十六章 再び海底へ 3
「アーチャ! 来て!」
数十分後、下の階からフィンの叫び声が響き渡り、寝室から街の様子を窺っていたアーチャはその声に驚いて飛び上がった。一度、シャヌ、カエマと顔を見合わせ、それから何かを思い出したように急いで階下へ向かった。シャヌとカエマがそれに続き、階段の六段目を踏み外さないよう、慎重に飛び越えながらアーチャを追った。アーチャが一階に辿り着くと、そこには誰もいなかった。ただ、外への扉が開け放たれており、そこから夏の生ぬるい風が入り込んでは、床に積み重ねられた本のページを静かにめくり上げていた。
三人は外へと飛び出し、ある一点を見つめるアンジたちを見つけた。彼らの視線の先には、ゼル・スタンバインとユイツの姿があった。気付くと、アーチャは駆け出していた。
「ゼル……」
声も足元もフラフラだった。アーチャを見つめるゼルのその表情に、いつもの誇り高さは感じられなかった。
「どうして? どうしてこの街を攻撃したんだ? どうして軍隊がこの街にいるんだ? どうして……」
ゼルは、腕にしがみついて疑問を投げかけるアーチャから顔を背けた。その姿を見て、ゼルが心に抱える、言葉に表すことのできない悔しさが、アーチャにもはっきりと伝わった。
「すまない……本当に。私には止めることができなかった」
誰も何も言えなかった。みんな今はただ、沈黙という流れに身を任せることしかできないでいた。
「僕たちがここに来たのは、これからのことを報告し、君をある場所へ導くため」
ゼルにすがったままのアーチャに向かって、ユイツがはっきりと言った。アーチャはゼルから離れ、ユイツを見た。
「報告? 導く? 一体、これから何が始まるってんだよ……」
アーチャの視界は、果てない闇に包みまれていくように真っ暗だった。
「私から話そう」
ゼルが一歩前へ進み出た。
「まず、アーチャ。君に礼が言いたい。軍の元からシャヌを救い出し、無事に連れ帰ってきてくれたことはユイツから聞いた。本当にありがとう」
素直に喜べず、アーチャは黙ってうなずいた。
「ユイツの正体や、ムーンホールのことも承知している。……軍専属の元研究員、フィン・ラターシアがここにいるということは、フラッシュの件について、もうみんな聞き及んでいると察してよろしいかな?」
「お久しぶりです。アクアマリン以来ですね」
フィンは慎ましく挨拶した。
「フラッシュの詳細は昨日、みんなに話しました。しかし、本当にあの兵器が使用されただなんて……未だに信じられません」
「先日、ここで使用されたフラッシュについて、私はどうしても納得がいかない。すべてジェッキンゲンによる計画だが、彼は既にザイナ・ドロ将軍の言うことさえ聞かなくなりつつある。彼の暴走を止められる手段は、何もないのだ」
「これからのことって、何なんだ?」
みんなが暗い顔でうつむく中、アンジがじれったいとばかりに質問した。ゼルは少し顔を上げ、全員を見渡した。
「そのザイナ・ドロ将軍も、謎の失踪を遂げたまま姿を現さないのだ。……ジェッキンゲンは最後の手段に出るつもりだ……ジャーグ族を復活させるための、最後の手段に」
アーチャは、激しい頭痛で立ちくらみそうになるのを我慢しながら、その名を頭の中で復唱した。
『ジャーグ……ジャーグ……どこかで聞いたことがある……』
だが、アーチャはそれ以上考えることができなかった。心臓が太鼓を打ち鳴らすように脈打ち、額を汗が流れた。喉はカラカラだった。
「ジャーグ族なんて聞いたこともねえぞ」
レッジが息巻いた。他のみんなもレッジと同じ意見らしかったが、ファージニアスだけは事の重大さが分かっているようだった。
「この世界には、まだ誰にも知られていない、数多くの血族が存在するのだ。そんなジャーグ族の末えいがたった一人だけ、アクアマリンに……つまり、君たちが囚われていた海底の奴隷収容所にいる。……アーチャ」
ゼルに名を呼ばれ、アーチャは素早く顔を上げて返事をした。その声はわずかにかすれていた。
「ジェッキンゲン、そしてザイナ・ドロ将軍の計画を阻止できるのは君しかいない。この世界にたった一人、君だけだ」
その理由を知る必要はないと、アーチャはとっさに考えた。ゼルの言うとおりにすべきことが、アーチャ自身がずっと捜し求めていた“答え”につながる……アーチャはそのことに気付いていたのだ。
今や、その場に集まる全員がアーチャのことを見つめていた。
「分かってるよ、ゼル。俺はもう一度、海底へ行く」
アーチャの言葉には微塵の迷いもなかった。アーチャがそう答えるのを分かっていたかのように、ゼルは大きくうなずいた。
「今からすぐ、ユイツのムーンホールを使ってアクアマリンへ行ってほしい。そして、君たちが一度囚われたことのあるあの牢へ行き、ジャーグ族の最後の一人を救い出すんだ。場所は四時の方角で、一番奥の部屋。これが牢屋の鍵だ」
アーチャは銀製の小さな鍵を受け取り、しっかりとポケットにしまい込んだ。そして、アーチャを不安げに見つめるシャヌたちを見た。
「というわけだ……みんな、俺が帰るまで待っててくれ。シャヌ……その……」
アーチャはまごついたが、やがて決心が固まった。
「君はもう、一人でも大丈夫だ……だろ? 俺がいなくても、この大空を飛べるはずさ。シャヌの思う英雄が、きっと力を貸してくれるはずだから」
シャヌはしばらくアーチャを見つめるだけだったが、やがて勇ましくうなずき、アーチャに微笑みかけた。
「私、自分を信じてる。でもそれ以上に、ここにいるみんなのことを信じてる。アーチャが無事に帰ってきてくれるって……信じてる。だから大丈夫だよ、アーチャ。私は大丈夫」
その時、アーチャとシャヌの間に割って入るかのごとくアンジの咳払いが響いた。
「俺も行くぜ」
アンジの猛々しい声がそう言った。アーチャを含め、全員が驚愕し切った表情でアンジを見つめた。
「何だって?」
思わずゼルが聞いた。
「俺も行くって、そう言ったんだ」
アンジは頑固に言い張った。アンジが何を考えているのか、アーチャには何となく分かっていた。
「俺はアンジがいてくれた方が心強いかなあ」
アーチャがとっさに機転を利かせた。ユイツがクスッと笑った。
「君がそうしたいと言うなら無理に止めはしないが……」
ゼルは嘆息混じりに言った。
「帰りは運任せだということを忘れないでほしい。ユイツは前の一件で反逆者と見なされ、今や指名手配中だ。へたに騒ぎを起こしたくないので、ここに残しておくことに決めたのだ。私はジェッキンゲンの元へ戻らなければならないので、ユイツの力を借りて一旦ここを離れる」
ゼルの説明が終わると、ユイツは手を大きく振り下ろし、今しがた自分が立っていた位置にムーンホールを作り出した。
「この中に入るのか?」
アンジがおずおずと聞いた。ムーンホールを初めて拝見する大半の者が驚きの声を漏らした。
「ここを抜ければアクアマリンへ直行です。僕が助けてあげられるのはここまで」
「ありがとう、ユイツ。……アンジ、心の準備はできてるか?」
アンジは胸を張って背筋を伸ばし、いつものように鼻を鳴らした。
「準備なんていらないぜ、アーチャ。俺たちにはいつも、計画なんてものはなかったんだからな!」
いかにもアンジらしい返事を受け止めた直後、アーチャはもうムーンホールの中だった。後を追うようにしてアンジがそれに続いた。二人はそれぞれの思いを胸に、再び暗黒の海底へと足を踏み入れた。