……捕虜にこんな事していいはずがない
捕虜の心身の健康の維持管理をするのは、責任者の務めだ。
というのが、ジークの言い分だった。
エルスもその通りだと思う。
それで毎日、一日一回、抱き合う。
「落ち着きます」
エルスは長い息をついて言う。
「さっきもしたけど、短かったから」
「……ああいうのは、やめてもらおう。ただでさえ、俺がこの部屋を訪れるのを周りにどう思われているか」
「でも私はあなたのことが好きだわ」
ジークは眉を顰めた。怒っているのではなく、困惑して。
ものすごく渋い顔をしている。
「そう言えば、俺を懐柔できると考えているんだな。油断させられると」
「いいえ」
エルスは穏やかに首を振る。
と言っても信じてもらえないだろうな、と思う。
自分のしていることは、まるきり子供じみている。
5歳の子供が、すきな子に、すき、とおそれもなく言うように。
10歳の男の子が、好きな女の子の髪の毛を引っ張るように。
15歳の女の子が、ちょっと手を払われたくらいで、もう会えない嫌われた、と閉じ籠もってしまうように。
「初めて人を好きになったの。自分には無縁の事と思っていた。楽しいものね、人を恋するというのは。みんながハマるはずだわ」
ありがとう、と伝える。
「知れてよかった。こんな思いを味わえて、良かったわ。私は幸せね」
「……これから王子と、結婚するんだろ。うちの、第2王子と。じゃあ不幸じゃないか」
ジークはつい、エルスの言葉を前提にして反駁してしまう。
「ええ。私は王子と結婚する。あなたのことを好きだけれど、他の人と結婚するの。でも、一生味わえないよりは、よかった。もっと早く知っていれば良かったけど、言い出せばきりがない」
「好きなら結婚をやめたいと思わないのか」
「思わない」
エルスは躊躇うことなく答える。
「これは私自身が確信している仕事」
この恋は、15歳止まりで終わる。
でもきっと80歳や100歳になったとき、あの数日間、私は本当に恋をしていたのだと、懐かしく思い返せるだろう。ジークのおかげで。
エルスはすでにこの初恋を、人生の終わりの時から俯瞰している。
いま彼への想いが胸から溢れて、多幸感に満たされ、もっと彼に近づきたくて、優しくされると泣きたいほど嬉しくて、ずっとこのままでいたいと心から願うさなかに、同時に、実を結ぶことなくほうむられた恋として振り返っている。
「たかが国民の感情を和らげるためだけの仕事か。どっちにしろ停戦は成ったんだ。大して価値がある仕事とは思えないな」
「未来をつくるの」
エルスの顔に日が射した。雲が切れたのだ。ジークは目を細める。
「元はひとつの種だった。それが二つに分かたれて、どちらが種として正当かを争ってきた。私はもう、昔のような思いはしたくない。誰にも。戦争が終わっただけでは、意味がない。恐れの元を断たなければ。二つの種を混ぜるの。これからよ。世代をかけて。まずは私がさきがけとなる」
日に輝くエルスのおもてから、ジークは苦々しげに目を逸らした。
「まさに聖女だな」
その皮肉げな響きに、エルスも思わず笑う。
「ちょっとすごい肩書きですよね。かなり気恥ずかしいですが、私はまだ若いし、権威を借りる必要がありました。教会からあれだけの助力が得られたのは、幸運でした。それに軍というのは荒っぽい人も多いので、宗教はそんな彼らをも怯ませますしね」
もっとも、とエルスはいたずらっぽく続ける。
「あなたには効かなかったようだけれど。あんな脅し方、不信心な人ね」
「だからあれは」
ジークは途端に、盛大に顔をしかめた。
これは、恥ずかしがっている顔。エルスは彼のそんな顔を心地よく見上げる。
仏頂面で隠そうとしている。
だんだん、見分けがつくようになってきた。うれしい。
「……悪かったと、思ってる。卑劣な真似だったと。港での攻撃を見て、船の安全のためにあなたの気を挫かせておく必要があると……いや、とにかく、間違っていた。今後もう二度とあなたにも、他の誰にも、あんな事はしない。俺だって自分が厭になった。馬鹿臭かった」
「よろしい」
エルスは微笑んで、ジークの頬を指先で撫でた。
ジークの灰青色の目が細められる。眉間にしわは寄らない。
「怖い思いをさせて、すまなかった」
「平気だったわ」
「ごめん」
するりと、エルスの唇がジークの謝罪した唇を滑った。
ジークが目を瞠き、エルスを見返す。
エルスも自分のしたことに、彼の腕の中で身を引いて慌てて遠ざかる。
どこからともなく飛んできたたんぽぽの綿毛が一瞬かすめた程度の感触が、はかなく消える。
「あ、失礼。また、つい勝手に。反省したのに。犯罪だわ」
「いや……、……また? 反省?」
「ほら、この前。肩に手を」
「違う、あれは、……違うと言ったろ。だいたいそれなら今こうしてるのは」
言葉の途中で、うろたえた様子のジークは不意にエルスの額に額を近づけた。不自然に途切れた言葉の続きが、そこにあるかのように。
前髪が触れ、押し潰される。
けれど吐息がかかるほど間近になっておいて、止まる。
「……今、もう二度としないと、約束したばかりだ」
「……私も、反省したばかりだったわ」
いつもきれいに通るエルスの声が、揺れがちで頼りなかった。
ジークは掠れた声で、苦しそうに目を細める。
「……捕虜にこんな事していいはずがない」
「捕虜が望んだのでも?」
「望んだのでも」
「捕虜から誘ったのでも?」
「二重に悪い」
ジークが思いきり顔をしかめる。
エルスは思わず、おかしそうに笑う。
その唇の笑みの形に抗議して、ジークの唇が触れる。
エルスの笑みが消える。
菫色の瞳が揺れて、戸惑いがちに彼を見つめる。
何か言い出そうとして、けれど言葉は何も思いつかず、やはり何か言いかけたジークと、タイミングがぶつかり、ふたりは目を逸らし合う。
寄せたままのふたりの体の間で、鼓動が、とくとくと満ちている。
いや、どきんどきんと溢れんばかりだった。心臓が破れそうに痛い。
エルスはなぜだか泣きそうになる。
これは15歳止まりの恋だ。どうしていいか分からない。気持ちに振る舞いが追いつかない。
「……駄目だ」
ジークが、口の中で呟いた。
と同時に、エルスにかけられていたジークの腕が、解かれた。
体に触れていた手が、離れる。
彼の体温と重みを失い、エルスは、ずきんとして顔を上げた。
けれどエルスは、みずから顔を上げる必要などなかったのだ。
その顎を、ジークの手が掬い上げるようにして仰向かせ、エルスの唇を荒々しく塞いだ。
もう片方の手は、エルスの後頭部を包んでいた。
呼吸を奪われる。何度も、何度も。
「……もう、駄目だ。エルス」
唇を重ね直す隙間に、吐息とともにジークの言葉が口の中に熱く流れ込んでくる。
頭に添えられている大きな手が長い髪を撫ぜるとき、指先が耳もくすぐった。可愛がるように、何度かこすられる。
エルスはぞくぞくとして、思わずか細い悲鳴をあげてジークに縋りついた。
いつもしかめっ面で堅物で不器用そうな彼なのに、唇は滑らかに動いて、エルスの唇をもてあそんで、
「…………、…………」
エルスは詰めていた息をどうにか取り戻すけれど、激しく蹂躙される口づけに、為すがままだった。
いつも自制的な彼が、一度堰を切ると、灼熱のような激情をぶつけてきていた。
エルスはその熱を受け止めるだけで精いっぱいだった。
いつもの余裕がどこにもない。エルスの恋はまだ、15歳なのだ。
ジークの熱が止め処なく流し込まれてきて、エルスの中で奔流となる。
頭がじんと痺れて、何も考えられない。体を甘い電流のようなものが走る。
エルスはジークの肩や腕に、手を縋りつかせた。
ジークにしがみついていないと、膝からくずおれそうだった。
「…………っ、は……」
唇が離れて、息を喘がせる。
ジークはエルスの赤く濡れた唇にもう一度、軽くキスする。
エルスの潤んだ目元にも、口づける。
信じられない。そんな甘やかな仕草をする人だったなんて。
胸が痛いほどに引き絞られる。
菫色の瞳が、いつもの聡明な輪郭を失って、涙に溶けそうになっていた。
ジークの冷たい印象の灰青色の瞳も、切なげに細められている。
だが、やがて何かを振り切るように、ぐっと目を瞑った。
そして勢いよくエルスを引き剝がすと、
「――すまない」
ひとこと言って、顔も見ずに部屋から出て行った。
エルスはそれを見送る。
丸窓からの夕光だけが、斜めに差し込んでいた。