海の「牢」が、子供の頃の記憶と重なる。
船は、特に目的地もないようだった。
三百六十度、海。相変わらず島影はない。
エルスはこの大きな船自体が自分を閉じ込める「檻」なのだと、理解していた。エルス・カレンズをどこにも行かせないための、海の「牢」。
この状況はひどく似ている、と思う。
広すぎてかえって逃げられない、その途方もない広大さ自体が「牢」なのだという、この状態。
今囚われているこの海の「牢」が、子供の頃の記憶と重なる。
けれどその牢には、逆手をとって、エルスがみずから潜入したのだ。
その気になれば錠はいつでも破れる。与えられた部屋は充分快適だ。
なのに、記憶がよみがえる。
この船を探っている間は、意識にのぼっていなかった。
こんなふうに、ひとり部屋に閉じ籠もっていてはいけない。出なくては。そう、外に、出たほうがいい。
けれどどうしてか、ひどく億劫だった。
無為に過ごすのは危険だ。
余計な事を考えてしまう。
自分のした、くだらない失敗。彼の拒絶。馬鹿な事をした。
払われた手の感触と、不快げな眼差し。
先の不安。王国に入ってからの事。
駄目だ、もっと建設的に考えなければ。調停のときに話した幾人かとは今後も交誼を結びたいし、そう、調印の起草者にも会いに行きたい。あの第八稿は素晴らしかったから。
王子の妃として、王国で今後やれる仕事もある。
王子。見も知らぬ男と、結婚する。
エルスは頭を振る。
決めたことだ。意義あることだ。
駄目だ、どうしてか精神が停滞している。
何がきっかけだったのか。すごく些細な事だった気がするが……。
ずきん、とこめかみに針のような痛みが刺す。悪い兆候だ。まずい。知っているパターンだ。回避しなければ。あの草案のことを考えよう。未来のことを。
けれど一度記憶に捕まると、頭も体も重たく鈍く、引きずり込まれていく。
攫われた。
いや、売られたのだ、実の父親に。
馬車上の檻に閉じ込められた。ダリルと小さな体を寄せ合って、ずっと手を繋いでいた。どこか荒野に連れて来られた。荒野の中にぽつんと、常設のテントと掘っ立て小屋があった。そこがアジトだった。
三百六十度、見渡す限り何もない。砂礫と岩石。遠くに黒々と横たわる森が見えるのだけが変化だった。
その途方もないだだっ広さが、今のこの環境と重なる。
小屋の中の牢には、すでに他に子供たちがいた。
壁や鉄格子を力任せに叩いたり揺らしたりしてみる子、泣いている子、うつろな目で膝を抱える子。
その順に、新しく来た子供たちだった。
一番まえからいる子は、ぐったりと横たわって、動かなかった。
「よし、ここから逃げよう」
鬼ごっこでもするような気軽さで言ったのは、どちらだったか。
牢を破る計画を立てた。
壁も鉄格子も、構造をいじれないようセキュリティがかかっていたので、まずそれを破った。
見張りのいない時間を縫って、三日かけて岩の壁を切った。
構造式の訓練は学校でまだ本格的には受けていなかったが、ダリルとよく遊んでいた。
大量の濃霧を発生させた中で鬼ごっこしたり、小さな上昇気流に吹き上げられてみたり、土や岩から火花のもとを選ってぱちぱち輝くのを見たりした。
就学前に、ハイクラスの認定を受けていた。父親はそれは伝えなかったのだろうか。より高値で売れたはずだ。
のちに教えてもらったことだが、買われたのは子供というより、テンスの遺伝情報だったのだから。構造式を扱う能力は、種類も度合いも、先天性に由来するところが大きい。
ただ戦地に戻って死ぬだけの費用があれば、それで良かったのか。
ダリルと交替で岩の構造を分解して、子供ひとり分の範囲を崩していった。扱いがみるみる上達していくのが楽しかった。
ほかの子供たちの目にも、生気が宿り始める。
見張りが来ると、ぐったり役の子が横たわって壁を隠した。
だめだよ、顔見せちゃ。ばれちゃう。目とほっぺが笑ってる。
見張りがいなくなると、くすくす笑いが漏れないようにするのに苦労した。
三日目の夜、逃げた。
小さな穴から、一人ずつ抜け出た。腹這いになって、順に、細い二本の脚がよじよじと出て行く。
その夜は、月も星もなかった。良かったのか悪かったのか。見つかりにくいが、自分たちも足元や方角がまるで分からなかった。森に逃げ込めば、まけると思った。森へ。
真っ暗闇の中、逃げた。そして――。
「ごめん、ダリル! 先に行く!」
ああ、とエルスは呻く。
間違っていなかった。最適な行動だった。
でも目が闇で塞がれる。
あの時のこと。ダリル。弟。手に刺さる砂礫。
あのすぐ後のこと。血の味。天井。電球。スタン。
その後のこと。街。火。手応え。ミーシャ。レックス。みんな。煙草。スタン。
さらにその後。教会。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
ノックのあとドアを開けたのは、ジークだった。エルスはベッドの上でぼんやり身を起こして、座り込んでいた。
そちらに顔を向けて、微笑む。
「どうしたんですか? 珍しい、そちらから来るなんて」
「足、どうかしたのか」
「え?」
ジークはエルスの問いには答えず、指摘した。扉は半分開いている。
言われて気が付いた。
無意識に、右足のふくらはぎに触れていた。手の平で包み込むように。
「痛むのか?」
「いえ」
エルスは手を離した。
傷は残っているが、大昔に完治している。