ハッピー・メリー・ナイト
彼女からの電話は唐突だった。
「メリー・クリスマス、ところで、サンタ・クロースを捕まえたのだけれど、見に来ない?」
暗がりの中でスマホの画面を確かめると、時刻は5:12と表示されていた。夕方ではなく明け方のだ。
電話の向こうで、彼女の声が少しうわずった。
「ねえ、聞いてる? サンタ・クロースを捕まえたのだけれど」
僕はこれを彼女なりの冗談なのだと解釈した。つまりはクリスマス・イブなのだから会いに来いという、女性に特有のわがままというやつだ、やれやれ。
真鍮のように冷え切った冬の外気の中に出て行くことを考えると少し気が重かったが、僕はベッドから抜け出した。
「わかったよ、せめて顔を洗う時間をくれないか、どうせ君のことだ、サンタ・クロースが逃げられないように、がっちりと縛り付けてあるんだろ?」
冗談めかして言うと、彼女は電話の向こうでそっけない声を出した。
「ええ、そうね」
それで僕は、ゆっくりと時間をかけて歯を磨き、ひげをあたって彼女の家へ向かった。
彼女の家に着くと、サンタ・クロースは中華屋で出てくる粽みたいにきっちりと隙なく縛り上げられて、リビングのソファの上に転がされていた。
赤い衣装に赤い帽子をかぶり、白い髭を生やした姿は、その存在をサンタ・クロースだと認めない方が難しいくらいにサンタ・クロースだった。
「本物のサンタ・クロースじゃないか」
僕が言うと彼女は「ええ」と答えた。彼女は少し不機嫌みたいだった。
これは主に僕のミスだ。まじめな彼女が冗談で真夜中に電話をかけてくるはずがないのだし、電話の理由を疑ったということはつまり、サンタ・クロースが実際にいるという彼女の言葉を全否定したことに他ならないからだ。
僕はいつもこういうやり方で彼女を傷つける。それは無自覚なのだけれど。
三年前の夏、僕たちは山中湖へ旅行した。天に向かって居丈高に構える富士山をよく見ようと、僕たちは山中湖の観光ボートを借りた。湖水は闇夜の底よりも深く冷たく、僕たちを追っかけてきた夏の熱さも岸で足止めを食らうほどだった。僕たちは湖水の上を走る風の冷たさを存分に楽しみながら、だだっ広い湖の上をボートでただよっていた。
ボートが岸からだいぶ離れた場所で、彼女は何を見つけたのか小さな叫び声をあげた。
「ネッシーがいるわ」
「ここは山中湖だから、ヤッシーだね」
僕も彼女が目を向けている方へ顔を向けたのだけれど、そこには大きな波紋が湖水の上にあるっきり、肝心の怪獣の姿はどこにもなかった。
「いないじゃないか」
僕が少し笑うと、彼女はふいと顔を背けて、湖面を渡る風よりも冷たい声で言った。
「だって、潜ってしまったもの。でも、いたのよ」
彼女といると、そういうことが良くあった。だけど僕は彼女が指さした先に怪獣やUMAの類を一度も見たことがないのだから、その言葉が真実であると信じたことはない。だからといって虚言だと決めつけたこともないのだけれど、彼女はそういう時には決まって、少し不機嫌になるのだ。
だから彼女はいま、少し不機嫌ではあったがおおむね上機嫌であるのだろうと、僕は考えた。きっと彼女がサンタ・クロースを捕まえるなどという暴挙に出たのは、僕に自分の言ってきたことが嘘ではなかったと証明するためなのだろうし、ここに粽のように縛り上げたサンタ・クロースを転がしておくことによって、それは達成された。だから上機嫌なのだろうと、これはあくまでも僕の憶測にすぎないのだけれど。
彼女はサンタ・クロースなどクッションであるかのように扱った。つまり、それにもたれてソファに座った。
「クリスマス・イブだから、ワインを開けたの。あなたもどう?」
ラベルを見ると安いチリワインで、彼女の家を出て角二つ先にある量販スーパー・オタフク屋の棚から値段で選んだのであろうと、簡単に推測できてしまうことが悲しかった。
僕も彼女の隣に座った。サンタ・クロースがしゃがれた小声で異国の言葉をつぶやいたが、クリスマス・イブを安ワインで祝おうという悲しい女を前にしては、それは何の意味もない、ただのつぶやき声にしか聞こえなかった。
「せっかくのメルシャン・ワインなのに、ツマミもなしかい?」
僕が聞くと、彼女が答える。
「ええ、せっかくのメルシャン・ワインなのに、ツマミもなしなの」
「そいつは悲しいね」
僕はここに来るまでの道にあったコンビニがを思い出そうとした。彼女の家から一番近いセブン・イレブンは、先月の末に店長とケンカをして出入り禁止を食らっている。もっともこれは僕に非があるわけではなく、店を走り回っている子供を注意しなかった店長の落ち度だ。僕はただ、その子供に「他の客にぶつかったら危ない」と口頭で注意を与えたに過ぎない。それに驚いて子供が泣きだした途端、雑誌コーナーで妙な形に体をくねらせた女が表紙に印刷された下世話なモノを選んでいた父親がすっ飛んできて、店長にクレームを入れたわけだ。店長は僕を『トラブルを起こす客』と認定して、僕がその店に入ることそのものを禁止したというわけだ、やれやれ。
おかげで僕は、夜中の突然の酒宴のために必要なツマミにさえ困るというありさまなのである。
「あなたが悪いのよ」
彼女が言った。
「そう、僕が悪いんだ」
「今日だって、せっかくのイブなのに、誘ってもくれないなんて」
「そう、僕が悪いんだ」
「会社も辞めたんですって?」
「そう、僕が悪いんだ」
かすれたリフレインのように同じ言葉を繰り返しながら、僕は追い詰められてゆく。
会社を辞めることは今年の春先にはもう決めてあった。自分で起業してみたいと考えたからだ。その決意を彼女に伝えたのが夏の初め、彼女はそんな僕を「子供っぽい」と鼻先で笑った。それっきり、彼女から連絡は途絶えた。
今日、「サンタ・クロースを捕まえた」という電話をもらった時に、少し浮かれたことを考えたのは、実に五か月ぶりの電話だったからだ。
「ずっと待っていたのよ」
彼女が見上げるから、僕はその肩を優しく抱いた。
「ごめん」
僕たちはサンタクロースをソファーの下に投げ出して、二回、抱き合った。
翌朝、目を覚ました時も、彼女は僕の腕の中にいた。足元にはまだ、サンタ・クロースが転がっていた。彼はうつろな目つきでぶつぶつと異国語での繰り言をつぶやいていた。
僕は彼女が良く眠っているのを確かめてから、サンタ・クロースを縛っているロープを切った。ロープを丁寧にほどいてやると、サンタ・クロースは少し驚いた顔をしたけれど、すぐに窓を開けて飛び出していった。
窓の外から小さな鈴の音が聞こえた気がするけれど、そんなことは僕にはどうでもよいことだった。
――僕にはもう、サンタ・クロースはいらない。
腹を空かせて目を覚ますであろう彼女のために、パスタを茹でようと、僕はキッチンへと向かった。