ディアは聖女?
あと五日で学園が始まる日、私は瑠璃の住居に遊びに来ていた。
学園にいる間は顔を出せないので、今のうちに会っておきたかったの。
今年もアーロンの滝に新年の挨拶に団体で行くだろうけど、ゆっくり話せる機会は学園が終わるまでなさそうだもん。
もう何回も来ているので、私もここの住人達も魚もすっかり慣れていて、瑠璃が用事で戻るのが遅れているからと部屋に案内された後、お茶だけ出して放置された。
ベリサリオに来た時の皇太子と同じ扱いだわ。
人間を駄目にする椅子っぽい大きなビーズクッションに埋まって、ウィキくんを眺めている私を、住居の外から魚が覗きに来る。逆水族館よね。
『それが、世界のあらゆることが記されている本なの?』
誰かが部屋に入ってくる気配がしたので、瑠璃かと思って顔をあげたら翡翠だった。
あいかわらずのスレンダーなモデル体型で、体の線が出る萌黄色の上下に薄いターコイズグリーンの上着を羽織っている。
かすかに腹が出ているのはわざとなのかしら。
この世界の人間には出来ない服装だわ。
『賢王もそういう本を持っていたんでしょ? 転生前の世界のことも書かれているんですって?』
「賢王も持ってたの?!」
『え? 知らなかったの? てっきり瑠璃かモアナが話していると思っていたわ』
あるある。もうみんな知っていると思い込んでいるのよね。
今更聞けない雰囲気になっちゃうやつだ。
「今初めて聞いたわよ。賢王はこれをどんなふうに使ったのか知ってる?」
『知らないわ。せっかく神がくれたんだから、ディアが好きに使えばいいのよ』
「神がくれたの?!」
『他に誰がくれるのよ』
そうなんだけどさ、そうなんだけど。
「これね、今でも内容がどんどん新しくなっているのよ」
『そうでしょうね。じゃなかったら役に立たないものね』
そんなあっさり。
これがどれだけの価値を持つものかわかってる?
世界を変えられちゃうくらいの内容が盛りだくさんなのよ。
使いようによっては、かなりやばいのよ。
『あなたの場合、すでに現在進行形で世界を変えていると思うけど』
「多少歴史は動かしたかもしれないけど、世界を変えるところまではしていないんじゃないかな?」
『何か国もの精霊王が、人間と関わるようになったのに?』
「それはあなた達のせいでしょう」
『……それもあるわね』
どうせ他の国の精霊王に会った時に、楽しそうに自慢したりしたんでしょう。
『それ、あまり使っていないの?』
「うーん。あまり使いたくないけど、結局使っている」
ウィキくんに書かれているのが真実というわけではないということが、最近わかってきた。
多くの人が事実だと思っている項目が載っているだけなの。
複数の見方がある場合は、全部が書かれているのよ。
たとえば私が何かした時に、私がどういう思いがあってその行動をしたのかなんてことは書かれていないわけよ。私が何をして、その結果どうなったか、どんな評価をされているかしか書いてないの。
そんなのあたりまえじゃんて言われるかもしれないけど、よかれと思ってしたことなのか悪意があったのか、判断するのは読み手ってことだから気を付けないといけないのよ。
まさしくウィキくんよね。
「これでわかったことがあっても、説明に困るのよ。どうしてそんなこと知っているの? って聞かれて答えられないでしょ」
『たしかに、あらゆる情報が得られる手段があるっていうのは秘密にしないとまずいわね』
「定期的に読まないと日本語を忘れそうだしね。いざという時に、ウィキくんが読めないと困るから」
私はアゼリア語だけじゃなくて、ルフタネン語とシュタルク語を勉強しているの。
ルフタネンにはいずれ住むことになるし、歴史の古いシュタルクの言葉は貴族の教養として覚える人が多い。
そうして新しい言葉を覚えると、普段は全く使わない日本語がどんどん朧気になっていくのよ。たぶんもうイントネーションはおかしくなっていると思うわ。
『ニコデムスの項目は見た?』
翡翠が隣に座ったのでビーズクッションの形が変わって、翡翠にもたれかかってしまった。
「最近は見ていないわ」
『シュタルクがあんなことになっているのに見ていないの?』
「だから、あまりウィキくんに頼るのもどうかと思って……」
『シュタルクの王族は、他家に嫁いだ姫やその子供まで全員処刑されたそうよ』
「うぇ」
そこまでやる?
たしかベジャイアみたいに内乱にもならないで、貴族と平民が総出で宮殿を取り囲んで、国王を殺したんだったわよね。
国のトップだから責任は国王にあるんだけど、大臣や宰相だっているでしょ? 周りで何もしないで美味しい思いをしていたやつらだっていたはず。
精霊を持つ女性を無理矢理連れて行った貴族達はどうしたのよ。
「バルテリンク公爵も王族と親戚じゃないんですか?」
『ウィキくんを見なさいよ』
「えー」
『バルテリンクは三代前の国王の弟の子孫よ』
「それでも関係者なのに次期国王になるんだ。なんか怪しい」
『だからニコデムスの項目を読んでみなさいって』
声が明るいけど、翡翠は真面目な顔をしていた。
これは言われたとおりにした方がいいやつだ。
「えーっと、ニコデムス……教義を変更? え? 教義って変更していいの? 解釈が違っていたとかそういう? 精霊を育てることを推奨?! 真逆になっているじゃない! そんな重要な変更をしていいの?」
『宗教って、神の伝えたことを元に行動するんだっけ?』
私は前世で、どの宗教も信じていなかったからなあ。
よくはわからないけど、有名な宗教は最初に預言者とか神の子がいて、その人達が神の教えを広めていって始まるのよね。
ニコデムスはペンデルスに預言者が現れて、そいつが人間が神に選ばれた特別な存在で、精霊王は敵だとか、精霊の持つ力だけ使おうと実験したんじゃなかったっけ?
あ、なんか今、嫌なことを思いついちゃった。
「翡翠、もしかして預言者って転生者だったり?」
『ペンデルスとシュタルクは帝国より歴史が古いのよ。帝国が出来た時には、もうニコデムス教はあったの。だから知らないけど、転生者はあなたや賢王みたいに精霊を愛してくれるんじゃないの?』
「いやあ……どうだろう」
一神教の信者だったら?
文明を発展させるのがこの世界のためだと思ったとしたら?
精霊を育てないとその地域の魔力が減って、木々が育たなくなるなんて前世の世界ではなかったから、魔法なんてなくてもいいと思っていたら?
それでどんどん国が砂漠化していって、慌てて精霊の力を解明しようと実験を始めたとも考えられるわ。
『それはタブークの精霊王に聞いてみましょう。元はペンデルスにいたのだから知っているはずよ』
「そうね。えーと、精霊は人間の魔力を与えないと育たず、魔力を分け与えてくれる人間を主人だと考える。主人を守り、命令を聞き、主人のために魔法を使う。つまり精霊は人間の下僕であり、人間に仕えることを喜びとする存在だ。精霊を育てることは、人間が優れた存在であるということの証明にもなる」
『あなたの精霊の育て方の本、読んでないみたいね?』
「こいつらーーーー! 本当にむかつく。何が下僕よ。馬鹿じゃないの?」
拳を握り締めて立ち上がろうとして、なかなか立ち上がれなくて横に転がって椅子から降りた。
人間を駄目にしすぎるわよ、この椅子。一度座ったら立ち上がるのが大変よ。
『いいからもっと先まで読んで。あなたのことが書いてあるはずよ』
「私?」
なんで私? ニコデムスの最強の敵ってことで暗殺対象になってたり?
「人間が精霊王や精霊より優れているということは、妖精姫が証明している?! はあ? 彼女の元に精霊王が集い、新年には挨拶をする。あれは挨拶をしに琥珀の元に行っているのよ!」
『ふふふ。おもしろいでしょう?』
「笑い事じゃないわ。精霊を下僕とすることを広め、精霊獣を多く世に生み出した妖精姫に精霊王は感謝し従っている。妖精姫こそが人間の目指す本来の在り方であり、彼女がニコデムス教の聖女となり、信徒と子を生した時、新たな預言者が生まれる」
もうね、笑うしかない。
私がニコデムス教に協力するわけないじゃない。何を考えてるのよ。
『なんだ、翡翠も来ていたのか』
『はあい。ディアをほっといて何をしていたの?』
ようやく瑠璃が帰ってきた。
私としては言いたいことがたくさんあって、子供のように瑠璃に駆け寄った。
「瑠璃瑠璃、ニコデムス教が私を聖女にするって!」
『学園が始まったら、また帝国に行きたいと言ってきた精霊王が何人かいて……ああ、その話か』
余裕で笑っている場合じゃないでしょう!
精霊王も私に従っているって言っているのよ!
『どういうことだ?』
『ニコデムスがなんで?』
今までおとなしくしていた精霊獣達が、驚いた様子で近付いてきた。
あなた達は私の下僕なんですって。冗談じゃないわ。
私が命を終える時まで、ずっと傍らにいてくれる大事な存在なのよ。
『精霊獣も我々も、おまえの命令に従う存在だと思われているようだな』
『おもしろいわね。今までやってきたことが、見方を変えればまるで違うものになるのね』
「私は命令なんてしたことないわ」
『働けって叫んだじゃない』
でもあの時だって、寝ぐらからルフタネンの精霊王を引っ張り出したのは蘇芳と翡翠よ。
私は叫んだだけで何も言ってないし、してないもん。
『何かいろいろと言っていた気はするが、確かに勝手に我々がやったことではある』
『カミルもいたしね』
そういえば、私と同じく精霊王を後ろ盾にしているカミルは、ニコデムスとしてはどういう扱いにするつもりなのよ。
それに私とカミルの婚約を、どうぶっ壊すつもりなの?
『そういえば母親が探していたようだぞ』
「え? 瑠璃のところに行くって話して来たわよ」
『噂のシュタルクがグラスプールに来ているんだ。それでまた、おまえに会いたいと言っているんだろう』
ほー。さっそく接触してきたんだ。
会ってやろうじゃないの。コテンパンにやっつけてやるわよ。
「ちょっと待って。これを紙にメモっていきたい。ニコデムスの教義変更は、精霊王に教えてもらったって説明させて」
『いい加減、両親に転生の話をしたらどうだ?』
「今、このタイミングで? それはちょっと。いずれちゃんと話すわ」
もっと早く話しておけばよかったのよね。
時間が経ちすぎて、どんどん話しにくくなってしまっている。
「話は変わるけど、精霊王達が学園に押しかけて来るのは駄目よ」
『聞いていたのか』
当り前よ。
学園は学ぶ場所であって、精霊王と面会する場所じゃないの。
自分の国で会いなさいよ。
ベリサリオに戻ったらすぐにお母様が呼んでいると知らされて、急いで家族用の居間に向かった。
部屋にはすでにアランお兄様もいて、ふたりして真剣な表情で話し込んでいた。
「ディア、戻ったのね」
「はい、お母様。何か御用ですか?」
「シュタルクの使者がまた、きみと会いたいと言ってきているらしいよ」
アランお兄様が、ここまで不機嫌な顔をするのは珍しい。
でも気持ちはわかる。
何度も何度も行く気はないと話しているのに、いい加減にしつこいのよ。
「実は精霊王に驚くことを聞きました。ニコデムスが教義の一部を変えたそうです」
お母様とアランお兄様は驚いた様子で顔を見合わせ、アランお兄様が手を伸ばしてきたのでメモを渡した。
受け取ったアランお兄様も横から覗き込んだお母様も、読み進めるうちにだんだん物騒な顔つきになっていき、最後にクシャっと紙を握り潰しかけたアランお兄様をお母様が止めてメモを受け取っていた。
「アラン、転写したものを急いで皇太子殿下に届けて。いい? 最優先事項だと妖精姫が言っていたと言って、会議中でも届けるのよ」
お母様、私の名前を使わなくても、ベリサリオ辺境伯夫人が激おこで最優先事項だと言っていると聞けば、たいていの人は邪魔しませんよ。
普段そんなことをしない分、よっぽどのことだと思うだろうし。
「わかりました」
「ディア、行くわよ」
「はい、お母様。私、今回はかなり怒っているんです」
「まあ奇遇ね、私もよ」
シュタルクの使者が、いったいどんな話をしてくるのか楽しみだわ。