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十一章  美しき罠  3

「その本……何読んでるの?」


 アーチャは強引に話題を変えようと、机の上の本を物々しく指差してそう尋ねた。シャヌは表紙をこちらに向け、口元に微かな笑みを浮かべた。表紙には、金箔の文字で『ヘインの見た世界』と書かれている。


「ヘインの見た世界。おとぎ話よ。魔力を持った人たちが力を合わせて、魔女や海賊たちと戦うの。とても面白くて、今日一日で半分以上も読んじゃった。全部読み終わったら、アーチャにも貸してあげるね」


 シャヌが楽しげな弾んだ声で話しかけるその姿を見ているだけで、アーチャの心は自然と癒されていった。嫌なことを忘れさせてくれるシャヌの優しい笑顔がそこにあった。


「人のために何かするって、簡単なことじゃないよね……」


 静ひつさを漂わせるシャヌの瞳は、本の背表紙を見つめたままだった。アーチャはただ黙ってうなずいた。


「だけどその人の心の中には、私という記憶がいつまでも残り続けると思うの。そうして初めて、私がこの世界に存在できる理由が生まれる……それが生きた証につながる」


「他人のために尽くすことだけが生きた証だなんて、そんなはずないじゃないか」


 シャヌは顔を上げ、アーチャをしっかりと見つめた。だが、その視線は確かにシャヌのものなのに、アーチャにはなぜだかそんな気がしなかった。まったく別の誰かに見つめられているような感覚なのだ。シャヌの眼差しは、かつてないほど力強いものだったに違いない。

 シャヌのその瞳は、片時もアーチャから離れようとしなかった。


「海底で出会ったグランモニカが、私とおじいさんに向かってこう言ったのを覚えてる? あなたたち二人がこの瞬間に存在している理由が、必ずどこかにあるはず……その後にこうも続けたわ……その目的を成し遂げた時、その存在はこの時間の流れから消えてなくなる」


「うん。はっきりと覚えてるよ……だけど、グランモニカの言っていたことが事実だったとしても、シャヌがそうした意志で生きていく理由なんかどこにもないよ。生きた証なんかなくたって、誰もシャヌのことを忘れたりなんかしない。……シャヌが今俺の目の前から消えたとしても……俺はシャヌのことを絶対に忘れない!」


 気付くと、アーチャは喉を枯らして叫んでいた。そんなアーチャに向かって、シャヌはただ首を横に振った。


「ねえ、アーチャ。私ね、ずっと考えてたの。この広い世界には今この瞬間も、戦争や病、飢饉に苦しむ人たちが大勢いて、誰かに助けを求めてる。私は、その人たちのために何ができるだろうって、ずっと考えてた。私にできることといったら、明るく励ますことくらいだろうけど……けど、それでもいいの。アーチャが私を助けてくれるように、私も誰かを助けたい。この世界に存在しているってことを、実感したい」


 アーチャはシャヌをじっと見つめ続けた。紛れもない、シャヌの決然とした表情が確かにそこにあった。人のために生きることを選んだ、シャヌ自身と一緒に。


「シャヌが願い続ければ、いつかきっとその時が来る」


 シャヌの瞳を見つめたまま、アーチャは静かに言った。


「俺たちって人間はさ、意識してなくても、自分の抱く夢や、思想や、目標に向かって、自然と歩み続けてるもんなんだ。そこにあるのが、些細な冒険心や、はかない希望だったとしても、それはどんな人にだってできることなんだ。だから、シャヌがそう決意したなら、いつか辿り着けるはずさ。シャヌに救われる命が、きっとどこかにある……そして、その時を待ってる」


 顔をほこらばせるシャヌを見つめながら、アーチャは思った。ただ闇雲に生きるのではなく、意味のある生き方を選んだシャヌの強い志は本当に素晴らしい、と。そしてこうも思った。


『俺はどうしてシャヌを助けたいんだろう?』と。


 海底のドレイ収容所で初めてシャヌを見かけた日の夜、長い時間を寝付けずにいたのを今でも鮮明に覚えている。あの時は、シャヌを助けたい一心だった。自分ならシャヌの全てを受け入れることができると、そう自信を持って言えた。

 だが、その理由は未だに分からない。ただ純粋にシャヌのことを好いているだけなら、その答えは簡単だ。しかし、本当にそれだけなのだろうか? もっと大切なことを見落としてはいないだろうか? やはり、アーチャにはその答えを導き出すことができなかった。


 一時間も過ぎた頃には、じいさんは昼寝から目覚め、ファージニアスは車の整備から戻ってきていた。みんなハラペコな様子だったが、アンジはやはりまだ帰ってこない。


「誰がなんと言おうと、俺はもう食う! アンジなんか待ってられないよ!」


 アーチャはご馳走を目の前に、頑固に言い放った。これにはシャヌも賛同せざるを得なかった。アーチャは、シャヌをも納得させるほど不幸な空腹感に耐え忍んだのだ。ファージニアスがフィンの時と同じような理由で横から口を挟もうが、もうおかまいなしだった。


「アンジの分は残しておけばいいわ。ファージニアスさん、実は私もお腹ペコペコなの」


 シャヌの説得は効果絶大だった。ファージニアスは怖い顔でしばらく考え込んだが、それはやがて呆れたような表情へと変わった。


「分かりました。食欲に勝るものは食べ物の他に存在しませんからね……私は上へ行って、お酒を少々もらってきます。みなさんは先に食べていてください」


「ファージニアスの奴、いつの間に食事の権限を握ったんだ?」


 階段を上っていく足音に向かっていぶかしげに尋ねながら、アーチャは褐色の美麗な包みをご馳走から完全に取り除いた。その直後、シャヌやじいさんでさえ、テーブルの上に現われた豪勢な料理に思わず目を奪われた。

 ファージニアスは戻ってきても料理には手をつけず、ワインばかり飲んでいた。アーチャはその時、こんがりと焼き上げられたターキーに食らいついていたが、突如、それどころではなくなった。強い睡魔に襲われたのだ。

 学校という退屈な所では、健康な人ほど突然眠くなると噂で聞いたことがあるが、アーチャは学校にも通ったことがないし、ましてや食事中に眠るなんてバカな真似を一度だってしたことはなかった。だが、なぜかこの時は眠かった。眠気を拒絶しようとすればするほど視界がグルグルと回転し、その度にまぶたが重くなった。視界が狭まり、漠然とした意思で支えようとする頭は、幾度か前へ後ろへと奇妙な運動を繰り返した。

 またそれは、シャヌとじいさんも一緒らしかった。二人は肩を寄せ合って眠りこける始末だったが、アーチャはその姿を見届けても尚、耐え続けた。徐々にその重みを増していくまぶたを、上限を知らない食欲と並外れた根気で抑制していた。

 これが何らかの罠であることにアーチャが気付いたのは、顔中に会心の笑みを広げるファージニアスの表情を目にした時だった。だが、その時にはもう手遅れだった。アーチャは、ターキーに噛りつくことさえできないほどの深い眠りに落ちていた。


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