十七章 闇の中の答え 3
「この調子でいけば、明日の今頃は酒場で裸踊りだ」
聞き覚えのある、あの男の太い声が嬉々としてそう言った。ルースター・コールズの元首領、ヴァークスだ。スクリーンには確かに、宿屋の一室でのんびりと椅子に座ってワイングラスを傾ける、ヴァークスのずんぐりとした体型が鮮明に映し出されている。
そこは木造の古びた宿屋だった。激しく雨の打つ窓ガラスには縦に大きなヒビが入り、どこからか隙間風が入り込んでビュービューいっている。丸テーブルに置かれたランプが、埃っぽい部屋とヴァークスのひげもじゃの赤ら顔をチラチラと照らし出していた。傾いた洋服タンスの脇に置いてある垢だらけの薄汚れた鏡の中に、アーチャがいた。かび臭いソファーに深く腰掛けてこちらを見つめている……。
「屋敷の警備も手薄な所が多いし、こりゃ思ったより楽勝かもね」
鏡の中のアーチャが笑顔で言った。その返答を心待ちにするように、映像にはヴァークス一人だけが映し出された。
「気を抜くのはおめえの悪い癖だぞ、アーチャ。標的が犬小屋みてえな所でも、油断大敵だ」
「酒場の裸踊りはどうなのさ?」
ヴァークスの凄みの利いた眼差しがスクリーンを突き抜けてアーチャを睨んだ。
「大会優勝の前祝いだっての。楽しみを蓄積させることは、気分の高揚につながるんだ。……そろそろ飯にするか」
ヴァークスはテーブルの足元に置いてある大きなリュックサックを指差し、そう言い添えた。映像が上からのアングルになり、ヴァークスの金たわしのような頭髪を見下ろすことになった。
「その前に、あの我がまま三人娘から何か連絡が入ってないか、フロントへ行って確かめてみる。すぐに戻るから、そうしたら飯にしようぜ」
声だけがそう言い、足音が部屋に響き渡った。扉、薄暗い廊下、急な下り階段、だだっ広いホール、フロントと笑顔の係員……映像がみるみるうちに変わり、その度にアーチャの中の忘れられていた記憶が掘り起こされていった。やがて、また声が聞こえた。
「ピゲ族から何か連絡はない? 電話でも、手紙でも、何でもいいんだ」
係員の女は奥の部屋に引っ込み、小さな黒い手帳を手に持ってまた現れた。
「そういった方からの連絡は一切ございませんが?」
女は笑顔のまま言った。アーチャの声が「ありがとう」と礼を言い、場面はまた空虚なホールへと戻っていた。行きよりも快活な足取りで階段を一段一段踏みしめ、アーチャは再び廊下へと足を踏み入れた。その時、ヴァークスの沈んだ声がかずかに聞こえてきた。誰かと喋っているようだ。
「……はい、今からやります」
アーチャは、この時自分が、聞きなれないヴァークスの敬語に不信を抱いていたのを、今はっきりと思い出した。映像は開け放たれた扉からこっそりと部屋を覗き込むように映し出された。部屋の一角を見つめるヴァークスの姿が目に止まった。
「……用意した飯に睡眠薬を混ぜてあります。熊でも三日は眠り続けるという強力なものです」
映像が停止したようにピタリと動かなくなり、アーチャは背筋が凍りついた。
「嘘だ」
思わず出た一言だった。
「嘘なんだろ、ヴァークス?」
アーチャはスクリーンの中のヴァークスに向かって叫び続けた。返答はなく、代わりに別の声が聞こえてきた。
「彼の血を熊と一緒にしてもらっては困りますけどね……でもまあいいでしょう。私がいれば何の問題も生じません」
それははっきりと聞き覚えのある、あいつの声だった。アーチャがそうしてくれと願ったとおりに、スクリーンの映像が少しずつ動き、部屋の中をより鮮明に映し出した。部屋の隅に立っていたのは、紛れもない、ジェッキンゲン・トーバノアだった。いつものケバケバしい服装の上に華麗な笑みを浮かべ、ヴァークスをその高い鼻の上から優越そうに見下ろしている。
「それで……その……」
ヴァークスの態度が急にたどたどしくなった。
「約束の報奨金のことなんですが、もうちょっと上げてもらえませんかね?」
ジェッキンゲンのさげすむような笑みに拍車が掛かったのをアーチャは見た。ヴァークスのいやしい瞳がすがるようにジェッキンゲンを見つめていた。
「ボランティア団体と装ってあの怪物に近づいてから、一年も耐えてきたんですよ! いつ殺されるかも分からない恐怖の中で一年もですよ? やっとここまで追い込んだんです、もう少しだけ……」
ほんの一瞬だけ映像が乱れ、次には、すぐ目の前にヴァークスの後ろ姿があった。
今のアーチャにも、この時自分が何を考え、何をしようとしていたのか、よく分かっていた。アーチャを孤独から救ってくれたヴァークス、とても頼りになるヴァークス、そして、アーチャを売ったヴァークス。そのどれもが憎かった。その手で殺してやりたいほどに、憎く、そして、悲しかった。
「ヴァークスを殺したのはお前だったんだ、アーチャ」
スクリーンに映し出される悲惨なシーンをじっと見つめたまま離さない、怒りと悲しみに満ち満ちたアーチャのその耳元で、男の声が言った。アーチャは呆然としたままスクリーンを眺め続け、血のほとばしる鏡の中の自分と静かに向き合っていた。
鏡の中でたたずんでいるのは、まさに悪魔だった。全身を覆う紫色の皮膚、鋭い爪先から滴り落ちるヴァークスの血、黒い大きな翼と先端の尖った大きな耳……闇の中で己を見つめる、何者も寄せ付けないその凍りのように冷たい、青い眼。
「あれが……俺か……」
アーチャは、すべてを受け入れるような穏やかな口調で呟いた。
それからすぐ、スクリーンの中で新たな動きがあった。変わり果てたアーチャが鏡の中で後ろから後頭部を殴られたのだ。映像がグルリと向きを変え、背後に迫っていた大勢の兵士たちを捉えた次の瞬間、映像はもうソファの下だった。どうやら、ジェッキンゲンが背後から何か魔法をかけ、アーチャを埃まみれの床に突っ伏させたらしい。
「魔法で筋肉を麻痺させましたので、いずれはまぶたさえ開けていられなくなる。人のことは言えませんが、後ろから殴りかかるのは反則でしょう」
ジェッキンゲンの高らかな声が言った。スクリーンには次々と兵士たちの足元が映し出され、その映像いっぱいに埃が舞い上がった。
「すぐに海底へ連れて行きなさい。でもそーっと、慎重にですよ。大事な大事な私の宝物なんですからね!」
映像はここで途絶え、ジェッキンゲンの鼻に付く気取った声すら聞こえなくなった。アーチャは空っぽな表情で真っ暗なスクリーンを眺めていたが、やがて映像が再生され、そこにジェッキンゲンともう一人、ゼル・スタンバインの姿が映し出された。アーチャは目をパチクリさせた。
「ようこそ、我が軍の秘密基地へ」
ジェッキンゲンがこちらを見下ろしながら言った。そのすぐ右隣で、ゼルが沈痛な面持ちのまま突っ立っている。二人の頭越しに、錆びれて黒ずんだ鉄製の格子が列を成して立ち並んでいるのがうっすら見えた。どうやらそこは、アーチャが先ほど訪れたあの牢屋らしい。
「てめえ……ヴァークスと一緒にいた野郎だな」
アーチャの声が牢屋に荒々しく響いた。ジェッキンゲンの白い歯が闇に映えた。
「血の気の多さ、殺意に満ちた目、その美麗な容姿、恐るべき力。すべてにおいて、他の追随を許さない完璧な種族。しかし、そのままでは力が強すぎる……この私を上回るほどにね」
闇の中でジェッキンゲンの両手が赤く輝き、炎のようにギラギラと揺れた。
「そこで私はひらめいた。君をジャーグ族とヒト族の二つに分けてしまおう、と。君たちジャーグ族はその邪悪な姿を隠すため、日頃からヒト族でいられるようにしていたみたいですしね。だからやり方さえ心得ていれば、ほら」
ジェッキンゲンの赤く輝く両手が無抵抗なアーチャに向かって伸びていき、スクリーンに映っていた映像が一瞬にして切り替わった。アーチャが見つめるのは、壁にもたれて座り込む、抜け殻も同然のもう一人のアーチャだった。
「スタンバイン。このヒト族をどっかの部屋に放り込んでおいて。面倒なら殺しても構わないけどね」
「いえ……ドレイとして働かせましょう。一人でも多い方が作業ははかどります」
「まあ、それもそうですね。とりあえずこっちの方は、その時が来るまでこのまま閉じ込めておくのが無難でしょう。強大な力を持ってしても、この二人が揃わなければその力も発揮できまい」