせた。いたずらっぽく菫色の瞳をあげる。
「頼み、なんですね?」
輿入れは、祝賀ムードを盛り上げるため、また顔見せを兼ねて、各地を訪問しながらゆっくりおこなわれることになっている。
つまり、時間的猶予がある。
「今回きみについている護衛は飾りみたいなものだ。断るなら今からでも増援を手配するが……フェイ・デイニは置いて来たんだろう? それと、あの男はなんだ? 民間人のようだが、彼も連れて行くのか?」
「彼はハラン・ディキンソンです。以前は従軍記者を。ご存知では?」
「ああ、彼か。いや、初めて見た。そうか、保険か。マスコミの目を連れて行くんだな」
「の、つもりだったんですが。え、なんだと思ってらしたんですか?」
「いや、ずいぶん雰囲気のある色男だったから。愛人を連れて輿入れするなら、まだしも心配は要らないと思っていたところだ」
エルスは吹きだした。冗談かどうかいまいちよく分からないが、言われてみれば怪しかったかもしれない。
確かに、彼は見栄えがする。「色男」だから選んだわけではないが、容姿は理由のひとつだ。
彫りが深いのにどこかあっさりと涼しげな造形、浅黒い肌、黒くうねる髪、深緑色の目。複数の民族の血が混ざっているとひと目でわかる。
彼が記事を書けば、両国がーー両種が交じり合う今回の婚儀の意義に、さらに説得力が加わるだろうと思ったのだ。
「私の好きなシャトー。私の生まれ年。すごい記憶力ですね」
「きみはザルだからな。あの夜はインパクトがあった。破産するかと思った。ダリルで知ってたはずなのに……」
ハウザーが暗い顔をつくったので、エルスは声を立てて笑った。
軍の何かの打ち上げで呑み比べが始まり、そこの飲み代は一番上席だった彼が支払ったのだ。全員を酔い潰して平然としているエルスが、優勝者に何がいいかと訊かれて所望したのが、ここのシャトーの白ワインだった。
細い指先を、水位にあてる。首から垂れたリボンに、水滴がついている。
「飲んじゃいましたしね。やりましょう。私も気になります」
「いや、これは祝儀だ。そんなつもりでは」
と、ハウザー事務官がエルスのグラスに注ぎ足すためにボトルを取り上げる。
そのとき、ふたりの指先がすこし触れ合った。
「結婚相手の候補には、私の妹も挙がっていた。考るそぶりすら見せずに、にべもなく断られたが。まったく自分のことばかりで……。きみにばかり犠牲を払わせて、本当にすまないと思っている」
「ふつう誰でもそうでしょう、当然です」
エルスはゆるやかに首を振った。
テンスの民は、ただでさえ自由と独立独歩の気風が強い。政略結婚なんてもの自体がそもそも非人道的で、論外だった。他の候補者もほとんどがそう言って断った。
「きみは?」
「私? 私は」
エルスは微笑んだ。
「両国の和平は、もとより私個人の本懐です。そのための結婚は誰がしても良かったですが、なり手がいないなら私でも構いません。私の目的は、もっとさらに未来にあります。強いられたとは思っていません」
それに、と心の中で付け足す。
さっきハウザーと、指が触れ合った。
触れたという事実は、ただそれだけであって、エルスの心を波立たせはしなかった。そのことに、エルスは今も少しがっかりする。
これほど好もしく慕わしいと思っていても、結局、そういう風には思えなかったなあ、と内心でひとりごちる。
エルスは、恋というものをしたことがない。
彼でだめなら、他のどんな男でもだめだろう。だから、王子でもいいのだ、エルスは。
誰もだめということは、誰でもいいということとは、全く違う。むしろ逆だ。
けれど、誰かでなければだめ、ということとも違う。他の候補者たちには、「誰か」がいたかもしれない。ならばエルスにお鉢がまわってくるのはやむを得ない仕儀ではないか。
「じゃあその頼みを聞く代わりに、私からもひとつ頼んでも?」
「聞けることなら」
エルスは微笑む。彼女の微笑みは、しばしば、内心と相反する。
「これをあけるまでは、ご一緒してくださいますか? お帰りの小型艇の燃料が心配になるほどには、付き合わせませんから」