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十六章  再び海底へ  4

 ひやっと冷たい空気が露出した肌に触れ、毛を幾本か逆立たせた。闇にうっすらと浮かび上がるランプの明かりが、圧迫するような狭苦しい部屋を照らし出し、アーチャたちにそこがどこなのかを再認識させた。出口となっていたのは、アーチャとアンジが寝床として使っていた懐かしの(ここが思い出の地になるなんて、アーチャやアンジにしてみればこの上なく腹立たしいことだった)、あの無駄に長い通路のような部屋だった。作業時間だからなのか、今は誰もいない。


「さて……と」


 手をこすり合わせながら、アンジが出し抜けに言った。


「別行動といきますか。アーチャは牢屋へ、俺は捕まってるドレイたちのところへ」


 出口へ向かって歩きながら、アーチャはニンマリ笑ってアンジを振り返った。


「やっぱり、イクシム族をここから出してやるつもりだったのか。そんなことだと思ったよ」


 アーチャは通路へと顔を突き出し、誰もいないことを確認すると、そう囁いて更に歩き続けた。


「同種だけじゃない。ドレイ全員だ」


 アンジのその言葉に、アーチャは思わず立ち止まりそうになった。


「そうか……そうだったな」


 アーチャは、ドレイ全員をここから脱出させるなんて無謀な考えだと思ったが、アンジからその言葉を聞けて、とても嬉しかった。かつて、イクシム族のやり方だけを主張してきたアンジだったが、今はもう違う。誰にでも誇れるような、立派な志を持ったアンジがすぐそこにいた。


「やっぱり誰もいないな……」


 鏡面のような湖が中央に張る聖地をそっと覗き見ながら、アーチャはアンジに囁いた。ギービー族の大暴走が巻き起こってから数週間、聖地は何事もなかったかのように静まり返り、今や辛酸な思いのみが流浪するだだっ広い空間に過ぎなかった。だが、これはむしろ二人にとってチャンスだった。


「いいか。それぞれの目的が成し遂げられたら、前のようにグランモニカの所へ行くんだ。あの人なら、きっとまた助けてくれる」


 アンジは肩をすくめて微笑した。


「気ままにお出かけしてなきゃいいけどな……じゃあ、後で」


「……アンジ」


 アーチャは出発しようとするアンジの太い腕をつかんだ。アンジのつぶらな瞳が、その剛勇な眼差しと共にアーチャに向けられた。


「死ぬなよ……絶対死ぬなよ」


 不器用な感情表現しかできないアンジのその表情に、アーチャが今まで目にしたことないほど清々しい笑顔があった。


「ああ、分かった。また地上へ戻ろう。今度はみんなと一緒に」


 アーチャにはそれだけで十分だった。

 二人はそれぞれの道を走り出した。アーチャは真っ先に、四時の方向にある牢屋へと続く通路に向かった。通路に入ってすぐアーチャの足元に現れたのは、見覚えのある横幅の広い急な階段だった。アーチャはなるべく足音を立てないように気をつけながら階段を下り、ゼルの言っていた一番奥の部屋まで迷わず突き進んでいった。

 この闇の向こうに何が待ち受けているのか? ジャーグ族とは何なのか? その答えを見つけるべく、アーチャはどんどん歩いていった。やがて、牢獄の突き当たりまで到達したアーチャが見たものは、鉄格子で区切られた牢屋だった。周囲の牢屋と大差ないように見えるが、唯一、他と明らかに違う点があるとすれば、それは中から人の気配を感じ取れることだろう。こちらを見つめるわずかな視線を捉えることができるし、かすかな吐息の音も聞こえる。


「誰かいるんだろう? ……いるんだよな?」


 アーチャは鉄格子越しにそっと話しかけてみた。反応はなかった。その牢屋だけランプの明かりがなく、相手がどんな姿形をしているのかさえ見当がつかない。ジャーグ族とはもしかすると、ライオンのような猛獣かもしれない。


「俺は悪い奴じゃないんだ。ただ、君を助けに来ただけなんだ」


 アーチャは恐々と話しかけ続けた。すると、何やらゴソゴソと物音が聞こえた。アーチャは耳をそばだてた。


「……おいで……ほら」


 とても小さく、か細い声が格子の向こうから確かに聞こえた。それは心なしか、どこかで聞き覚えのある、安心できるような声だった。


「開けるぞ……噛み付くなよ」


 アーチャはゼルからもらった鍵を取り出し、錠前に差し込んで二度ひねった。銅製の重々しい錠前は音を立てて外れ、アーチャの手の平に転がった。扉を押し開け中に入ると、内部の状況が先ほどより鮮明になった。

 はっきりしたといっても、部屋の隅に大きな桶が一つと、床一面のゴザ一枚きりしかない。その上に膝を抱えて座り込み、壁に背を預けてこちらを見上げるその人こそ、ゼルの言っていたジャーグ族の末えいなのだろう。顔はよく見えないが、その体格や声からして男なのは確かだ。


「やあ……あの……さっきも言ったけど、俺は悪い奴じゃないよ。君を助けに来たんだ。すぐにここから出よう」


 アーチャが手を差し出しても、男はピクリとも動かなかった。ただ、闇に浮かび上がるその二つの瞳が、アーチャをより強く見つめ返すだけだった。


「そうだよな……いきなり目の前に現れた男がこんなこと言ったって、信用できないよな」


 アーチャは言いながら、自ら納得した。そして、シャヌはどんな気持ちで自分と会話していたのだろうと、彼女と初めて会話した時の状況を今と照らし合わせながら考えてみた……当時の思考が半分まともじゃないのは明確だった。


「俺の名前はアーチャ・ルーイェン。君の名前は?」


「アーチャ……ルーイェン」


 男はぼそっと繰り返した。


「そう、アーチャ。俺の名前だ。君はジャーグ族だって聞いたけど……本当……なの?」


 またも頭痛が襲い、それに目まいが重なった。今度は鉄格子に捕まっていなければ立っていられないほど重症だった。


「意識が……あるのか?」


 明らかに具合悪そうなアーチャに向かって、男が平然とした態度で聞いてきた。何のことか分からず、アーチャはひどく困惑した。


「どういう意味?」


「ジャーグ族という言葉を耳にしても、意識を保てるのかと、そう聞いたんだ」


 男の口調は今までで一番はっきりとしていた。男が何を言いたいのか、アーチャには段々と分かってきた。


「君、知ってるの? 俺がたまに記憶を失うこと……?」


「そうか……やっぱりな……」


 男はアーチャを無視し、独り言を繰り返した。アーチャは徐々に苛立ち始めた。


「俺をおちょくってるのか? さあ、立って。早く俺と一緒にここを出よう。誰かに見つかるとまずい」


「帰りたいか? シャヌの待つグレア・レヴに?」


 その瞬間、アーチャは背筋が凍った。男の無気力な瞳がこちらをまっすぐに見つめている。


「どうしてシャヌや街のことを知ってるんだ?」


「俺は、お前のことなら何でも知ってる。お前以上にな」


 その言葉は、アーチャを芯から戦慄させた。心臓が体の内側を叩き、肌寒い地下の奥深くで、アーチャは全身にしっとりと汗をにじませた。


「お前……何者だ?」


「俺は、お前の中の闇だ」


 アーチャは鉄格子まで後ずさりし、男の目を食い入るように見つめ続けた。まばたきすることを知らないその瞳は、横に二つ並んでじっとアーチャを見据えてくる。金縛りにあったように、アーチャは指一本動かせなくなってしまった。


「思い出せ、アーチャ。かつて、その途絶えた記憶の中で何をやってきたのかを……そして、自分自身が誰なのかを……」


 荒々しく呼吸を繰り返しながらも、アーチャは男の言葉をしっかりと耳にしていた。そして、男の言葉でアーチャの記憶の引き出しが次々と開かれていくように、ここ数週間にアーチャの身の周りで起こったことが、走馬灯のように目の前を通り過ぎて行った。そして、求めもしないのに、答えを導き出そうと記憶の計算式が自然と組み上がっていく……だが、答えは出なかった。


「俺はヒト族のアーチャだ……そして、お前はジャーグ族の末えいだ。俺は……お前を連れて、みんなの所へ帰るんだ……」


 アーチャは絶対の自信と頑なな意志を持ってそう言い切った。男は冷たい声であざ笑った。


「そこまで言うなら見せてやるよ。本当の答えってやつをさ」


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