十三章 空へ、未来へ 4
「シャヌ!」
呆然と突っ立ったままのジェッキンゲンの脇をすり抜け、アーチャは一目散に煙に包まれるシャヌの元へと向かった。煙は手で軽く触れるだけでふわりと舞い上がり、そのままうっすらとかすみながら消えていった。シャヌは気を失っているようだが、目立った外傷もないし、呼吸も正常だった。
「なぜ分かった?」
ジェッキンゲンのか細い声からは落ち着きが感じられたが、大きな怒りが込められているのも確かだった。今や、その矛先のすべてがユイツに向けられている。
「人は安らぎを求める……」
ユイツの口元にわずかな笑みが浮かんだ。拳銃の先端が初めて赤い絨毯に向けられた。
「大切な物を手に入れた時、あるいは、命に替えても守りたいと思える者に出会えた時、人はそれを必死で守ろうとする。どこかに覆い隠したり、何か別のものに置き換えて偽装したり……そのやり方は様々で、各々の個性はそれに準ずる。力の限りを尽くして守り抜こうとする者も、中にはいるかもしれない」
わずかの間、ユイツの穏やかな視線がジェッキンゲンからアーチャへと移った。
「だけどその行いは、自己を満足させるだけの些細な手段でしかない。人はみな安堵していたい。ジェッキンゲン、あなたもそうだった。シャヌという大切な“物”を、ビンの中に閉じ込めておきたかった。そして、戦争によって荒廃した未来の世界から逃げるため、我が身を守るため、この時代へやって来た……愚かしいことだ」
ジェッキンゲンの高笑いが部屋の中でガンガン反響した。その声からはおぞましさがにじみ出ていたが、アーチャもユイツも、屈強とした面持ちでジェッキンゲンを見つめ続けた。高笑いは突然始まり、突然終わった。
「どうやったか知りませんが、なるほど、私の秘密をご存知のようですね」
ジェッキンゲンは頬をピンクに染めてそう言った。
「珍事は愉快さを兼ね備えていますが、場合によっては不快を招くこともある。よって、私は今、いささか気分が悪い」
ジェッキンゲンの右手が天井へ向かって掲げられ、手の平から熱を帯びた赤い小さな球状の物体が浮かび上がるのをアーチャは見た。次の瞬間、ユイツはもう動き始めていた。
「シャヌを連れて部屋を出るんだ!」
頭上から足元へ向かって大きく手を振り下ろしながら、ユイツが大声でアーチャに言った。アーチャは半ば衝動的にシャヌを抱きかかえ、開け放たれたままのドアに向かって走った。
「させるか!」
背後からジェッキンゲンの憤る声が後を追いかけてきた。通路へ出てから部屋の中を振り返ると、そこにはまたもやアーチャを驚愕させるような光景が広がっていた。
ユイツとジェッキンゲンの間の空間が、まるで水面のようにゆらゆらと揺らめいていた。その揺らめきを通して見るジェッキンゲンの姿は、まるで波立つ水中に潜水しているかのように原型をとどめていない。
ジェッキンゲンが右手を振り下ろした。赤い球体が発光しながらこちらに向かって飛んできたが、その謎の空間に触れると、音もなく消滅してしまった。そのうち、空間の揺らめきも少しずつ消失していった。
「何をした?」
ジェッキンゲンの声は動揺を隠しきれていなかった。
「月影の落とし道……正式名称“ムーンホール”。空間を捻じ曲げたんだ。簡単に言うと、別の場所と場所とをつなぎ合わせた。万物は、僕の作り出す特別な壁面の前では無力と化す」
「ならば知恵比べといきましょうか」
ジェッキンゲンの口調は穏便で、ほとんど挑発じみた発言だった。きっとユイツの実力を見込んでのことだろう。通路に転がる鎧をまとった死体をなるべく見ないように注意しながら、アーチャはそう考えた。
「私の魔力とあなたの超能力、どちらがその上をいくのか勝負です。あなたがアーチャとシャヌをここから助け出せるのであれば、最後までその力を拝見させてもらいたいものです。無論、私が本気を出せば、あなたはここから生きては帰れませんけどね」
「能書きなんて聞きたくないよ。さっさと始めよう」
ジェッキンゲンが大きく一歩踏み出した。ユイツは手を頭上に掲げたまま後退し、後ろ向きで通路へと出た。そして先ほど同様、頭上から足元に向かって勢いよく手を振り下ろした。手の動きに沿って空間がねじれ、ドア枠の中のジェッキンゲンが縦に大きく揺らめいた。
「……芸が無い」
ドア枠に作られた『ムーンホール』に向かって、ジェッキンゲンは尚も歩き続けた。アーチャはジェッキンゲンの姿がその空間のねじれと共に消え去るのを目の前で見て、再び感銘した。
「なあ、今のどうやったんだ? お前も魔法を使えたんだな」
どこかに向かって歩を進めるユイツの背中に向かって、アーチャは感慨を込めてそう言った。ユイツはその場で急に立ち止まり、怖い顔でアーチャを振り返った。
「無駄話をしてる余裕はないんだ。分かってるのかい? 君は今からシャヌを連れてここから出なくちゃいけないんだ」
ユイツはそうたしなめると、再び歩き始めた。ユイツの説教は続いた。
「大勢の兵士たちから逃げ切るにはそれなりの覚悟が必要になってくる。生半可な心構えでいるんなら、今からでもいい、冷静な判断をできるような精神状態を維持してくれ。……もうそろそろ、通路の末端に仕掛けた“見えない壁”の効果が消滅する頃だ。さあ、急ごう」
二人が足を速めた時だった。天井の照明の間からジェッキンゲンが姿を現し、アーチャたちの行く手を阻んだ。コウモリよろしく天井にぶら下がるその姿は、アーチャたちを戦慄させるには十分すぎるほどの不気味さをかもし出していた。
「そんな……あの空間は、戦闘機の外壁につながっていたはずだ」
「そうだったんですか」
焦るユイツを楽しむような口調でジェッキンゲンは言った。
「あれは魔法体といって、言わば私が作り出した幻影です。さて、次は私の番ですよね?」
ユイツはとっさに来た道を振り返り、またも手を大きく振り下ろした。二人の後方に、ムーンホールが姿を現した。
「アーチャ、行くんだ!」
次の瞬間、ユイツの体はジェッキンゲンの作り出した半透明の球体に包み込まれ、身動きできない状態になっていた。アーチャのすぐ目の前に、ジェッキンゲンの差し出す長い五本の指があった。
「さあ、アーチャ。大人しくシャヌを渡しなさい。もちろん、無償の取引ではありません。あなたたちの自由を約束しましょう。そうすれば、もう軍と戦う必要はなくなるのですよ。地上の世界で、あなたたちは死ぬまで平凡な人生を送れるのです」
「シャヌのいない自由な人生なんて、ちっとも魅力を感じないね」
アーチャは本心を言った。白い靄の立ち込む半透明の球体の中で、ユイツが嬉しそうにうなずくのがうっすらと分かった。ジェッキンゲンは逆さまの宙吊り状態のままニッタリと笑った。
「君がそういう態度で盾突こうというのなら、おのずと答えは出るでしょう。私は君を殺してでもシャヌを奪い返す」
アーチャはとっさに踵を返した。数メートル向こうに漂うムーンホールが、アーチャとシャヌを今か今かと待ちわびていた。
「逃がすか!」
直後に、背後から聞こえてきたのは、刃と刃がこすれ合うような嫌な金属音だった。アーチャはシャヌをしっかりと抱えて空間の歪みに飛び込み、その先がどうなっているのかも分からないまま身を伏せた。たくさんの何かが頭上を飛び去っていくのが音で分かった。髪の毛の先端をかすめていくこともあり、アーチャはその度に身を縮めた。ずっと奥の方から聞こえてくるのは、何か金属のような物が壁にぶち当たる奇怪な音楽だった。