乗船すると、彼はエルスの個室で待っていた。
テンス共和国軍大佐。特殊部隊第十隊隊長。そして『聖女』。
それがエルス・カレンズの主な肩書きだ。
王子の結婚相手の候補として、幾人かの名がリストアップされていた。代々政治家を輩出する名門の令嬢、才色兼備の外交官、格式ある伝統芸能の統主、などなど。
が、けっきょく停戦派メンバーのエルスみずからがその両国和平の象徴たる役目を担うことになった。
新興の共和制であるテンスに、ただでさえ気位の高い国の、まして王家に釣りあう家柄は存在しない。
ならば、神の権威をぶつけてはどうか。
エルスは庶民も庶民、地方教会の養女で、そのうえ本当の出自も来歴も実はかなり剣呑な身なのだが、聖教会のバックアップを受けて国内のみならず国外でも『聖女』として崇められていた。
聖女と言っても、教会に帰依した修道女でも、教会の奇跡認定があったわけでもない。ただのあだ名のようなものである。
しかし、民衆の人気は絶大だった。軍属でありながら無血を掲げ、それを実践してきた。
加えて、軍人とは思えぬ、たおやかな美貌。優雅な物腰。
厭戦の時流に乗って、名は揚がるところまで揚がり、誇大広告というよりもはや、まさに宗教がかっている。
王子の相手にエルス・カレンズをと先方に打診したところ、二つ返事だったという。
「このために『聖女』になっておいたのか」
ハウザー事務総官が、エルスのグラスにワイン瓶を傾けた。今回の停戦の主導者のひとり。
透明な薄玻璃に滑りこむきりっと冷えた白が、爽やかな香りをたてた。
船はすでに、海洋に出ている。小さな丸窓からは海と、カモメだろうか、白い鳥が飛んでいるのしか見えない。
いつまでも名残惜しそうに港で見送るフェイと別れ、乗船すると、彼はエルスの個室で待っていた。
椅子に腰掛け、まるで自室かのようにゆったりと足を組んで。シックな金のリボンを結んだ瓶を、携えて。
「こうした使い道もあるとは、思っていました。でも、まさか本当にこうなるとは。目的はやはり、軍部での発言力が第一義でした」
「ダリルがふてくされてたろう」
「結局最後まで反対してましたね。ありがたいことですけれど」
「あいつはなあ」
そう笑みを漏らす時の彼の表情が、温かげなものになる。その顔がエルスは好きだった。ふだん冷たい印象のある容貌が、「身内」を話題にするとき、ほどけるように寛ぐ。彼はその変化を知っているのだろうか?
グラスを合わせる。
「結婚おめでとう」
「ありがとうございます」
「と言って、いいのかな?」
「知りません」
少し拗ねた口調になるのを自覚した。
「きみはあいつの姉だから、私にとっても娘のようなものと言って言えなくもない。心配してるんだ」
「言えませんよ」
エルスは微笑む。娘だって?
ハウザー事務総官が、少し首を傾げる。「図々しかったかな」
「おいくつの時の娘ですか。歳の離れた兄、くらいでいいでしょう。感謝しています、いつもお心遣いいただいていると。今日も、こうして抜け出してきてくださった。影武者を立てましたね?」
ははっ、と軽く笑い声だけたてて、ハウザー事務総官は返答はしない。その笑い声が好きだと思う。抑制した口調が、ふいに崩れるのが。
船室は、二部屋ある。今いるこの居室に、寝室。化粧室と浴室もついているそうだ。それらはまだ見ていない。
エルスは壁の丸窓に目を遣った。
今はどの辺りだろう。燃料補給の中継地点まで、30時間。丸一日と、半。
到着は、明日の昼。
この船室で、夜を越し、朝を迎える。