十三章 空へ、未来へ 6
「ちょっと聞いていいか?」
階下に辿りついた時、アーチャは遠慮がちに聞いた。周囲は薄暗く、唯一の明かりは壁際に等間隔に配置された、不吉な光明を放つ赤い小さな蛍光灯だけだった。
「何だ? 手短にな」
「ここが雲よりも高い空の上だってことを承知で聞くんだけどさ……俺たちが地上にどうやって戻るのか、その手段も考えてるのか? ……ほら、ファージニアスたちの乗った戦闘機は攻撃されて、今は消息がつかめないだろ? 本当は、あの小型戦闘機が俺たちを救助する手はずだったんだ」
スピーカーから聞こえてくるのは、レッジの余裕に溢れた短い笑い声だった。
「君からの連絡を待つ間、ただボーっと葉巻を楽しんでいたとでも思っているのか? 安心しろ。さっきも言っただろ、必ずそこから助け出してやるって。その通路を抜けると、脱出ポットのある部屋の真ん前に出る。君たちは脱出ポットに乗り込んでそこを出るんだ。また色々と面倒な操作が必要になってくるが、大した問題ではない。脱出した先は大海の上空で、着水に至っては特に支障はないはずだ。俺の勘だが、フィンらの乗った小型戦闘機も海に落ちたはず……残念ながら、まだ無線は通じていないが。……おい、アンジ。お前何をした?」
レッジの声色が唐突に変わった。アーチャの不安を掻き立てるような口調だ。
「どうした? 何かあったのか?」
アーチャの耳に伝わってくるのは、キーボードを凄まじい勢いで叩きまくる連打音で、それに混じって時折聞こえてくるのは、レッジの酷い悪態だった。
「何があったんだよ?」
アーチャの足は自然と歩くスピードを速めていた。
「アーチャ、よく聞け! スパイウイルスの位置がばれて、今俺たちのいるハッキング元の地下室まで場所が特定されちまった! ほとんどすべてのデータ受信が遮断された挙句、サーバーがダウンしてやがる!」
ようやく返ってきたレッジからの返事は、絶望的なものだった。その間にも、キーを打ち続ける音が休むことなく聞こえてくる。この非常事態を処理しようと、レッジが奮闘しているらしい。
「位置がばれたって、つまりどうなっちまうんだ?」
アーチャは長くて暑苦しい通路を汗だくになって走り抜けながら、無線機に向かって叫んだ。無線機からレッジの返答がやってくる前に、アーチャの背後から「バン!」というけたたましい騒音が連続して聞こえてきた。立ち止まって振り返ったその先には、天井から床に向かって次々と落下してくる巨大な壁の姿があった。アーチャの後を追いかけるように落下してくる壁の一つ一つに数字が書かれており、近づくたびに数が一つずつ減らされていった。アーチャを中に閉じ込めるつもりか、もしくは押し潰すつもりなのだろう。まさに死へのカウントダウンだ。
「いいから走れ! 壁の降下は突き当たりまでなら問題ない! とにかく振り切るんだ!」
アーチャはそれこそ死ぬ気で通路を疾走した。汗ばむ手から何度もシャヌを振り落としそうになったが、その度に体勢を立て直し、すぐ背後まで迫ってきていた無慈悲な鉄壁を寸でのところでかわし続けた。
「突き当たりを左へまっすぐ、正面のドアの先が脱出ポットのある部屋への入り口だ! ぬああっ……くそっ! 軍のひよっ子どもが……俺と張り合おうってのか!」
無線機から聞こえてくるレッジの声をかろうじて聞き取りながら、アーチャは何とか無事に通路の突き当たりまで辿り着いた。『0』と大きく記された最後の壁がアーチャのすぐ後ろで悔しそうに落下し、その動きを完全に停止させた。アーチャはふらつく足取りで突き当たりを左に曲がった。三十メートルほど前方に、すっかり見慣れた鉄製の強固なドアがアーチャを待ち構えていた。
「よく聞け、アーチャ! 軍の奴らがドアをロックしようと企んでる! こっちの回線状態はもう虫の息で、ドアロックの外部システムに即席の防壁プログラムを組み込むのがやっとだ! 回線がダウンする前にそこを脱出しろ! 閉じ込められるぞ!」
アーチャはもうろうとする意識の中で、残された余力を最後の一滴まで振り絞って通路を駆け抜けていった。走ろうと思ったわけでも、助かりたいと哀願したわけでもない。シャヌを守りたいというアーチャの強い意志が、その疲れ切った両足を無意識の内に動かしていたのだ。
ドアの取っ手にアーチャの指が触れた。倒れこむようにして取っ手を掴み取ると、体重を利用してそのまま奥へ押した。ドアは開かれ、その向こうから眩いほどの明かりが射し込んだ。
アーチャは倒れこむようにして通路の外へ飛び出した。その拍子に手から無線機が滑り落ち、何者かの白い革靴の手前まで転がっていった。
「はいはい、ご苦労さまです!」
見上げると、すぐそこに靴の主がいた。そいつは、アーチャが今一番会いたくない人物だった。
「ジェッキンゲン……どうしてここに?」
息も絶え絶えにアーチャが聞いた。ジェッキンゲンの冷たい瞳がアーチャを見下ろし、次いでシャヌを見つめた。
「私は魔法使いですよ。魔法体を作って機内中を監視することなんて、すこぶるたやすいことです。もっとも、この時代は機械文明の最盛期ですから、魔法を代用するような機器はそこらへんに転がっているものです。例えば、この小型無線機とか」
アーチャは床に落ちていた無線機に手を伸ばしたが、手遅れだった。無線機は小さく爆発して粉々に吹き飛び、金属の焼ける悪臭がアーチャの鼻の奥を刺激した。外界との連絡手段が完全に絶たれてしまった。
「元国軍研究員のレッジが我々の手を焼かせた張本人だったなんてね……あのスパイ型のウイルスから発信元を特定した時、私としたことが、思わず恐怖を感じましたよ。数時間前に訪れていたあの廃墟も同然の地下深くに、軍と肩を並べるだけの高機能コンピュータが顔を揃えているんですもの。でも、これでレッジの悪巧みも終わり……もう軍隊がシシーラに向かってる頃でしょう。あの酒場の地下に潜むドブネズミどもを殺すためにね」
アーチャはとっさに無線機でそのことを伝えようとしたが、今しがたジェッキンゲンに破壊されていたことを思い出し、断念せざるを得なかった。だが、このままでは本当にアンジたちが殺されてしまう。
「やめさせてくれ……レッジたちはもう関係ないはずだ」
震える膝で立ち上がりながら、アーチャはしゃがれ声で説得を試みた。ジェッキンゲンの表情に会心の笑みが広がった。
「では、こうしましょう。君がシャヌを素直に引き渡してくれるのであれば、彼らの命は助けてあげます。今回の一件もなかったことにしましょう」
意地の悪いその二つの瞳が、口元に浮かぶ冷笑のように残酷な笑みを浮かべているのがアーチャには分かった。
「お前の心はどこまで腐ってやがるんだ?」
アーチャは食いしばった歯の隙間から怒りを込めた声を発した。
「おや、これは立派な取引ですよ。君がこれに同意できないということは、つまり、私はシャヌを力ずくで奪い取り、レッジと君の仲間は軍によって殺されるということなのです。いくらバカな人間でも、選択しなければいけない答えがどれなのか、すぐに分かるでしょう。そう、君には『同意する』という選択肢しか残されていないのです」
ジェッキンゲンの残忍な笑顔が、戸惑うアーチャをさも愉快そうに見つめていた。どうすることもできない自分への憤りと、この取引から最善の選択肢を導き出さなければいけないという困惑が頭の中で混沌とし、アーチャを極限の状態まで苦しめていた。
「どうして……」
アーチャは苦し紛れに言葉を発した。
「どうしてそこまでしてシャヌを求める?」
ジェッキンゲンの表情から笑みが薄れ、やがて無表情になった。彼の心の中に眠る辛酸な過去が、その無表情という名のスクリーンに映像として浮かび上がっているようだった。
「私の求めるものすべてを、シャヌが持っているからです」
ジェッキンゲンのおぼろげな眼差しがアーチャを捉えた。アーチャはまぶたをパチパチさせた。
「では逆に問おう。なぜ君はシャヌを求める? なぜ自らの危険を冒してまでシャヌを助けようとする?」
『俺はどうしてシャヌを助けたいんだろう?』
アーチャが自らにそう問いかけたのは、つい昨日のことだった。答えの見つからないその疑問を、頭の中で幾度も考え、思い、悩んだが、辿り着く先はいつも深い闇の中だった。