それとも、すこし照れてるみたいです
「エルス、エルス!」
小さな弟が必死に自分を呼ぶ声。
暗闇の荒野。背後から地鳴りのように迫ってくる、大人の男たちの怒号。足を狙って射掛けられてくる矢。土埃。砂礫。
「ごめん、ダリル! 先に行く!」
破った牢。テントの明かり。檻付きの馬車。少しでも遠ざかる。逃げる。森へ。森へ。森へ逃げ込みさえすれば。
森が見えない。闇が目に蓋をする。月も星もない。地面すら分からない。足場が摑めず、溺れているよう。方向を失う。手探りで岩の形を知る。膝と手の平に突き刺さる尖った砂利。
「行け、エルス、先に! すぐ追いつくから!」
一緒に脱走した、弟の声。まだ幼い声。双子の弟。生まれた時から一緒にいた。まだ近くにいるはず。すぐ近くに。
でも互いの姿は見えない。声だけ。闇だけ。
「走れ!!」
どちらがそう叫んだのか、覚えていない。
あの頃、自分とダリルは、声も姿も何もかもそっくりだったから。生まれてからずっと近くにいた声。遠くなる声。
――真っ暗闇のなか。
――目を開く。
苦しい。
鼻をつままれていた。
「なんか難しい顔して寝てたから。寝てるときくらい考え事はやめろ」
「あなたといると、いやな事ばかり思い出すみたい。あのとき取り得る最善の行動を取ったと思うのに、今でもこうして思い出すのは、心の底の底では本当は後悔しているからなのかしら。あれから構築してきた自分の行動規範にも則っていたと、今思い返してもそう判断できるのに、もしも心の奥底、本音では、あの判断と行動に疑問を抱いているというのなら、私は己に失望せざるを得ません」
「ひと晩中抱いててやった男に言う台詞か、それが。しかも起き抜けから」
ふふ、とエルスは微笑んだ。ひどい頭痛は収まっていた。
睡眠から浮上すると、腕枕なんかされてる。お約束、という感じでなんだか可笑しい。小鳥のさえずりでもあれば完璧なのだろうが、ここは陸地から数百キロ離れた沖だ。
「ああ――、いえ。あれはカモメ?」
ギャアギャア鳴いている声がする。
「何の話だ」
会話になっていない、と顔をしかめられる。
その固く寄せられた眉間に、彼の腕から体を伸ばして、唇をつける。自分の白金色の長い髪が、小さな丸窓からの光に輝いて、彼を包む。
「ごめんなさい。どうやら、まだちょっと寝惚けているか、それとも、すこし照れてるみたいです」