第37話 吟遊詩人と天地創造
散々泣き腫らしてから私はようやく異常に気がついた。無くなったはずの体があるどころか、目からは温かい涙が止まらず、嗚咽で喉が痛かった。
痛みと涙、どちらも私の長い人生で初めての経験だった。
空に吸い上げられる暗黒を追って顔を上げると、私は見た事もない世界に引き上げられた。涙でぼやけた景色は空と大地が緑色だった。空を覆い隠す木々の葉は太陽を透かす淡い緑、足元に茂る草花も鮮やかな緑。
緑色の植物、これも私の人生で……いや、世界で初めて生まれた存在に違いない。
緑は闇さえも吸い上げ、私はケルの底でいられなくなっていた。初めて見る緑の世界に見とれていたが、涙は止まらず、ずっと景色が滲んでいた。感動や驚嘆を置き去りにして、私は心を奪われてしまった。
ケルさえも吸い尽くした緑の植物はまだ物足りなそうに、太陽の光さえ飲み込むように空を仰ぎ、風に揺られている。少し遠くに草花に囲まれた墓が見えた。シェラハの墓まで笑っているようだった。
「これが世界の未来のために大切な事」
私はニケとコトルの笑顔を見た。よく見ればニケの身長は伸び、コトルの少年じみた顔にはうっすら皺が見える。二人はまっすぐ緑の木々を見上げ、まるでこの成果が嬉しくて嬉しくて、誰かに伝えたくて我慢できないかのように笑い合っている。
「これが未来」
目前に拓けたこの光景こそシェラハが、ニケとコトルが夢見た未来なのだ。この笑顔に疑問の余地なんかない。彼らは……未来を変える花を確かに咲かせたのだ。
私は嬉しくて涙が出た。間に合わなかったと絶望したが、そうではなかった。私が間に合わせるのだ。
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それからの長い年月を私はその荒野で没頭した。私の居場所はここしかなかった。出会う生き物を全て殺す私にとっての唯一の例外、私の闇さえも栄養にするこの植物達の面倒を見る事が、いままで殺してきた生き物への償い……いや、未来へ彼らの命を繋ぐ唯一の方法なのだ。
それだけではない。私は昼夜を問わず水を引き、交配を試み、植物が育つシステムを考えた。小屋の地下にはニケとコトル、そしてシェラハが残した膨大な書物が埃を被っていたので、研究には事欠かなかった。
色褪せ、埃とカビで滲んだシェラハの絵本、いつか聞いた泣き虫の絵本も眠っていた。絵本の中のコミカルな主人公はおどけて本当に馬鹿だった。最後に自分を磔にしてから、ようやく自分のやった事の無意味さに気づくのだ。
『
少年はわんわん泣きました。その大きな目、触れるだけで命を奪う青いひとみをもっと真っ青にして、涙が海になっても泣き続けました。
やがて背中の柱は根を張って、涙の海を吸い上げて、大きな大きな青い樹になりました。
それでも少年は泣きやみません。大きな樹が手足を縛る綱をちぎっても、ずっとずっと泣き続けました。
ゴトンッ
大きくて青い樹の実が頭にぶつかった時、少年はやっとその樹を見上げて泣き止みました。それは少年が初めて育てた命だったのです。
「みんなが食べられる木の実が育つように、僕がこの樹に水をやろう」
この樹はもっともっと大きくなって、青く青く育って、今でも雲の上から世界を見守っています
』
……この少年は馬鹿で、私にそっくりだ。
緑の木々を調べる過程で分かってきた植物群の特性は、知れば知るほど奇妙だった。魔と法の通う地には根付かないのに、一度根付けば魔と法、それどころか闇や太陽、土さえも養分にしてしまうのだ。これでは今日に至るまで繁殖していないのも納得だった。
魔も法もないこの荒野に根を張り、ニケとコトルという類い稀な魔法を吸って、初めてこの奇怪な生き物は荒廃した大地に実を結んだのだ。そして一度根付きさえすれば、それは不滅の存在かと思われるほど強かった。火で焼かれても、次の年にはその灰を栄養にしてより強く育った。
私にはこの植物たちがどう世界を変えるのか全く予想できないが、世界を緑で埋め尽くしたい情熱に駆られていた。どうしてもニケとコトルという二人の奇跡が残した種子を無下にはできなかった。
それと同時に、私の体に不都合な変化が生じていた。ゆっくりとではあるが、年を取り始めたのだ。それは歯痒かった。時間さえかければ彼らは答えてくれるのに、同時に私の時間がすり減っていく。死ねない自分に辟易していたのに、今は時間を惜しみ焦っている。私は死に急ぎながら、同時に感動していた。
これが生きるという事なのだ。
私は『生きている』という実感を植物と分かち合っていた。私が時間を割いた分だけこの植物は呼応してくれる。まるで私の時間さえも糧に育っているようだ。私だけではない。もう何代目かもわからない、多種多様な彼らはニケとコトルの子供でもあり、ヴォルゴーとシェラハの血を引いている。そう思うと愛おしくて仕方がなかった。奪った命を少しでも未来に還元したい、私はその一心で熱中した。
木々の種類は本当に多岐にわたり、草花は多彩に色づき絢爛だった。千変万化する特性はまるで魔法だった。
逞しい品種、強い種子、多様性に富む植物を育て、私は改良を重ねた。色にも拘った。赤と青はもちろん、黄色やピンク、どうしてそんな色になるのか分からないほど色鮮やかな品種もあった。背の高いものから低いもの。種の軽さと重さ。繁殖地域と繁殖方法、好む気候と風土、太い幹のものから細い蔓状のものまで……ありとあらゆる可能性を模索した。
私はその木々で楽器を作り、植物に聴かせたりもした。自分で育てた木々で作る楽器が愛おしかったし、そのための植物も品種改良を続けた。新しく木管の笛や打楽器も多く作った。
新しい木で奏でる音楽は不思議と新しい音色で、新しい曲が湧いてきた。そしてそのどれもが悲しさとは程遠いリズムを奏でた。誰かに聴かせたいと思える曲が次々と出来たので、私はそれらを楽譜に取り止めた。その多くが合奏だったので私の二本の手では弾けなかったが、それでも構わなかった。
悲しい曲を弾くのは簡単だった。自分の過去やクレイディアの事を思い出すと、それは自然と辛くて悲しい音楽になる。ただ、その音の中にさえ愛おしいと思う気持ちが含まれて、どこか柔らかい音色になった。
さらに長い年月が過ぎた。どれだけ経ったか見当もつかない。私は生え抜きの種子を集め、それを蒔く旅に出る事にした。必要なだけの種子を集めるだけでかなりの時間を要したように思う。小屋の周りは鬱蒼として、鳥や獣の鳴き声で煩かった。
私はその賑やかな森が大好きだった。




