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二章  惨劇の始まり  3

 アーチャは男の方へ駆け寄った。男はイクシム族特有の鋭い牙を突き出して威嚇してきたが、アーチャはそれを物ともせずに声を張り上げた。


「今ならまだ間に合う。あいつらが来る前に急いでここを出よう。さあ、早く!」


 男はまた牙を突き出した。だが、それはアーチャに向かってではない……その背後にだ。

 二つの巨体が、今にもはち切れんばかりのサイズの小さな軍服を狭い入口に滑り込ませ、真っ赤な顔をして部屋に入ってくるところだった。あの様子では、もう逃げ場がない。


「812番! お友達の812番! 三秒過ぎても聖地に来なかったから、こうして迎えに来てやった!」


 先に入口を通過した方が、ランプの光に額の汗を点々と輝かせながら息苦しそうに言った。入口が以前より大きくなったせいか、もう一方の兵士は軽々と通過した。しかし、兵士がアーチャの目の前に立つと、そんな向こう側の様子が一切見えなくなってしまった。


「兄さん! ジング兄さん! 812番の他にもまだいる! 二人いる!」


 後からやって来たジングが、弟の肩越しにこちらを覗きこんだ。二人の並んだ顔を間近で見て、アーチャはやっと双子の分別方法が分かった。兄の方は、鼻の下になまずのような細いひげを伸ばしている。


「ニール。この部屋には反抗的なドレイが多いようだぞ。……あん?」


 横たわるイクシム族の異変に気付いたジングが、ニールごとぐいぐい迫ってきた。ランプの光も漏れぬほどの圧迫感だ。すると、イクシム族の男がスッと立ち上がり、双子の前に立ちはだかった。アーチャは暗闇まで後ずさりし、今度は何が始まるのだろうかと案じているしかなかった。


「お前たちが殺した……お前たちが」


 男の声は怒りで震えていた。アーチャは息を呑んだ。


「兄さん、こいつ、死んでるよ! きっとあいつだ! 91番だ!」


 死体を指差しながら、ニールは楽しそうな弾んだ声で言った。


「ああ、俺も思い出したぞ! 体調不良を理由に俺の目の届かない所で休憩していやがった、あの91番だ。ムチ一万回叩きの処罰で、確か1802回目でくたばった」


 アーチャは耳を疑った。暗闇にうっすらと浮かび上がる双子のシルエットが、地獄に潜む鬼のように見えたが、アーチャは決してひるまなかった。むしろ、胸の内側からふつふつと込み上げる怒りを抑えることができないでいた。生を生として扱わず、命を玩具のようにもてあそぶこいつらを、絶対に許すことなんかできない。


「……殺してやる……殺してやる!」


 アーチャが突撃しようと一歩踏み出したその時、イクシム族の男が絶叫しながら双子に飛び掛っていった。双子には勝るとも劣らない体格の持ち主だが、相手は二人だ。男は怒りで我を失っていて、見境のつけられない猛者と化していた。

 拳を振り回し、牙を剥き出しにしても、双子の前ではハエが一匹飛び回っている程度のものだった。ニールは男の首根っこを持ち上げ、振り返った。


「兄さん、今日からこいつもお友達だね! きっと91番よりタフだよ!」


 ニールはそう言ってジングと場所を交替した。二人は体を横にしなければ入れ替わることができなかったが、それでも何とかしてジングがアーチャの前にやって来た。ジングの股下から、男がじたばたしながら引きずられていく様子がうっすら見える。アーチャは歯を食いしばってジングを睨みつけた。そんな反抗的なアーチャの行動も、闇に紛れてジングには見えなかったことだろう。


「覚悟しとけよぉ、812番。遅かれ早かれ、お前もさっきの奴も、いつかこうなる」


 ジングは横たわる死体に向かって唾を吐きかけた。その瞬間、怒りが頭を突き抜けて爆発した。頭の中が真っ白になり、目の前の光景が渦を巻いているかのようにぐるぐると回転している。ジャーニスの助言を忘れ、自分が何者かさえも忘れて……。

 気付くと、アーチャのずっと前方でジングがうつ伏せで倒れていた。その向こう側で、ニールと男が取っ組み合いの姿勢のままアーチャを凝視している。

 何が起こったんだ……アーチャは言い知れぬ不安を覚えた。怒りで理性を失い、ほんの一瞬、意識がなくなった。


『どうしてあいつは倒れてる? 誰がやったんだ? まさか、俺が?』


 アーチャは自分の両手を恐怖に引きつった表情で見つめた。指を一本動かすことさえ、たまらなく怖かった。


「ジング兄さんが倒れてる! 死んだように倒れてる!」


 ニールはどこからか、手の平サイズほどの黒いテレビリモコンのようなものを取り出すと、数あるボタンの一つに焦点をしぼり、その腫れぼったい指先を力強く押し当てた。すると、スズメバチの大群がリズム良く一斉に羽音を響かせたような、凄まじい警音が辺りに反響し、その音は少なくとも聖地の方まで届いていた。アーチャは何が起こるのだろうと不安になったが、大体の見当はついていた。

 やがて、無数の足音が聞こえ、暗緑色の軍服が部屋を埋め尽くし、アーチャとイクシム族の男は無抵抗のまま……気を失った。




 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう?

 闇の中で、アーチャはふとそう思った。全身が石のように重たい。まぶたさえも開かないほどだ。土の匂いがする……。


『俺、また寝てんのか?』


 人生において、睡眠ほど無駄に過ごす時間はない。アーチャはまぶたを強引にこじ開けた。黄色い光が、視界いっぱいに広がった。

 そこは、ランプの明かりに包み込まれた小さな空間だった。目の前に立ちふさがる鉄格子と、通路が左右に伸びるその光景を目の当たりにすれば、誰だってここが牢屋の“内側”であることにすぐ気付くはずだ。時間は……七時を過ぎて間もない。

 アーチャはうめいた。ジャーニスの部屋で語り合ったのが、一週間も前の出来事のように感じられる。とうてい部屋とは呼べないあの部屋で気がついてから、この牢屋に辿り着くまでの道のりは苦難の連続であったが、これから訪れる未来という時間に対しても、アーチャは生きる希望など一つまみも持てやしなかった。

 それは、まさに絶望のうめきだった。


「この牢屋があいつらの間で何て呼ばれてるか、お前知ってるか?」


 アーチャは驚いて声のする方へ振り向いた。イクシム族のあの男が、壁にもたれて座っていた。その瞬間、アーチャの頭の中にこの男の容姿がはっきりとよみがえった……。


『俺がここにいるそもそもの原因は、こいつが動こうとしなかったからじゃないか!』


「鳥かごか? それとも動物園か? 自慢じゃないけど、俺はここに来たばかりなんだ。そんな質問……」


「実験生物控え室だ」


 男はアーチャの言葉を無視して答えを述べた。


「へえ。それがどうしたって?」


 アーチャは強がったが、顔いっぱいに広がる恐怖の色は隠しきれなかった。


「つまり、俺たちは殺される。殺戮機械の材料として」


 男は何のためらいもなく、よどみない口調で言った。アーチャの胃袋がズシンと落ち込んだ。これは空腹のせいであってくれと、アーチャは切に願った。


「どうして殺戮機械のことを知ってるんだ?」


 アーチャはジャーニスから機密の生体実験のことを教えてもらったが、それはジャーニスがルーティー族の混血で、特殊な仕事を課せられているがために知ってしまった事実だった。


「兵士たちの立ち話を盗み聞きしただけだ」


 ランプの明かりから逃げるように顔を背けながら、男はにべもなくそう言った。

 静寂が訪れた。閑静とした地下牢に、足音の一つさえ響くことはなかった。アクアマリンは地上から隔絶された地下深くにある海底洞窟だが、この暗さと寒さから、牢屋は更に地下に作られた場所のようだった。壁は岩ではなく土で、粘土ようなねばりっけがある。高い天井は今にも崩れてきそうだった。

 きっかり十五分経った。ジャーニスからもらった懐中時計が指し示しているのだから、間違いない。アーチャは、ここからこっそり抜け出すにはどうしたらよいものか、錠のかかった扉とにらめっこしながら考えを巡らせていた。


「どうして俺なんかを助けようとした?」


 どんな手を使っても開きそうにない屈強な鉄格子の扉と格闘するアーチャに、男は探るような静かな声で聞いた。諦めたように扉を二、三回蹴っ飛ばした後、アーチャは荒い息遣いのまま男を振り返った。イクシム族特有のゴツゴツとした黄土色の肌が、土壁の背景にしんみりと馴染んでいた。


「さあね」


 アーチャは冷たく、吐き捨てるように言った。アーチャはいつまでも根に持つタイプではないが、男の言う通り、実験の材料としてこのまま死を迎える運命ならば、今回ばかりは話が別だ。それは、仲間の一人を殺された、かわいそうなイクシム族だろうとも例外ではない。


「俺は世界でも指折りのおせっかい野郎でね。それがあんたの癇に障ったっていうなら謝るよ」


 アーチャはドカッと座り込み、あぐらをかくと、男と真正面から向き合った。こうして見てみると、その図体の大きさに改めて驚かされた。男は相変わらず顔を背けたままだったが、しばらくすると、暗闇の中から巨大な輪郭を浮かび上がらせ、体とは反比例して小さいその瞳でアーチャを見た。


「ヒト族のくせに、俺を助けようなんてバカな真似するからだ」


 アーチャは飛びかかって力いっぱい殴ってやろうかと膝を立てたが、一瞬でそんな気は萎えてしまった。男の表情は、今までになく朗らかだった。


「こう見えて、お前には感謝してるんだ。死んだ仲間のカタキ討ちとまではいかないが、あの兵士をぶっ飛ばしてくれた……ありがとよ」


 男の言葉を耳にしても、アーチャは素直に喜べなかった。むしろ、歯と歯の間に食べ物が挟まっているような気分の悪さだ。自分のことをこんなにも敬ってくれている者に対して、どうしていつまでもむきになっていたんだろう? この男を恨んだところで、何の解決にもならないというのに。


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