第4話 吟遊詩人と法界王都
私は旅の行き先を運に任せ、行き掛かった荷馬車に乗せてもらい、何も考えずに青い空を眺めていた。手綱を握る初老の婦人は食器や花器の行商だと言う、にこやかで少し太った、気品のある婦人だった。
「今日は気持ちいい透き通った、青くて良い匂いですね」
「レラに向かっているのか?」
「ええ、そりゃ。世界で一番買い手が付く市場ですから」
この世界は法力の根源である世界樹と魔力の源泉である魔界樹によって二分され、空を見上げれば大体の居場所が分かる。世界樹に近いほど青く、魔界樹に近づくほど空は赤くなる。魔界の風は湿ってどこか生暖かく、法界にはうすら冷たいような乾いた風が吹く。法界を愛する者たちは『青い匂いがする』と、その風を好き好んで深呼吸をする。
「都会は嫌いだ。うるさくて、ごみごみして、時計が速く回るようで」
それに教院の連中がうようよいる。とは言いかねた。この女が教院、四皇院の教徒だったら馬車を降ろされるだけでは済まない可能性がある。
「そういう方は商売人には向きませんね」
「弾き語りにも向いていないらしい」
世界樹の麓にあるレラは人間たちの聖地であり最大の都市だ。農業から産業、戦争から家庭料理に至るまでどこでも重宝される法力、その法力の増幅器や触媒となる『法石』がもっとも多く産出されるこの地に法族が根付くのは、至極自然な成り行きと言える。
「弾くだけなら一人でもいいですが、一人で語るのは詰まりませんからね」
「……そういうものか?」
「そんなものですよ」
一人で弾くのは有意義で、語るのは無意味? どうしてそうなるのだろうか? その命題は真と言えるだろうか?
永く生きても新しい発見はそこかしこに散らばり、それらは感性さえ錆びつかせなければ知恵の糧になる。私はしばらく惚けて、その言葉を反芻して熟考した。
「着きましたよ詩人さん。寝ていましたか?」
「いや、もう着いたのか」
「ふふっ。半日近く走りましたよ。きっと、知らずにうとうとしていらっしゃったんだわ」
空を見上げると半分は深海のように深い瑠璃色に覆われ、半分は眩いほど青く光る世界樹だった。法界の夕暮れの色合いだ。この青も、魔界の赤の夕暮れも私は好きだ。刹那的で美しいから。
都会の忙しい流れに身をおかなくとも、永く生きているだけで時間の流れは速くなっていくのかもしれない。このまま時間の流れだけが加速して、私だけが死ねなかったらどうなってしまうのだろうか。
「助かった。乗せてもらう前にも言ったが、駄賃になるようなものはないんだ」
「ええ、ええ。行き掛けですから構いませんよ。今年の英霊祭で稼がせてもらいますから」
「そうか、時期がちょうど……」
年に一度の祭典だったらしい。高い塀に囲まれたレラを見ると、心なしか熱気に包まれている気がする。
「式典は三日後ですよ。もし気が向いたら私たちの器でも見て行ってください。明日の朝から中央広場の西側で出店しますから」
「気が向いたら」
私は会釈して老婦人と別れた。金もない放蕩者がアンティークを見に行っても冷やかしにしかならないだろう。
「さて……引き返すか」
高い壁に囲まれた城門の中からは早る祭り気分を隠さない、浮かれた騒ぎ声が聞こえてくる。これが三日後まで日増しに騒々しくなるのだ。ナンセンスである。
ところが踵を返した私の目の前に、見知った顔があった。
「旧知に会うのは嬉しいものだな。例えそれが気の合わない友人であっても」
「クライン、久しぶりだな」
思わぬところで小魔王ニケの四天王に出くわした。クラインは無口で無愛想で何を考えているのか分からない男だ。魔族の高官を務める男なのでおそらく魔族だろう。それくらいの事しか知らない。見た目は非常に人間に近く、私よりもやせ細って身長が高く、手足も細長い。いつも糊のきいた高級そうな漆黒のジャケットとスラックスを着込み、長い黒髪を後ろで結んでいる。その目にはいつも深い紫の隈がある。
そして彼の言う通り私とクラインはどこか馬が合わない。
「意外だな。お前はこういうの嫌いだと思っていたよ、詩人」
「嫌いだ。だから逃げ出そうとしている」
「そんな事だろうとは思った」
クラインは喉だけ低く鳴らして小さく笑った。私は魔族である彼がこの世界樹まで来た理由が気になっていた。合理主義者のクラインらしい理由が一つだけ思い浮かぶ。
「式典の当日にレラを攻めるつもりか」
「そうしたいのが本音だが、部下の連中は近所に来るだけでへたり込んでダウンした。こっちの空気が想像以上に障るらしい」
クラインと私は夜空、深い青空を見上げた。この青い光が、青い匂いが、世界樹の放つ法力が、魔族にとっては毒になる。魔界ではその逆が起こるため、稀有な法力を持ち合わせた勇者だけが魔王に挑む資格を持つ。
クラインほどの実力者ならこの無臭でありながら劇薬のような世界樹の風も問題ないのだろう……と言っても、私は彼が戦う姿を見た事が一度もない。
「ではなぜ」
「無粋な男だな相変わらず。観光だよ観光。法界の美と知と歴史はここレラに集約される」
「祭りの最中に来なくともいいだろう」
いつも無愛想なクラインは首をほんの少しだけ傾けて、疑問を示した。
「歴史は嫌いか? 冠婚葬祭には歴史と文化が凝縮されている」
相変わらず不思議な男だ。小魔王ニケは法族を殺す事を全く奨励していない。だがクラインだけは法族を滅ぼす事に誰よりも躍起になっている。それにも関わらず法族の文化を学ぼうとしている。
「滅ぼす相手の文化を学んでどうする」
「滅ぼそうが滅ぼされようが、そうやって淘汰される中で切れずに紡がれる強い糸こそが歴史そのものなんだよ。俺は歴史が好きなんだ」
矛盾を多く含む様で、しかし論理が不可解なほどの説得力を持っている事実に私は少し困惑し、立ち去ろうとした……逃げ出そうとしたのかもしれない。
「私はもう行く」
「俺はいま気分がいい。一仕事片付いて、血の気の多い部下からも解放されて……酒ぐらい奢ってやるぞ?」
この意外すぎる提案を承諾する理由はなかったのだが、振り返ってレラの大通りを見ているうちに、ふとアニスティに語った昔話を思い返した。
シェラハの死を看取った日以来、私は彼女を見ていない。三日待つだけで彼女の姿を久しぶりに臨めるかと思うと、それも悪くないという気がした。