もうすでに最終手段
「エルス?」
気遣わしげなジークの声が、彼の息遣いとともに耳をかすめて、エルスはびくりとする。
「大丈夫です」
エルスは震えそうになる声を押さえつけて、応えた。
彼に無用の心配をかけさせている。
「大丈夫です、子供のころ、縄で拘束は、されていませんでした。あの……、大丈夫です」
それでも声も体も、微かな震えを帯びている。
きっと、これほど近くなければ気づかれなかっただろうけれど、今は肌を伝ってしまう。
エルスは彼の目が見られなかった。
「そうか……? でも、さっきから凄く」
となお案じるジークの声が、その語尾で、にわかに何かにぶつかったような響きになった。
異質な沈黙。
ジークはエルスの頭から、ぎこちなく手を浮かした。
軽い咳払い。
「なら、良かった。ええと、体勢は辛くないか。一度楽な姿勢に……」
と、エルスが安定するよう、ジークがごそりと動いた途端、
「!」
エルスはびくりと体を跳ね上がらせた。
「つ、辛くありません! だ、大丈夫です!」
「し」
思わず大声を出したエルスの唇に、ジークが指を当てる。
「見張り塔に夜番がいるんだ」
厳しく目を覗き込まれ、エルスはその間近さに、さっと目を逸らす。
今度は、ふりではなく。
その仕草に、ジークが固まる。
エルスの唇に当てたままの指が、動揺の拍子にか、つっと滑る。
「っ」
エルスはぴくっと身を震わせた。
ジークは慌てて指を離す。
どうしよう。なんだか変だ。
エルスは狼狽する。
彼の動きに、仕草に、声に、吐息に、体温に、落とされる影にすら、さっきから急激に異常に敏感だ。
なんで今まで、平気でジークと抱き合っていられたのか、分からない。
それはもちろん、彼がそう感じさせないよう、細心の注意を払っていたからだ。
あくまで精神状態を安定させるための、労る触れ方。
あるいは、女性をエスコートするための、紳士的な触れ方。
でも今のこの状態は、強制的に近すぎて。
恋人でしかあり得ないくらいに、くっつき過ぎていて。密着し過ぎていて。
「ええと」
と、ジークが頭上の月を仰いだ。
「とりあえず、ロープを切ろう」
やけにきっぱりと言った。
彼の手の中で変化がある。
ロープの構造式を読み取っているのだと分かった。
彼が式を使うのを見るのは初めてだ。
どきどきを押さえようと、しばらく上の空で見ていたが、実際に構造を崩そうとする段になって、
「ジーク、だめ」
エルスは我に返って止めた。
「救助用のロープを切るのは、最終手段にしましょう。万一の時、長さが足りないのでは役に立ちません。人命に関わるから」
「分かってる、そんなことは。もうすでに最終手段だ」
「やっ、あ」
ジークが強い口調で反駁したいのをこらえて重低音で唸ると、彼の体がエルスの体ごと大きく揺れた。
エルスは我ならぬ声に、両手で口を押さえた。
「……最終手段だ」
ジークは体の動きを極力最小限に留めて、もう一度繰り返した。
その声だけで、彼も赤くなっているのだと分かった。
暗がりの中だけれど、あまり感情が顔に出ない彼だけれど、でも抑制された声音そのものに、じわりと仄赤い感情がありありと滲むのが伝わった。
咳払いをする。
「……その、すまなかった。気をつける。以後」
「………………っ」
(あ、謝らないで…………!)
エルスは羞恥のあまり声もなく両手で顔を覆った。
自分の人生で、こんな仕草をする日が来るとは。
こういう仕草は、ジークのほうがふさわしいはずなのに。
この私が。この十隊隊長エルス・カレンズが。
なんだろう、ジークという人は、これまで自分の事なら何でもコントロールできると思っていたエルスの驕りを戒めるために神さまが遣わした何かなのだろうか。
今ので、一生分の恥辱を味わったと思う。
「ごめん」
エルスの身も世もないという恥じらいぶりに、ジークがもう一度、ぽつりと言う。
「な、何がですか。あ、謝られる意味が分かりません、まったく、全然。心当たりがありません。さっぱりです」
「輿入れ前の女性に、こんな状況になってすまない」
「………………!」
(だ、だから…………!)
再度顔を覆った。人生二度目の機会が早すぎる。