十二章 百十八年後の使者 7
「フィン。今のアーチャに何を言っても無駄だと思いますよ」
ファージニアスが穏やかに忠告した。フィンはまだ物言いたそうに下唇を噛んでいたが、やがて心に決めたように、きりりとした表情に整えた。
「分かったわ……でも、絶対に死んじゃダメだからね。シャヌを助け出したらすぐに連絡をちょうだい。必ず迎えに行くから」
「フィン、ありがとう」
アーチャが言い終わらない内に、無線機からレッジの声が聞こえてきた。
「水を差すようだが、まだハッキングに成功したわけじゃないんだ。まあ大丈夫だとは思うが……アーチャ、お前と話したい奴がいるみたいだぞ」
アーチャには、それが誰なのかすぐに分かった。
「アーチャ? 聞こえるか? 俺だ、アンジだ。分かるか?」
それはスピーカー越しからだったが、アーチャにとって、アンジと会話できてこれほど嬉しいと感じたのは初めてだった。アーチャの顔には自然と笑顔が広がっていた。
「ああ、ちゃんと聞こえてるよ、アンジ……ちゃんと聞こえてる」
アンジの照れくさそうな咳払いが鳴り響いた。
「それにしても、機械に向かって話し掛けるなんてバカバカしくてしょうがないぜ。そう思わねえか、アーチャ?」
「まあね……しかもイクシム族のお前にとっちゃ、そんな姿を同種の仲間に見られたくないもんだよな」
アーチャはからかい半分で言ったつもりなのに、アンジはその言葉をやたらと気にとめたようだった。しばしの沈黙の後、アンジの声がようやくスピーカーから聞こえてきた。
「俺、じいさんに説教されちまってさ。それからずっとお前のことを考えてた。アーチャがいなかったら、今ごろ俺はどうなっていただろうって。けどよ、お前の声聞いてると、もうどうでもよくなっちまった」
アンジの声は遠く離れた場所にいてもよく分かるほど清々しいものだった。アンジが何を伝えたいのかは不明瞭なままだったが、アーチャにはアンジの気持ちが何となく分かっていた。だから、そのことに関してはあえて何も触れなかった。
「アンジ。俺、絶対にシャヌを助け出すから、ちゃんと待っててくれよな。必ずそこに戻るから、それまで……」
「ああ、もう! 分かってるって!」
アンジは怒ったが、その声はアンジらしい優しさでいっぱいだった。
「お前にそれだけの力があるって、俺にはちゃんと分かってる。だから、俺はもうすでに確信してる。お前は必ず帰ってくるって……それだけで十分だろ?」
アーチャが返事をする前に、アンジの声がレッジのものに変わった。
「準備ができたぞ! 予想どおり、違うのはその外見だけだったみたいだ。こちらから指令を送れば敵機の外ドアが開き、中に侵入できる。だが、相手側が異変に気付いてドアを閉めればそれまでだ。タイミングは君たち次第でどうにでもできるが、ドアを開けていられるのはわずかな間だけだ。俺が敵機のコンピュータ内に送り込んだスパイウイルスの位置が軍に気付かれたら、もうどうすることもできないってことも肝に銘じておいてくれ」
「ウイルスだって? そんなもんが何の役に立つっての?」
「怪物の詳細情報をそっくりそのまま頂戴するためのプログラムだ。風邪のウイルスと一緒にするな」
無知なアーチャの質問にはうんざりだという口調でレッジが説明した。
「内部の構造から暗証番号まで、何でも筒抜けにできる俺の最高傑作だ。いつか国軍の中枢に潜り込ませようと計画してたとっておきの奴だったんだが……長話が過ぎたようだ。全員、準備はできてるな?」
それぞれが緊張した面持ちで持ち場に着いた。ファージニアスは操縦席へ、フィンはコックピットと通路をつなぐ境界へ、アーチャは、戦闘機の出入り口の正面へ向かった。
「アーチャ、頑張ってね」
フィンは小型無線機をアーチャに差し出し、瞳を潤ませながらそう言った。
機体のスピードが上がった。通路からはわずかにしか外の光景を確認できなかったが、大型戦闘機が近くまで接近しているのがはっきりと分かった。前方を優雅に飛行するその巨大な戦闘機は、そばで見ると更にその醜悪さに深みがかかった。
アーチャは緊張と恐怖にかられていたが、いつまでも怯えてるわけにはいかなかった。あの怪物の中に、きっとシャヌはいる。そして、誰かの助けを……アーチャの助けを待ってるはずだ。
「今右辺に回りこみました……ものすごい風圧です!」
汗だくになって操縦桿と格闘しながら、ファージニアスが無線機に向かって叫んだ。レッジの声がスピーカーを通して機内中に響き渡った。
「よし、まずは小型機のドアを開けるぞ。最初は非常用スイッチだ。燃料メーターのすぐ左にある赤いスイッチを押せ。次はコンパスの下にある黄色いスイッチだ。順番を間違えるな」
ファージニアスは指示されたとおりの順番でスイッチを押した。操縦桿と共に機体が震え、それはアーチャが壁に手を添えていないと耐えられないほどの大きな揺れだった。
「最後は、初めに押した赤いスイッチの下にある銀色のレバーを三つとも全部下げろ。これで飛行中でもドアが開くはずだ」
「アーチャ、扉が開くわ。下がって」
アーチャが背後の壁に背中を押し付けた途端、鉄の重たい扉がゆっくりと音を立てて開いた。すぐ目の前には、うなりを上げて雲の中を突っ切る怪物の姿があった。ドア枠によって切り取られた断片的な姿だというのに、その怪物は、まさに空を支配する王者のような堂々たる風格でそこに君臨していた。
「敵機の扉を開けるぞ! 準備はいいな、アーチャ!」
「おう! いつでもいいぜ!」
アーチャは大声を張り上げて威勢良く叫んだ。そうでもしないと、この怪物に立ち向かうだけの勇気を奮い起こすことなんかできやしない。
フィンがファージニアスに指示を送ると、機体が敵機に向かって急激に接近した。翼がぶつかるのではないかというくらい近い。だが、ここは操縦士の腕の見せ所だった。機体は徐々に斜めに傾き、左翼が漆黒の鋼のボディに接触しないよう、ファージニアスが高度な操縦を披露したのだ。
機体と機体が数メートルにまで接近し、手足の感覚がなくなるくらいの大きな揺れが訪れた時、いよいよ怪物の口が開き始めた。ブラックホールが目に見えるものとしてこの世に存在していたなら、それはきっとこんな姿に違いないはずだ。怪物の口の中は、闇そのものだった……光を包み込む闇、すべてを覆い隠してしまう闇、一寸先の未来も見通せない、闇。
「行け! アーチャ!」
アンジの声が叫ぶと同時に、アーチャはドア枠から怪物の口目がけて身を投げ出した。その闇の中で見出した、希望という名の光を手にするために……そして、シャヌを軍の手から救い出すために、アーチャは空へ向かって飛んだ。