煩悩とマニュアル本
『ディアは本を書けるのか?』
すぐ隣から、落ち着いた声が降ってきた。
身長差のせいで、瑠璃を見上げると真上を見るくらいに顔をあげないといけない。
「私が書くんじゃないの。お友達には読書好きの子もいるから、その子に頼めば書いてくれるかなと思って」
書けるなんて言ったら、あとあと疑われるかもしれないもんね。
みんな、記憶力がいいから失言は要注意よ。
『そうか。……精霊の話を書いてもらいたいと思ったのだ』
「精霊の話? どの国にも有名な話がいくつかあるんじゃない?」
『ああいう夢物語ではない。実際にこの世界で精霊と共に暮らすのは、難しいことでも特別なことでもないということを、人間はもっと知るべきだと思うのだ』
「ああああああ! それいいわ。さすが瑠璃!」
『そ、そうか?』
思わず瑠璃に飛びついた。
マニュアル王国日本から転生したというのに、私は何をやっているのよ。
薄い本を出すより前に、やらなくてはいけないことがあるじゃない。
「出しましょう! あなたもこれで精霊と生活出来る。一目でわかる精霊の育て方教本!」
『教本?』
「そうよ。物語ではなくて、具体的な育て方について説明した本を出すの」
自分から言い出したくせに、瑠璃はよくわかっていないようだ。他の精霊王なんて、私が瑠璃と楽しそうに話している様子を、ほほえましく眺めている。
どっちかっていうと帝国よりあなた達の国で必要な本なんだよ?
「ディアやアランが、いろんな街に行って教えていた話をまとめるのか?」
「さすがクリスお兄様。その通りですわ。子供でもわかるように絵を多くして、具体的に……たとえば、精霊がこのくらいの大きさになったら話しかけるようにしましょうとかね」
顔の前で両手で小さな円を作ったら、なぜかジンが精霊の姿に戻って、円の中に入ろうとした。でももう精霊獣になっているジンでは、精霊の姿になっても大きすぎて収まらない。
「ジンくらいの大きさだとこのくらいかな?」
円を大きくしてあげると、楽しそうに何度も通り抜けては戻るを繰り返している。可愛い。
「基礎の基礎から簡単な言葉で簡潔に。黄色はどの属性で、育てるとどんな魔法が使えるようになるとか、どのくらい精霊が増えると農作物が育ちやすくなるとか。どのくらい魔法が使えれば、いくつの属性の精霊が育てられるかも知りたい人が多いと思うわ。魔力が少ない平民でも一属性くらいなら、精霊に毎日魔力をあげられるでしょ。精霊獣に育てるのには十年くらいかかってしまうかもしれないけど、それでも育てたい人もいるだろうし、ちゃんと魔力をあげていれば、精霊のままでもいい関係を作れると思うの」
「なるほど。文章が少ないなら翻訳も楽だろう。他国でも使える本になるな」
精霊大好きなパウエル公爵は、とっても乗り気のようだ。
現物がないとピンとこない人もいるだろうけど、これから精霊を育てる子供達や、今、育て方で悩んでいる人達に役に立つ本なのは間違いないわ。
「クリスお兄様、文章を考えていただけません?」
「統計をまとめるのは手伝えるけど、子供にわかりやすい文章というのは……」
「エルダに頼んではどう? あの子は小さなころから、いつも本を読んでいたじゃない」
お母様、あれはうちの兄妹の会話や行動について来れなかったエルダが、他にやれることがなくて本を読んでいただけですわ。
読書は好きだと思うのよ?
でも、チートなお兄様方や、アクティブに動き回っていた私についていけなかったと、最近になってエルダが教えてくれたの。
いつも冬には何か月も城にいたものだから、エルダをお客様だとは思っていなくて、それぞれ自分のやりたいことをやっていたのよね。
「そうだね。エルダに声をかけてあげてくれ。ディアの話し相手になればとブリス伯爵が城に寄越してくれていたのに、エドキンズ伯爵の姉妹ばかりが重用されていると思われているようだ」
は? 冬の社交シーズンで家族がみんな皇都に行ってしまうから、うちで預かっていたんじゃないの? 私はそう聞いていたわよ。
「ブリス伯爵家は、今でもベリサリオの一番の家臣のつもりなんだよ。伯爵も父上の補佐のつもりで皇宮に詰めていたんだ」
クリスお兄様の説明を聞いて納得した。
ブリス伯爵もエドキンズ伯爵も、帝国の一員になる前はベリサリオの下で領地を治めていたんだった。いまだに年配の人の中には、皇族よりベリサリオが大事って人もいるのよ。
優秀なブリス伯爵は、皇宮で財務官関係の要職についているけど、自分はベリサリオ派だと明言している人だ。ついこの前まで、うだつの上がらなかったエドキンズ伯爵ばかりが、私達と共同事業をしたり、娘が私の側近になって、しかも公爵家に嫁ぐなんてウルトラCをかましたんだから、そりゃ心中穏やかじゃないだろう。
「わかりました。エルダに相談してみます」
「精霊省にも声をかけて巻き込んだ方がいいぞ。今年から、魔道省にいた魔導士長と副魔導士長が精霊省の責任者になっているからな」
「ええ?! なんでまた」
「すっかりおまえの影響を受けて、精霊獣についてばかり研究しているからだ」
なにをやってるのかね、彼らは。
魔道省は魔法の研究と魔道具の研究をする部署でしょ。
「自分達でディアの子分だと言っていたからな。ベリサリオの息のかかった者が、いくつもの部署を治めてはまずいんだ」
皇太子が額を押さえてため息をついているけど、大丈夫かな。
まだこれから夜まで、びっしりとスケジュールが詰まっているはずなのに。
「魔道省はラーナー伯爵が魔導士長となった。彼も空間魔法を使える優秀な魔導士だ」
デリルのお父様が魔導士長か。
あそこはコルケット辺境伯と親戚だもんな。
どっちにしても、どの辺境伯も勢力を伸ばしているってことね。
「近衛騎士団の公開訓練日に見学に行く予定ですので、精霊省にも顔を出しますわ」
近隣諸国にマニュアル本を配って、それで精霊を手に入れる人が増えれば、ニコデムス教を信じる人がきっと減るだろう。
精霊がいるとどうなるか。いないとどうなるか。
遠い帝国の話じゃなくて、身近な問題なんだと気付いてもらいたい。
それにしても、瑠璃に言われるまで気付かなかったなんて、発想力がすごいと言われてきた私としては一生の不覚よ。
煩悩が憎い。
この世界でも大晦日に鐘をついてもらおうかしら。
あ、もう年が明けたんだった。今年一年は煩悩を払えないわ。
煩悩まみれの十歳の美少女、ディアドラです。
この煩悩をまき散らして、御令嬢を何人か沼に引きずり込む計画中です。
◇◇◇◆◇◇◇
煩悩はちょっと置いておいて、今はやらなくてはいけないことが山積みよ。
皇宮に帰ってすぐ、ベリサリオ以外はアンドリュー皇太子を中心に広場前のバルコニーに立って、祝いに来た国民に顔見せをしなくちゃいけない。皇太子は簡単なスピーチもするのだ。
ベリサリオからはクリスお兄様だけが参加する。
お父様は領地に戻って領主としてのお仕事に専念するそうで、今日は朝から上機嫌だ。
皇族がバルコニーに立つ間も、城で一番広い大広間では舞踏会の準備が行われている。
もう身分の低い者から入場も始まっているようだ。
「うええ。お母様、地味にしてくださいって言ったのに、この布、光が当たると金色に見えます!」
「大丈夫よ。周りはもっと派手だから、そのくらいは地味よ」
うそつけ! 白を基調にしたデビュタントの方々と対照的な色合いじゃない。
やめて。どさくさに紛れて、でかい宝石のついた髪留めを留めようとしないで。
「清楚なイメージのほうが妖精姫にふさわしくありませんか?」
「いまさら?」
アランお兄様を殴ってもいいかしら。
「デビュタントの人達が最後にまとめて入ってきて最初のダンスを踊るのを、おとなしく見ていれば大丈夫よ。それにきっと皇太子殿下の婚約者候補のふたりのほうが目立つわよ」
「発表するんですよね?」
「そうね。当然クリスの話もするし、ランプリング公爵とミーア、エルトンとイレーネの婚約も発表されるはずよ」
わーーい。成人した御子息御令嬢のお祝いなんて、霞んでしまうほどの爆弾が投下されるぞー。
失意のどん底に落とされる人達が何人も出るぞ。
「確かに目立ちませんね」
それに比べたら、私のドレスなんてどうでもいいわな。
「用意がお済みでしたら移動をお願いします」
控室に案内役の人が迎えに来たので立ち上がり、ドレスの皴をチェックしてから部屋を出た。
普段使っている皇宮内のベリサリオに与えられた部屋じゃなくて、大広間近くに用意してくれた今回のための控室よ。
部屋から出たら、そのまま待機することなく大広間にはいっていけばいいの。
もう他の貴族達は全員、広間の中に入っている。
ベリサリオの前に入場したのはパウエル公爵みたいだ。
入場の順番や広間で立つ位置で、その時の名声や権力の度合いがわかってしまうから、特に新年一回目の公式行事はシビアなものがある。
クリスお兄様は別行動なのでアランお兄様にエスコートしてもらって、両親の後ろを歩いていく。
ちらりと背後に視線を向けたら、カミルとキースとサロモンが控室から出てくるのが見えた。
ルフタネンの民族衣装はアロハじゃないわよ。
胸から腰まで独特な刺繍がされている膝下までの長い黒い上着姿が正装みたい。Aラインて言えばいいのかしら? 上着の腰から下はゆったりとした作りで、黒いブーツを履いている。ハイネックのシンプルなシャツだけは、カミルが白でキースがグレー。サロモンが赤だから身分によって違うのかもしれない。
そして三人とも布をマントのように左肩にかけている。細工のされた飾りで留められた布を背中に長く垂れさせて、端をベルトの右脇部分で留めるのがルフタネンの正装では欠かせないんだって。
民族衣装って、その国の人が最高に似合う服装だよね。
三人とも顔がいいから、格好いいったらない。
でも白い上着を着て王子様みたいだったクリスお兄様も、ほとんど黒に見えるくらいに濃い紫の短い上着を着たアランお兄様も、負けないくらいに格好いいから。
入り口近くは下位貴族の人達ばかりなので、私には名前のわからない人が多い。
それでも通路のために開けられた場所近くにいる人達は、挨拶を多く受ける人達、つまりその身分の中では力のある人達だ。後ろのほうの人達になると、女性なんて埋もれてしまって頭頂部しか見えなかったりする。
伯爵の人達が並ぶ位置まで来ると、知っている人が一気に増える。同級生も何人か見つけた。
年が明けたからマイラー伯爵は侯爵になったので、もっと上座に移動してるな。
エドキンズ伯爵も侯爵のすぐ近くの位置にいるみたいだ。
ブリス伯爵とリーガン伯爵が並んでいたのでお父様が声をかけた。
エルトンは皇太子についているのでこの場にはいなくて、ここにいるのは長男のエルマーとエルダだ。
エルマーは十九歳。婚約者が来年卒業するのを待って結婚するらしい。
婚約者はベリサリオの下にいる子爵家の令嬢で、髪の色も目の色もお父様と同じ。つまり典型的なベリサリオの民の姿をしている。
親子揃ってベリサリオがそんなに好きか。民族に誇りを持つのはいいけど、私を姫と呼ぶのはやめてほしい。
「エルダ、今年も学園が始まるまでうちにいるの?」
「その予定よ」
「よかった、相談したいことがあったのよ。あ、イレーネも読書が好きだったわよね。暇なときに相談に乗ってもらいたいわ」
「ディアの予定に合わせるわよ」
このふたりを巻き込めば、精霊育て方マニュアルはどうにかなるだろう。
他まで巻き込むかは、その時の反応を見て決めようかな。
「姫、エルダは役に立っていますか?」
だから姫はやめろ。
「皇都に住むとはいえ、イレーネはベリサリオに嫁ぐようなもの。今後もよろしくお願いします」
「姫のお友達が息子に嫁いでくれるのは光栄です」
「いえいえこちらこそ、優秀な御子息に選んでいただけて娘は幸せ者ですよ」
リーガン伯爵の傍にバートの姿はなくて、まだ九歳のイアンがいる。
バートは今年成人なのに、例の問題の責任を取って出席しないらしい。
それでもあいかわらず、牛の世話ばかりしているんだそうだ。もうそこまでいくと褒めていいんじゃないだろうか。そのうち牛と結婚すると言い出しても、私は驚かないぞ。
魔導士長になったラーナー伯爵とも挨拶を交わして、すぐに移動。
子息のデリルとは同級生だけど、ほとんど話をしたことがないんだよね。空間魔法を覚えていないことで、私をライバル視しているのかもしれない。
両親はいろんな人に会釈しているけど、このあたりになると知り合いばかりだからきりがない。
どうせ後で、いくらでも話をする時間はあるから、どんどん先に進んでいく。
侯爵家と伯爵家の境のあたりに、エドキンズ伯爵とマイラー侯爵が並んでいた。
この組み合わせは濃いわ。
あまり知り合いのいないカミル達が追い付いてきたので、アランお兄様とヘンリーが彼らと言葉を交わして、私はミーアとネリーとエセルと挨拶して、顔をあげて前を向いたらカーラを見つけた。
いつもならノーランド辺境伯家と一緒にいるヨハネス侯爵家が、今年は侯爵家の中程に並んでいる。
ノーランド辺境伯はモニカが婚約者候補になっているので、侯爵家のすぐ隣の位置にいて、その隣にオルランディ侯爵とコルケット辺境伯がいた。
「カーライル侯爵、御無沙汰してます。ようやく領地に戻れますよ」
うん、そうするだろうとは思っていたけど、お父様はあからさまにヨハネス侯爵家を無視してカーライル侯爵に声をかけたわ。
これでヨハネス侯爵家とベリサリオ辺境伯家の不仲が、この場にいる全員に知れ渡ったな。
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