十四章 歌と光と霧と…… 5
じいさんはぼんやりと目を覚ました。
『ここはどこだろうか?』
やたらと狭い上に薄暗くて、肌寒い空気が辺りを満たしている。そばには、ヒト族と思しき青年が横になって眠っている。じいさんはほとんど空っぽな瞳でその青年を見つめ続けた。青年が目を覚ました。
「おはよう」
じいさんはとりあえず挨拶した。
「……おはよう」
こちらを見ようともせず、青年が寝ぼけた声で挨拶を返した。やがてじいさんと青年の目がばっちり合った。すると、青年の表情がみるみるうちにしかめっ面へと変わり、いかにも怪訝そうな視線でじいさんを観察した。
「あんた、誰?」
その毛皮のコートが気に食わないと言わんばかりの口調だ。それならと、じいさんは意気込んで質問に答えようとした。だが、自分の名前が出てこない。それは過去の記憶さえも例外ではなかった。昨日の食事も、自分以外の人間と会話した記憶も、なぜここにいるのかさえも思い出せない。何もかもが、脳味噌から排除されてしまっていた。
「わしは……その……あの……だが……つまり……しかし……であるからして……ようするに……そうそう、じいさんだ」
じいさんは呆然と答えた。青年は何かを察したようにじいさんを見つめ返した。
「おじいさんだってことは見れば分かるよ……」
青年がイライラし始めたかたわらで、何やら巨大なものが地面の上でゴロゴロ動いた。それはイクシム族の男だった。
「おはよう」
じいさんが挨拶すると、男の表情に驚愕の色が広がった。
その後のやり取りは、じいさんにとってあまり好ましくないものだった。初対面の巨漢から嵐のような質問が投げかけられたし、いかにも『狂人』を見るかのような目つきでこちらを観察するからだ。
「とりあえず、このおじいさんを兵士たちに預けよう。ゼル・スタンバインっていう兵士の所なら安心だ。彼なら信用できる」
青年は穏やかにそう言って、首からぶら下げてある懐中時計で時間を確認すると、イクシム族の男を振り返った。
「そっちを持って。さあ、おじいさん、散歩にでも行こうか」
じいさんは二人の力を借りてヨロヨロと立ち上がった。そしてなぜか、散歩という言葉が嬉しくてたまらなくなった。
「散歩、散歩、楽しい散歩。はて……杖はどこにやったかな?」
じいさんはあたりをキョロキョロと見回した。部屋のどこにも、杖らしきものは見当たらない。というより、杖など持っていただろうか?
「こんな、いかにも騒ぎを起こしそうなじいさんは、とっととそのゼルって兵士の所へ連れて行こう」
イクシム族特有のしゃがれ声がそう言った。じいさんは二人に連れられて狭い通路のような部屋を歩いていった。やがて、ランプの明かりに照らし出された場所まで引っ張られていった時、不意に暗闇が襲った。切れかけのランプが明滅しているのだ。じいさんはランプを食い入るように見つめた。失われた記憶を呼び起こすかのように、その明かりを、フラッシュを……。
「うぁ……! うわあああああぁぁぁ!」
じいさんの恐怖に怯える叫び声を聞きながら、アーチャとシャヌは意識を取り戻した。二人の視界には抜けるような青空が広がり、小川の流れる静ひつな音がすぐ耳元で聞こえた。互いの手をしっかりと握り締めたまま、二人は草花の生い茂る小川の岸辺に横たわっていた。
「俺……あのおじいさんをずっと知っていたんだ……ずっと……」
アーチャの目尻から一粒の涙がこぼれ落ち、空を伝って青く染まった。