ジーク、私……、奪われてしまうの……?
壁とコンテナの隙間に押し込まれて、救助用の頑丈なロープが絡まって尻餅をついた状態で、エルスはジークを見上げた。
ジークは肩を摑み、真剣な顔で叱責してくる。
「事が済めばちゃんと帰す。輿入れの日取りには間に合わせる。和平調印がご破算になるなんて事には絶対させない。だから無茶するな。頼むからおとなしくしていてくれ」
「誤解です」
と説明するのは、簡単だった。
この船がいま沖数百キロ地点にあるとは知らなかったが、さすがに浮き輪ひとつで脱出するほど無謀ではない。
けれど、数日ぶりにジークがちゃんと真向かってきてくれた。
ジークが、自分を見下ろし、真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐ見据えている。
本気で心配して、怒っている。
そのことが、エルスには、泣きたいほど嬉しかった。
こんなに単純な心が、自分の中にあるなんて。
彼と距離を置こう。そう考えたはずだった。
けれどそんなのは、これ以上彼の拒絶を肌身に接したくないからだったと分かった。
自分は寂しさや傷つく事に強いと、思っていた。
理性で要素を腑分けし処理すれば、それはエルスを穏やかに冷静に対処させた。
そういうシステムを自分の中に洗練させてきた。
なのに、ジークが、目を逸らすと。
ジークが踵を返し、遠ざかっていくと。
背中を向けたまま、振り向いてくれないと。
短い通り一遍の返事しか、かえってこないと。
一緒にいても、よそよそしいと。
本当は、こんなにもずっと寂しくて寂しくて、寂しかったのだ。
「聞いてるのかエルス。どうしていつもいつも、こんな無茶ばかりするんだ。頼むから、おとなしくしていてくれ」
「…………おとなしくしていなかったから、こんな事するんですか」
「え?」
少し意地悪してやろうという気持ちが湧いて、エルスはしおらしい声でそう指摘してみた。
エルスは自覚がないが、こういうところが、告白を真に受けてもらえない部分である。
ジークは自分たちがどんな体勢になっているか、まだ気づいていないらしい。
壁とコンテナに挟まれた暗がりの中、真上からの月明かりで辛うじて視認できるけれど、距離が近すぎて、あまり意味はない。
両者の体の感覚で判断するほうが、早い。
すなわち、ジークは尻餅をついたエルスに対面し、迫るように体重を傾けていた。
エルスの両肩を摑んでいる。
そのうち、片手はやや下方へずれて、手の平が彼女の胸のふくらみ上部ぎりぎりを圧迫していた。
「ジーク、私……、奪われてしまうの……?」
「――――――」
ぽっと頬を染め長い睫毛を伏せて俯くと、ジークは物も言わず離れた。
「きゃっ」
だがロープが絡まっていて、エルスの体も一緒に引き起こされる。
長いロープの端を慌てて引き込んだため、蛇のようにうねったそれは頭上からばらばらと降りかかるように落ちてきて重たく二人の体を拘束していた。
硬いロープがぎちっと体に食い込んで、
「い、痛い、ジーク」
エルスは手もなく声を上げた。
これは思ったよりややこしい状況かもしれない。
ロープ先端の浮き輪はコンテナの下に滑り込んで行って、何かに引っ掛かってしまっているらしく動かない。
もう一方の先端は暗がりで見当たらず、手繰ろうとすると巻きついた部分がきつくなるだけだった。
「す、すまない。大丈夫か」
「大丈夫……けど、あの、あまり激しく動かないで。離れると食い込んで、痛いんです」
「え、いや、しかし……、そうだな。ええと、このくらいなら大丈夫か」
「ごめんなさい、もう少し緩めてもらえますか。髪が挟まってて」
「…………」
ジークは顔だけでも上方に向けて、体は無言で元の距離に戻した。
せめてと2、3センチ空けていた空間がゼロになる。
体に食い込んでいた縄が緩む。
しかし、代わりに二人の体の圧着度が増す。
いつもの、精神状態を安定させるための、礼儀正しい、慎ましやかな抱擁とは、だいぶ違う。
互いの体が普通ではあり得ないほど押し付けられ合っている。
「………………」
あれ、とエルスは戸惑う。
咳払いをしたくなったけれど、なにか自分が妙な意識をしていると彼に告げることになりそうで、我慢する。
「エルス、大丈夫か?」
「!」
耳にごく近いところで、ジークが囁いた。
な、なんでそんなところで、そんな低い小さな声で囁くんですか、と言いたいが、人の耳に立たないようにだろう。決まっている。
「大丈夫ですよ?」
エルスは身についた完璧な声と表情で微笑む。
こんなに密着して抱き合っていてはもちろん彼から顔は見えないが、微笑まないではやっていられない。
「心音が速くなっているが、大丈夫か」
「…………!」
エルスは反射的に、彼の胸板で押し潰されている胸を離そうとした。が、ロープがまた、がち、と締まってしまう。
(こ、この人……っ)
エルスはあまりの羞恥にくらくらと目眩がする。
人がせっかく平常心と冷静な態度をキープしようとしているのに、なぜわざわざそんな事を指摘するのだ。
しかも心音って、心音って……!
心臓だけど、まがりなりにも女性の胸のことを……!
けれどジークは、
「子供のころ囚われていた記憶が、よみがえると言っていたろう。その時もこうやって縄で拘束されていたのか。
大丈夫だ、エルス。あの頃と違って、もう遺伝情報絡みの売買組織は存在しない。政府が動いて、大々的に撲滅されたんだ。あの時と今とは違う。もう大丈夫だ。怖くない、安心していい。俺がこうしていていいか?」
エルスを落ち着かせるために、何度も頭をなぜる。
大きな手が、いたわり深く、エルスの髪を撫ぜ、背中をとんとんと軽く叩く。
「………………」
全然違います、と言いたいのに、エルスはぎゅっと目を瞑って、ジークの体に顔を押し付けた。
じんと目頭が熱くなって、なぜだか泣きたくなる。ジークは、いつもそうだ。
「大丈夫だ、エルス。……まだ落ち着かないか?」
エルスは顔をうずめたまま、首を振った。
とくとくという心音は依然止まない。
優しく頭をなぜるジークの手が、落ち着くよりむしろ、どんどん胸を熱くさせる。
「………………」
(この人が、好きなんだ)
エルスは、何度目か知れず、自覚した。
どうして彼なのか、彼じゃないとだめなのかは、分からない。
遅い初恋の相手が、よりによって自分を襲撃し拉致した、依然正体不明の人なのかは。
でも、ジークはエルスにとって、他の人と、全然違う。
ジークの手も、他の人の手とは、全然違う。