ジークに押さえつけられながら、エルスは目を瞑って数秒考えた。
半ば予想されたことであったが、それからジークは、エルスを避けるようになった。
甲板で顔を合わせると、目をそむける。
通路で行き会うと、踵を返す。
部屋を訪れるのは律儀に続けているが、その重い足取りと沈鬱な顔は、断頭台に赴く囚人か、市場に連れて来られた子羊か、というものである。
抱き合うけれど、体が硬い。触れているのに、全然触れているという気がしない。そんな拒絶も露わな抱き方では、全然癒されない。
「もうだいぶ落ち着いたようだし、この日課もそろそろ……」
ある時言いかけたジークをエルスがじっと見つめると、黙った。
でも、無理強いするのはやはり良くないな。
エルスはその夜、マスト柱の一番上の帆桁に座り込んで、そう考えを改めた。
彼が距離をとるようになったわけは、たぶん、理解できる。
彼の自制心に甘えて、健全な男性をもてあそんでいると言われても仕方がなかったかもしれない。
どうして彼にはこう、加減ができないんだろう。
優しくされれば調子に乗ってどこまでも野放図に近づきたくなって、冷たくされれば過剰なまでに傷ついて引っ込んでしまう。
どうして彼はエルスにとって、ほかの男の人と違うんだろう。なにが違うと言うのだろう。
人柄が好もしい。姿も良い。
でもそれなら、ハウザー事務総官に恋してたって良かったはずだ。あのハラン・ディキンソンだって魅力的な人だろう。
エルスを好きだと言ってくれた男の人たちだって、皆良い人たちだった。欠点もあっただろうが、それを言うならジークにだってある。大いにある。
なかなか恋愛しないエルスに、士官学校時代や同僚の女友達は、きっとすごく理想が高いのね、などとよく言った。
ジークは理想的な男性だろうか? 待ちに待ってやっと現われてくれた、白馬の王子さまだろうか?
エルスは思わず吹き出してしまう。ジークの仏頂面を思い返し、くすくすと笑いがこぼれる。
それは、親しみのこもった、あたたかい笑みだった。胸の奥にじんわりと、ほの明るいものが灯る。
なんでかなあ、とエルスは柱にもたれて、頭上を見上げた。
今夜はくっきりと明るい月だった。夜空を埋め尽くす星々が、無数に広がっていた。
ジークに会いたいな、と思う。
(今、ここにいてくれたらな)
でも、自分の子供じみた不用意な行動のせいで、また彼は遠ざかってしまった。
ジークと抱き合ってはいても、彼は自分には絶対何もしないと思っていた。
エルスから思わずしたキスも、確かに不適切だったけれど、そういう意図じゃなかったと思う。犬とか猫がするような、母親が赤ん坊にするような、親愛の表現だった。心底自己嫌悪に陥って謝る彼が、なんだか可愛くて、いじめてしまったのが気の毒で。
でももちろんエルスとジークは犬や猫ではないし、母親と赤ん坊でもない。
ジークは生身の、成人した男性だ。自分も。
けど、でもまさか、あのジークが、あんな風に。
「――――――」
エルスは座ったまま上半身をヤードに突っ伏した。
ふいに生々しく唇に甦る感触。うう、とかああ、とかぎゃあ、とか呻いて、そこに手で触われない。
自分だって平気じゃいられないのに、先にジークにあんな態度をとられたら、エルスのほうは平静を装うしかないではないか。
とにかく、とエルスはヤードに額を打ちつけたり、拳で叩いたり、脚をばたばたさせて危うくずり落ちそうになったりしてから、ようやく荒い呼吸を整えて上半身を起こさせた。
ジークは、自分と距離を取ろうとしている。
真面目で責任感の強い彼に、これ以上妙な心労をかけるのは良くない。
明日からは、エルスからも距離をとろう。きっとそのほうがいい。お互いのために。適切な距離というものが、あるはずだ。
そう決めて、エルスが部屋に戻るため甲板に下りると、ロープが無造作に放置されているのが目に入った。
長々ととぐろを巻いて山のようになっている。端には浮き輪がついており、エルスが以前、船上から海に投げ込んでもらったのと同じものだ。
(道具を出しっぱなしにするなんて。うちの隊なら食事抜きの罰則ものよ)
仕方ないな、とエルスはそれを担ぎ上げた。世話になっているのだ、仕舞っておいてあげよう。
数十メートルほどもある太いロープがずしりと肩にのしかかる。普通の女性なら重量に膝がくだけているだろう。
確かあそこの柵に掛けるのだと歩き出した時、
「――おい!」
「え?」
振り向く方向に、急激に体を引かれた。反対側の肩に担いだ縄が重りとなって、バランスを崩した。しかも考えられない事に、甲板は濡れていた。二食抜きである。
「あっ」
「わっ」
ずるりと足が滑って、エルスの肩を摑んだ人物とともに、甲板に叩きつけられた。
受身をとったつもりだが、肩にロープの厚みと重量があったうえに、上方からその人物が落ちてきたので、7割がた失敗した。
「いった……、ちょっと、ジーク。なんですか」
まともに腰を打ちつけたエルスが、上に乗っているジークを両手で押した。
ところがジークは離れるどころか、
「無理だ、死ぬぞ」
とエルスの体を押さえつけてきた。
「はい?」
目はすでに夜闇に慣れていた。今夜は月明かりと星明りが鮮やかだ。上になっているジークの顔は影になっているものの、怒っているようだと分かった。
この人は本当に、私の前ではいつも怒るか困るかしているのね、と思う。エルスがそうさせているのか。
ジークに押さえつけられながら、エルスは目を瞑って数秒考えた。そして、
「そりゃ無理ですよ」
と答えた。
エルスが担いだロープは浮き輪がついている。ジークは、エルスが夜闇に乗じて、浮き輪で逃げ出そうとしていると考えたのだろう。
無茶だろう。
どれだけ無鉄砲だと思われているのか。
ああ、でも、確かに自分は彼の前でこれまで、制止されてもしょっちゅう柱の上でぐらぐら風に煽られてみたり、何度も錠を壊して脱走してみたり、火だるまになって自爆を試みたり、そんな事ばかりしてきたのだ。
「やっばい、仕舞い忘れてた。点検しようと思って、確か途中で」
「馬鹿、俺まで一緒にメシ抜きになるだろ、何やってんだよ」
「まだ見つかってないって」
「――――ないぞ」
船員がふたり、甲板に上がってきた。ロープが放置されていた場所までやって来て、辺りを見回す。
「あれ? 誰か仕舞ってくれたのかな」
「だったらとっくにどやされてるだろ」
「そう言えば、やっぱちゃんと仕舞ったかも」
「はあ? なんだよ」
首をすくめたひとりに、もうひとりが後頭部をはたいて、船員は船室に戻って行った。
「………………」
「………………」
コンテナの陰で息をひそめているふたりには、気づかずに。
(い、痛い……、というか)
エルスを押し倒している状態だったジークが乱暴にエルスごとコンテナの裏に回り込んだものだから、壁に挟まれて狭苦しい上に、慌てて手繰り寄せて頭からひゅんひゅんと降ってきたロープがおかしな具合に絡まっていた。
「悪い、一緒にいるところを見られたくなくて。それより、何考えてるんだ。今、沖何百キロのところにいると思ってるんだ。いくらあなたでも無謀だ。なんでそう無茶なことばかりするんだ。また柱に登ってるって聞いて来てみたら」
ジークは叱りつけてくるが、自分たちが今どういう事になっているか分かっているのだろうか。