十四章 歌と光と霧と…… 2
焦点の合わない眼をしばたかせ、“じいさん”はベッドからゆっくり起き上がると、ため息した。夢の中から現実世界へ強引に引き戻されてしまったことが、何より、じいさんの気分を朝から萎えさせる主因となっていたのだ。窓から見える無表情の街並みが、夢の世界と比べると、ここまで陰惨なものか?
「わしは、“こっち”側が“まとも”だなんて、絶対に認めないぞ」
ベッド脇のタンスの中から古汚い眼鏡を手探りで掴み取りながら、じいさんは息巻いた。だが、そんな奮然とした態度も、彼女たちの前では心細い。おりしも、じいさんがまだ着替え終わっていないのに、彼女たちはやって来た。イノシシが群れで押し寄せて、木造のもろいドアに次々と体当たりを喰らわせたような騒音が部屋中に響き渡った。
「さっさと起きとくれ! さあ! 部屋が片付かないでしょう!」
女のにべもないキーキー声がドアの向こうで絶叫し、じいさんを、老人とは思わせないほどの速さで着替えさせた。次の罵声が轟く前に、寝間着から一張羅のセーター(虫食いだらけだが)へ着替えを済ませると、じいさんはおずおずとドアを開けた。だが、完全に開き終わらないうちに向こう側から強引に押し開けられたので、じいさんは数歩飛び退かなければならなかった。女二人とクレーターのように凹んだドアが、奇怪に立ち並ぶのをじいさんは見た。
「どいとくれ」
半ば呆然と立ち尽くすじいさんを見下ろしながら、一人目の女が吐き捨てた。
「私たちが戻る前に、朝食を済ませておいて。ちゃんと全部食べんだよ」
小さな瞳の奥から軽蔑をあらわに、二人目の女が言った。部屋を立ち去り、階下に辿り着くまで、女二人の愚痴はじいさんの跡を追うように聞こえてきた。
ここ『長寿の家』で生活する者にとっては(じいさんが最後の一人になってしまったのは、もう数ヶ月も前の話だった)日常茶飯事なことだった。朝起きて、介護人の怒声でせっつかれ、ほとんど手抜きの飯を一日に三度も食わされれば、じいさんが一人、この牢獄のような老人ホームに取り残されるのも納得がいく。
『あいつらはここを潰したいのじゃ。だから、わしたちを追い出すためなら何だってする。わしたちが嫌がること、不快に感じること、すればいい。そうすれば、わしたちがここを出て他に移ることを、あいつらは承知しておるのじゃ』
これが、じいさんと三年間共に暮らした仲間の一人が『長寿の家』を去る時、最後に残した言葉だ。不明確ではあるが、真実とは大差ないだろう。むしろ、そう考えるのが当然といえば当然である。
この戦争時代、安い給料で食っていけるはずもない。女たちは、もっと歩合の良い職場に身を置きたいのだ。例えばそれは、戦場で深手を負った兵士たちが運び込まれる大きな病院だ。戦争のため、国のため、敵国に勝利するため。それがどんな手段であれ、戦争に少しでも貢献することに、それ相応の見返りがあるという知識を女たちは持っているのだ。そういった現実を心構えながらも、老人ホーム『長寿の家』でいつまでも働いている理由がどこにあろうか?
無論、一人取り残されたじいさんが、余生の全てを『長寿の家』で過ごしたいと願っているはずもない。金銭的に裕福で、介護人に「よそへ移れ」と言われれば、鼻歌混じりで荷造りし、スキップしながらここを立ち去るだろう。だがそれすらも、今のじいさんには届かぬ願いだ。じいさんには財産どころか、貯金の蓄えすらない。家族もいなければ、思い当たる親戚もいない。あるのは“お年寄り”という肩書きだけだった。
じいさんが“お年寄り”でなければ、『長寿の家』にタダ同然で入居することは出来なかったろう。介護人がじいさんを見捨て、職場を離れられない理由も“それ”だ。お年寄りをいたわらないことは、重刑な処罰が待っているに等しい。この国がこれほどまでに老人をいたわる理由として、将軍様がめちゃめちゃ年寄りなせいだから、というのはもっぱらな噂だった。
じいさんはつい四日前、七十七歳の誕生日を迎えたばかりだ。その日、散歩から帰って来たじいさんを出迎えた介護人は、嫌がらせか、それとも精一杯の愛情を込めたのかは未だに分からないが、新聞に掲載されたある記事をバースデープレゼントとしてじいさんに手渡した。それは、その日の夕刊の一面だった。
『ザイナ・シュロ将軍の勝利宣言。光爆弾“フラッシュ”をついに解禁』
その場で記事を読み終えたじいさんは、新聞を乱暴に折り畳み、コートのポケットに押し込んだ。