十一章 美しき罠 4
「もう一人は? イクシム族が一人いたはずよ」
アーチャは、闇の中で誰かの声を聞いた。
「大した問題にはならないでしょう。彼のような人材は、海底のドレイ収容所に溢れ返るほどいますからね。それに、彼が一人で軍に抵抗するなど、ありえないことです」
ファージニアスの声がそう言ったのを、アーチャは、ぼんやりとした意識の中でもはっきりと耳にすることができた。まだ目の前は暗闇だった。
「一体どういうこと?」
「彼は争いを好まない種族として生まれました。心の中に独立させた概念を抱き、他人の考えを受け入れまいとする頑なな意思を確立させています。まあ、それがイクシム族の性格でもあるんですけどね」
何者かの動き回る音が部屋の中に響き渡った。落ち着きのない足音と、急かすような衣擦れする音が聞こえる。
「軍の到着はいつなんだ?」
男の声が聞いた。
「もうすぐですよ。血眼になって探していた滅びの一族を目の前にして、ためらう理由など一つもありません」
その言葉を聞いて、アーチャの胸は悔しさでいっぱいになった。ファージニアスを信用してきた自分が、浅はかな考えでフィンを訪ねた自分が……そして何より、シャヌを守りきれなかった自分が、悔しくて、不甲斐なくて、我慢ならなかった。
まだ視界は真っ暗闇なのに、アーチャの目の前には、海底から地上へ脱出してからの日々が走馬灯のように流れていった。そのどれにも、ファージニアスの姿が思い浮かぶというのに、どうして一度でも彼を問い詰めるようなことをしなかったんだろう? そうすれば、ファージニアスが軍の一味だということに気づけたかも知れない……そうすれば、もっと早いうちから手を打つことができたかもしれない。
今頃になってあれこれ考えても後の祭りであることは明らかだが、アーチャにはどうしても理解できないことが一つだけあった。ファージニアスには今までにも、軍に密告する機会がいくらでもあったはずだ。なぜ今頃になって行動に出る?
アーチャはまぶたをこじ開けるようにして闇を振り払った。そこは、アーチャたちが食事をとっていた部屋だった。テーブルの上を豪華に彩るご馳走の向こう側に、三人分の人影が見受けられる。おそらく、ファージニアスとフィン、レッジに違いない。アーチャは食事の時のように椅子に座っていたが、ここまで行儀よく座っていたことなど生まれてから一度だってありはしなかった。どうやら、手足を縄で縛られているようだ。
アーチャは首をもたげて三人を睨みつけてやった。それに気付いたファージニアスが、ほくそ笑みながら大またで近づいてくる。
「気分はいかがですか、アーチャ? また海底へと戻される気分は?」
アーチャは怒りを言葉にして発散させようとしたが、唇が無意味に動くだけで、声が出てこなかった。
「おっと、これは失礼……」
ファージニアスはすぐさま訂正した。
「海底ではなくて、処刑台でしたね!」
アーチャは立ち上がって殴りかかろうとしたが、縄のせいで足がもつれ、その場に顔面から倒れこんでしまった。悲痛のうめき声さえ出てこなかった。
「眠り薬と一緒に麻酔薬まで投じたというのに、まだそんなに動けるなんて驚きましたね。あなただけ縄で縛っておいて正解でしたよ」
アーチャは床に倒れこんだまま、椅子に腰掛けて眠り続けるシャヌとじいさんを見た。何とかしてシャヌだけでも遠くへ逃がさなければ……だが、アーチャにはこの状況を打開するための決定的な策を見出せなかった。薬のせいで体中が強張り、脳みその活動も停止寸前だった。
「なあ、ファージニアス。本当にあんたのことを信用しても大丈夫なのか?」
レッジがいかにも疑わしげな口調でそう聞いた。ファージニアスのいつもの快活な声がすぐに答えを出した。
「もちろんですよ。私の計画は最初から最後までバッチリです! ですから、ご安心してブランデーでもお飲みになっていてください。その間に、善人の心理をもてあそぶ私の美しき罠が完結することでしょう!」
アーチャの呼吸は段々と荒くなり、やがて、五感がほとんど機能しなくなった。
シャヌの名を必死の思いで叫び続け、ファージニアスの高笑いを聞きながら、深い底無しの闇へと、アーチャは真っ逆さまに落ちていった。