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十四章  歌と光と霧と……  3

 午後、じいさんは薄毛の寂しい頭部に地味なニットキャップを、節くれ立った手には使い古しの長い杖を、そして、昨年のバースデープレゼントに仲間からもらったふわふわの毛皮のコートを全身に、冷たい初冬の風の吹く街へと足を踏み出していた。

 散歩はじいさんの日課だった。介護人たちは人や場所を選ばず、聞こえよがしに愚痴をこぼす。じいさんは正直、目覚し時計代わりの怒声よりも、まずい三度の飯よりも、この愚痴が一番苦手だった。一日中、介護人の小言を耳にしているなんて、とてもじゃないが堪えられない。じいさんは人一倍我慢強くて負けず嫌いだが、体や精神は嘘をつかない。昼食後に施設を発ち、夕暮れ時に帰る……長い目で見ると、その方が、じいさんにとっても介護人にとっても都合が良いのだ。

 じいさんの密かな楽しみは、中央公園にある噴水広場で旧友と会話に興じることだった。旧友といっても、『長寿の家』で苦楽を共にした仲間のことだ。彼らは今、街外れにある老人ホーム『うさぎの寝床』で生活している。じいさんも金銭に余裕がありさえすれば、今この瞬間からでもそこに移り住むことだろう。だが、金の話とは無縁の生活を送っているじいさんの現段階を考慮すれば、それはまさに夢のような話だった。

 この日ももちろん、じいさんは公園に向かってゆっくりと歩を進めていた。その道中、庭師の男が屋敷の女主人にこっぴどく叱られている様子を見物したり、坂道で車椅子を押す老婦人の手伝いをしたりもした。

 そんなことも多々あって、じいさんの散歩にはいつも笑顔が耐えなかった。代わり映えのない街の退屈な風景の中には、こうした新たな出会いや発見が付き物なのだ。じいさんが散歩を日課とする本当の理由は、そこにあるのかもしれない。

 じいさんはこの日、昼食に用意されたオートミールに、砂糖ではなく塩が使われていたことに半ば腹を立ててはいたものの(介護人が嫌がらせでわざとやったんだと、じいさんは結論づけた)、昨夜見た夢のことを考えるようにして、オートミールの一件を強引に忘れようとした。

 その夢とは、じいさんがよく見る“不思議”な夢だった(いや、夢とはむしろ、全てが“不思議”の中にあって、その空間を無意識の内に覗き込んでしまっているだけかもしれない)。数多の種族が共存する、争いのない平和な世界がその舞台となるのだが、じいさんがそこで見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、触れたもの、食べたもの……。五感だけが目を覚ましているかのようにフル活用され、夢を夢とは認識させない不思議な感覚でいつも心が満たされるのだ。しかし、この夢から目を覚まし、現実世界を目の当たりにした瞬間のじいさんときたら、底なしの沼にでも沈んでしまいそうな気分だった。

 そもそも、じいさんがこんな夢を繰り返し見るようになったのは、つい数ヶ月前からのことだ。特にこれといった大きな転機があったわけでも、際立った介護人のいじめが続いたわけでもない。ふと、ある夜から、この夢を見始めるようになったのだ。

 目の前を、老夫婦を乗せた農作業用のこぢんまりとした荷馬車が通り過ぎ、そのおぼろげな視界にようやく中央公園の噴水広場を視界に入れることが出来た時、何か奇妙なことが起こった。じいさんは昔から聴力には自信があった。そのせいで、介護人のこぼす愚痴を不必要に拾い聞きしてしまうのもまた事実だが、この歳で聴力が衰えていない場合、何かと便利なことの方が多い。だが今回は、その類が違う。

 それは、歌だった。女性の歌声が聞こえる。しかも、ただ聞こえてくるのではない。行き交う人々の雑踏を、我が物顔で走り抜ける自動車の騒音を、全て無視するかのように、全てすり抜けてくるかのように、その妖美な歌声は、じいさんの耳に直接語りかけてきた。まるで、歌声以外の雑音のボリュームだけを下げたように、その女性の声はよりはっきりと聞こえる。聴力に自信があるといっても、数多く同時に発せられる音の中から一つだけに焦点を当てるなんて器用なことが、無意識のうちに出来るはずがない。それに、この歌声は一体どこから……?

じいさんは横断歩道の真ん中で思わず足を止め、その歌声に聞き惚れていた。それは聴いたことのない歌だが、聴者全員の心に明るい希望を見出させるような、美しいものだった。手足の感覚がなくなり、じいさんの心は、再びあの“不思議”な夢を見ている時のように、たくさんの幸福感で満たされていった。

 今や、耳元で鳴り響く車のクラクションの音でさえ、じいさんには全く聞こえてはおらず、そのぼんやりとした視界には噴水広場の他に、青空に白雲と共に浮かぶ一つの黒い点しか写っていなかった。

 黒い点が陽の光から逃げるように進路を変えると、やがてそれは、中央公園の上空までやって来た。どうやら、あの黒い点のように見えるのは大型の戦闘機らしい。この戦争時代にはさほど珍しい光景ではない。というより、道の真ん中でいつまでもボーっと突っ立っている老人の姿の方が、街の人から見ればすこぶる珍妙な光景であることは確かだろう。どうやら、じいさん以外に、この歌声を聞き取れる者はいないらしい。

 そして、謎の女性の歌声に酔いしれながらも、じいさんは見た。一体、じいさんは何を幸せそうに観察しているのだろうかと、興味をそそられた歩行人や運転手も見た。建物の窓から半身を乗り出し、空高く指を突き上げる、その住居人も見た。だだっ広い青空を流浪し、不気味に漂う戦闘機が、何か黒い塊を地上に落とす光景を……見た。


「よう、待たせちまったか?」


 背後で誰かがそう言った。じいさんが振り返ろうとした、その時……。




 歌が……途絶えた。


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