閑話 ベジャイア軍出陣
ディアドラがカザーレと面会した翌日の早朝、ベジャイアの国境近くの草原に七千のベジャイア兵が集結していた。
国境を越えて隣国に侵入し、王都を目指すにはあまりに少ない数だ。
なにしろ半数は、自分達のための食糧や隣国で不足している物資を、運搬する部隊とその護衛なのだ。
さらに残りの人数のうち五百人は、シュタルクの庶民の服装をした諜報部隊だ。
ただ、ほんの少し前から精霊を育てることに力を注ぎ始めたベジャイアの兵士にしては、精霊を連れている人数がかなり多い。
部隊長や指揮官クラスは、ほぼ全員が精霊を連れている。
彼らのほとんどが貴族であり、精霊の宿る大樹で自分の精霊と出会えた者達だ。
全部隊が整列を終えると、空中に風と火の精霊王が姿を現した。
帝国の精霊王に負けず劣らず、ベジャイアの精霊王達も人間の前に頻繁に姿を現すため、初めて精霊王を見る者達も話では聞いていたので動揺したりはしない。
兵士達の正面にある木で組んだ檀上に光が集まり、まず革の軽装備姿のガイオが転移してきた。
もちろん彼には転移魔法は使えない。
これも精霊王達がお膳立てしてくれているのだ。
治水工事の現場や災害の起こった現地に顔を出し、平の兵士や庶民と一緒に泥だらけになりながら働くガイオの姿を、多くの兵士や庶民が目にしている。
風と水の精霊を連れた若き英雄は、貴族の中では居場所を失いそうになった時期もあるが、一般の兵士や庶民の間では今でも大人気だ。
彼が今回の軍勢を率いるとあって、兵士達の士気はかなり上がっている。
続いて姿を現したのは近衛騎士団長のビューレン公爵と、ふたりの近衛の制服姿の騎士達だ。
彼らは剣をいつでも抜ける姿勢で舞台前方に立った。
そして最後にバルターク国王が登場すると、いっせいに兵士達から歓声があがった。
ニコデムスと手を組んだ先王を討伐するために決起した父親が戦死し、突然王位に就くことになってしまった彼は、初めは国を治めるということに慣れず、復興を思うように進められない時期もあったが、それはもう過去のことだ。
王はこうあるべきだという考えを捨て、気さくだが豪胆な性格のままに臣下や兵士と接するようになってからは、人気が急上昇している。
妖精姫と親しく、精霊王達にも気に入られているということも、彼の人気の一因になっていた。
短く刈り込んだ金髪の上に王冠をいただいた偉丈夫がマントを翻し、無骨な近衛騎士団長と若き英雄を従えて壇上に立つ様は、ベジャイア国民の抱く国王の理想像だ。
国王が軽く片手をあげて口を開くと、ぴたりと歓声がやんだ。
「王都を発つ時に、それぞれの指揮官からすでに厳重に注意を受けていることを、俺がここで繰り返すのはやめよう。それよりもここに妖精姫から皆に宛てられたメッセージがある。少女からの手紙なので一部文体的に俺が読むと違和感があるだろうが、そのまま読もうと思う」
少女からの手紙だと国王は言ったが、飾り気のない用紙は手紙にしては大きく、どちらかというと書類に見える。
国王の言葉を聞いて、ガイオは不安を隠せず眉を寄せた。
「勇猛果敢なベジャイア軍の皆さん。同盟軍として帝国と共にニコデムス教徒を名乗る犯罪者討伐にお力添えいただき感謝しています。ニコデムスのせいで国が荒れ、戦が起きてしまったベジャイアとしても、ニコデムスは敵。私からの感謝など必要ないのかもしれませんが、聖女に祭り上げられ、シュタルク王太子と無理矢理結婚させられそうになった身としては、復興の大事な時期だというのに勇猛なベジャイア軍が出兵してくださるというだけでも心強くありがたいのです」
兵士の中には王宮の大樹の傍で妖精姫に会ったことがある者もいる。
会話はしていなくても、遠くから見かけたという者も含めると、かなりの数の兵士が妖精姫を知っていた。
華奢でたおやかな雰囲気でありながら、春の日差しのように優しい笑顔の美しい少女だというのが、ベジャイア内での妖精姫の印象であり、見た目の印象についてはどこでも大概一致している。
ただし彼らは妖精姫の性格を正しく把握していた。
精霊王との約束を守らず、国を危険に晒した貴族に対する厳しい言動を目の当たりにしているからだ。
男尊女卑の傾向の強いベジャイアの考えのままに彼女に接し、痛い目に合った男も何人もおり、彼女を怒らせた場合、本人からはぶっ飛ばされ、妖精姫をたいそう気に入っている国王や宰相によって厳しい罰を受けるという二段構えの報復が待っているということを知っている。
「今回の戦いは侵略ではありません。ベジャイアと同じくニコデムスのせいで国内の魔力が減り、土地が荒れ、作物が枯れ果てたシュタルクの、罪のない庶民を救うための聖戦です。倒していいのはニコデムス教徒と己の欲のために庶民を犠牲にしている一部の貴族だけです。その彼らも決して殺さず裁きを受けさせなくてはなりません。決して略奪などの行為はしないでください」
国王は言葉を切り、兵士達の顔を見回した。
ここにいるのは選び抜かれた精鋭達であり、もう何度も作戦の内容を聞いているために、どの顔にも不満の色はない。
「復興の進むこの時期に家族を残し家を離れる皆さんに、ベリサリオからもお礼をさせていただきたいと思っています。この聖戦が無事に終了した暁には、ベルトにつけられる小型のマジックバッグとフライを、それぞれに贈呈します」
ざわりとどよめきが走った。
帝国ならいざ知らず、精霊に関して遅れているベジャイアでは、貴族でもマジックバッグを持っている者など数えるほどしかいない。
それなのにフライとセットで全員にくれるというのだ。驚くなというのは無理がある。
「まだ精霊のいない方も大丈夫。この度の進軍では進んだ先にある村々にニコデムス教徒がいないことを確認し、精霊と共存することを望むのなら、精霊王が祝福を贈り、木々を復活させ、作物が育つようにしてくれることになっています。その時にその地域の魔力が増えるので、多くの精霊が姿を現すでしょう。また、あなた方もずっと魔力の強い精霊王と行動を共にするのですから、少しは魔力が増えるかもしれません。こんなチャンスはなかなかないですよ!」
「……陛下」
「書いてあるまま読んでいるのだから仕方ないだろう」
最初のうちは真面目な内容だったのに、途中で飽きたのか、だんだん文体が崩れ始めている。
国王やベジャイアの高位貴族と会話する時でも、妖精姫はかなり砕けた口調なので、この方が彼女からの手紙らしいのではあるが、少女の話すような文章を大人の渋い男性が話すと違和感がひどい。
「日々の生活に苦しんでいるシュタルク民の前で、他国民の自分が精霊を得てもいいのかと心配したそこのあなた! 大丈夫です。心配無用です。むしろ彼らの前で魔力を放出し、やり方の手本を見せてあげてください。そして、精霊と力を合わせればよりよい生活が送れることを教えてあげてください。誤解しないでいただきたいのですが、精霊を育てることは義務ではありません。育てたくても出来ない方もいるでしょう。そういう方が差別を受けるような世界にはしたくありません。でも育ててみたいと少しでも思うのであれば、行く先々で木々に向かって手を伸ばし、魔力を放出してみてください。あなたの相棒になる精霊が待っているかもしれませんよ」
もう一度言葉を切り、少しだけ迷うそぶりを国王が見せたので、ビューレン公爵とガイオは不思議そうに目を見交わした。
「くどいようですが、くれぐれも無益な殺生や略奪はしないでくださいね。私もせっかくの精霊の宿る大樹を薪にはしたくありませんから。よろしくね」
「……薪」
誰も笑う者も怒る者もいない。
その場の雰囲気が一瞬で重くなった。
彼女ならやる。
間違いなくやる。
「あいつ、最後にとんでもないことをぶち込んできたじゃないですか!」
「落ち着けガイオ。略奪をしなければいいだけの話だ」
「しかし」
「まあ聞け」
ガイオの肩を叩きながら、国王は兵士達の方に向き直った。
「俺は妖精姫は鏡のような存在だと思っている。誠意をもって接すれば何倍もの誠意を返してくれるが、悪意を持って接すれば必ず痛い目に合うだろう。だがベジャイアは本当に誠意をもって接することが出来ていたか? 今はもちろん出来ている。俺を含め多くの者達が彼女に好感を持ち、友人として誠実であろうと思っている。しかし当初は、我々は何度も失礼なことをして彼女を傷つけ怒らせてしまっていたのだ」
「……」
黒歴史を持つガイオは居心地悪そうに首筋を撫でた。
今振り返ると、初対面の時の自分はなんて怖いもの知らずな態度だったのかと、今でも首筋がひやりと冷たくなる時がある。
「それでも彼女はベジャイアの現状を見にこの地を訪れ、復興のために精霊の宿る大樹を贈ってくれた。我々はその恩に今こそ報いるべきではないのか?」
おーっと空気が震えるような声が兵士達から発せられた。
妖精姫の訪問がベジャイアの未来を大きく変えたことを、もはや誰も疑ってはいない。
彼女はベジャイアにとって救いの女神だ。
そこに更に今回は精霊が手にはいるチャンスがあり、マジックバッグにフライまでもらえるのだ。
兵士を辞めても新しい何かを始められる。
農業にも復興のための工事でも、きっと大活躍出来るだろう。
ついこの間まで絶望しかなかった彼らの未来は、今ではどんどん明るくなっていた。
「いいかおまえ達。妖精姫は自ら囮になって船でシュタルクに向かうことになっている。ぼやぼやすんなよ。彼女がシュタルクに上陸したらすぐに合流出来るように突っ走るぞ!」
ガイオの威勢のいい声に、また大きな歓声があがった。
「彼女に冷ややかに出迎えられたくはないだろう。さすがベジャイアの兵士達だと満面の笑顔で会えるように、それぞれの任務を全うしろよ。これだけ言っても余計なことをしやがったやつは、精霊王や妖精姫の手を煩わせる価値がない。俺が叩き切る! いいな!」
片手を天に突きあげ高らかに声をあげ、ベジャイア軍はガイオを先頭に国境を越えてシュタルクに進軍を始めた。
まずは諜報部隊が行く先の村々で、ベジャイア軍の目的を知らせ、村人を襲うことは禁止されていること、不足している物資が配られることを伝えたため、特に混乱なく村人たちはベジャイア軍の通過を見守ることが出来た。
風の民とオベール辺境伯の合同軍と合流すると、シュタルクの精霊王も初めて人間の前に姿を現し、シュタルクをニコデムスの魔の手から解放するための軍隊らしくなってきた。
想像以上に荒れ果てたシュタルクの様子は、今まさに復興に奔走しているベジャイア兵には他人事ではない。
そのあまりに過酷な状況を目の当たりにして略奪に走る兵士などなく、物資を配り、精霊王の祝福で奇跡のように元の豊かな土地に変わる村を見て、シュタルク国民と共に涙を流して喜ぶ者もいたという。
ニコデムス教徒を名乗る犯罪者を全て捕らえ裁きを受けさせたこの進軍は、妖精姫の心温まる手紙のエピソードと共に、無血聖戦として何世代にも渡り後世に語り継がれることになる。
薪?
そのような単語はこの物語には一切出て来なかった。