二章 惨劇の始まり 4
「その……俺の方こそ……その……きつく当たって悪かった」
きちんと座り直しながら、アーチャはもごもごと言った。そして、気を取り直したように急いで付け加えた。
「俺はアーチャだ。あんた、名前は?」
今しがたの表情はどこへやら、男は急に顔をしかめた。
「知ってどうする? 俺たちはどうせすぐに死ぬ。もしこの牢屋から出られたとしても、またドレイとしての生活が戻ってくるだけだ。俺には、103という番号だけで十分だ。それに……」
男は更に顔をしかめた。イクシム族の醜悪そうな表情そのものだ。それは、先ほどの天使のような眼差しを帳消しにするばかりか、あれは錯覚だったのではないかと疑わせる、そんな表情だ。
「お前、ついさっき、眼鏡の男と会ってただろ?」
アーチャは小さくうなずいた。どうやら、ジャーニスと二人で部屋を出て行くのを見ていたらしい。
「あの連中とは関わるな。こんな地獄でも、長生きしたいと願うなら尚更だ」
「ジャーニスは悪い人じゃない。俺にアクアマリンのことを詳しく教えてくれたんだ」
「なぜ?」
アーチャは口をパクパクさせただけで、何も答えることができなかった。ジャーニスたちとの脱走計画を、そう易々と口にするつもりはなかった。
「今さら警告しても手遅れだが、これだけは言っておく。このアクアマリンから逃げ出そうなんて考えは捨てろ」
アーチャはギクリとした。言われっぱなしなのは癪だが、ここまで図星を突かれるとさすがに言い返す言葉が見つからない。
「フン! ルーティー族の考えそうなことだ。お前をだしにして、まんまととんずらするつもりだろうな。あいつらは並外れて賢い。関係を保ちたいなら、それなりの覚悟をしておくんだな」
アーチャのイライラが再び戻りつつあった。先ほどの謝罪を抹消してやりたい気分だ。だが折りしも、何者かの足音が地面を伝って近づいてくるのが分かった。アーチャはここに来てたくさんの足音に耳を澄ませてきたせいか、この足音の持ち主が自分たちにとって危険な存在ではないということがうっすらと分かった。
やがて、赤い軍服と褐色のマントを着込み、胸ポケットに様々な形のバッジを輝かせた、あの兵士が二人の前に姿を現した。ゼル・スタンバイン少佐だ。
「立て」
ゼルはそう言うと、鍵束から銀製の鍵を選び出し、扉の錠前に差し込んで二度ひねった。鍵はあっさりと外れ、重たい鉄の扉がゆっくりと開かれた。金属のこすれる嫌な音が辺りに鳴り響いたが、アーチャは、そんなことはどうでもいいと思えるほど緊張していた。
もし、本当に実験の材料にされることになったら?
「出ろ」
ゼルは短い命令を繰り返した。二人は素直に従った。
「103番、812番。今日はおとなしく部屋でじっとしていろ。作業に加わる必要はない。処罰もなし……その代わり、飯抜きだ」
その瞬間、安堵感からか、それともただの空腹だからなのかは分からないが、アーチャの腹が弱々しく鳴った。飯抜きは厳しいが、死ぬよりはマシな結果だろう。
「どうして飯抜きだけで済んだんだろう?」
ゼルに連れられて歩を進めながら、アーチャは男に囁いた。男は黙って歩き続けたが、おそらく、頭の中はアーチャと同じ考えでいっぱいだったはずだ。そうでなければ、ゼルの背中をまじまじと見つめながら歩くものか。きっと、アーチャと共通の何かを、この兵士から感じているに違いない。
三人はやがて現れた、横幅の広い急な階段を上り、聖地に辿り着いた。労働時間だというのにひと気はなく、相変わらずの殺風景が広がっている。どうやら、働く場所はここではないらしい。
部屋に戻ってから、二人は一言も口をきくことはなかった。アーチャの場合、今はただ、あの寒くて暗い牢屋から生きて出られたという幸運に、ただただ感謝するしかなかった。それに、あのゼルという兵士にも心から礼を言いたい。
だが、どうしても分からない。あれだけの問題を起こしたにも関わらず、なぜ軽い処罰だけで済んだのか。ゼル少佐はあの双子より立場が上だし、うまく説得してくれたのかもしれない。いや、もしかしたら、一見薄情なあの双子が情けをかけてくれたのかも……それはないか。
結局何も分からないまま、アーチャはその日を空腹に耐えながら過ごしたのだった。