十二章 百十八年後の使者 1
アンジが酒場の地下に戻ってきたのは、その出来事から一時間以上も過ぎた後のことだった。地下に足を踏み入れた途端、アンジは言い知れぬ不安を感じ取った。シャヌが魔法で施した部屋の明かりが消えているし、物音一つしない。一瞬、アンジの脳裏には最悪の事態が……出かけている間に全員が国軍に捕まってしまったという恐ろしい事態が思い浮かんだが、そうではなかった。最悪の一歩手前だった。
「じいさん! どうした? 一体何があった?」
部屋は薄暗く、すべてがぼやけて見えたが、じいさんが冷たい床の上に頬をべったり押し付けて眠っていることや、テーブルと椅子が乱暴に倒され、食べ物が床に散乱していることも、アンジにはすぐに分かった。
いくら声をかけても、じいさんは一向に意識を取り戻さなかった。絶望感の中、アンジは途方に暮れた。
「一体何がどうなって……?」
その時、奥の部屋の方から岩と岩がこすれ合うような重量感のある音が聞こえてきた。アンジの神経は一気に研ぎ澄まされた。そして、音がした方へちょっぴり近づき、そっと耳を傾けた。次に聞こえてきたのは、虚無感のある弱々しい足音だった。こちらに近づいてくる。
「誰だ?」
アンジは地下全体に威勢よく声を響かせた。足音はすぐに止まったが、またおもむろに動き出した。
「待て! 早まるな! 俺だ、レッジだ!」
殴りかかろうと腕を振り上げて前準備していたアンジに向かって、今しがた廊下を歩いてきた足音の主がそう言った。そこにいたのは、確かにレッジだった。
「ああ、あんたか……すまねえ」
アンジはにべもなく謝った。
「お前……アンジって言ったか? 今までどこに行ってた?」
レッジが聞いた。
「どこだっていいじゃねえか。それより、一体ここで何があったんだ?」
アンジも聞いた。
「俺の質問に答えろ」
レッジの口調は乱暴だった。
「この状況を尻目に何を冷静になって話せっていうんだ? まずは俺の質問に答えろ」
アンジが負けじと怒鳴った。
穏やかで親切な人がこの無愛想な二人の会話を耳にしたら、きっと呆れ顔で嘆息を漏らしたことだろう。そもそも、アンジはルーティー族が嫌いだった。頭の狂った変人だと決め込んだのは遥か昔のことだが、それが決定的なものとなってしまったのは、ジャーニスとの一件があったからだ。
「今日は二回も昼寝しおったか。わしは世界一の幸せ者じゃ」
じいさんがやにわにむくりと起き上がり、出し抜けにそう言った。アンジは声を上げてその場から飛び退いた。
「驚かすな……と、説教したいところだが……」
アンジは踏みとどまった。
「じいさん、俺の質問に答えてもらうぞ。アーチャたちはどこへ行ったんだ? どうして食べ物と一緒に床で寝てたんだ? これは軍の仕業なのか?」
アンジはいつもの調子でじいさんを質問攻めにした。だが当の本人は、脳みそにしわを寄せるだけで精一杯だった。
「わしゃ、ただ眠っていただけじゃ。ぐっすりとな」
じいさんは素直に答えを出した。アンジの苛立ちは重なる一方だった。
「まあいいか」
レッジが冷たく言った。
「あんたたちでも、いないよりはマシだ。俺について来てくれ。案内したい所がある」
アンジは動こうとしなかった。部屋を出てから、レッジは振り返った。
「軍を倒し、お前の仲間を助けるための作戦を組み立てようってんだ。俺一人にやらせるつもりか? 一番奥の隠し扉のある部屋まで来い」
レッジは足早にその場を離れたが、アンジは頑固だった。
「行かんのかい?」
じいさんが小声で呼びかけた。アンジはじいさんを直視しようとしなかった。
「行くはずないだろ。アーチャたちが本当に軍に捕まったかどうかだってまだ分からないし、あのレッジって男はルーティー族だぞ。また何か悪巧みしてるかもしれない」
アンジは大きな声で聞こえよがしに言った。
「俺はもう危険を冒したくないんだ。軍の反感を買うには十分過ぎるほどのことを海底でやってきた。それに俺は……」
「俺はイクシム族だから……か?」
じいさんが突然言った。
「そのセリフ、もう聞き飽きたわい」
アンジは言葉を失った。言い返す言葉さえなかった。じいさんに言いくるめられるのはアンジにとって不快以外の何物でもないが、それは偽りのない真実だった。だから余計に腹が立ったのかもしれない。
「おぬし、何か大切なことを忘れとるんじゃないのかね?」
そう言い残し、じいさんはゆっくりとレッジの後を追って部屋を出て行った。一人取り残されたアンジは、沈黙して突っ立っているしかなかった。そうして、海底のドレイ収容所で何が起こったのか、もう一度よく考えてみた。
アーチャと出会ってからすべてが変わった……考え方や生き方を改めて考えさせられ、もう一度地上で生きるという希望を持つことができた。多くの血族が混沌とするこの世界で、種族の壁という概念を乗り越えて得られる、仲間や親友というかけがえのない存在と出会うことができた。
そしてその存在というのが、アーチャだった。
「そうだったよな……アーチャ」
忘れていた何かを思い出すように、アンジはそっと呟いた。
「お前がいたから、今の俺がいるんだ……」
アンジは部屋を飛び出した。二人の待つ奥の部屋まで行くと、アンジは声を張り上げた。
「今度は俺がアーチャを助ける番だ。そして、他人を信じる番だ」