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十章  酒場の乙女  5

 彼なりの挨拶が無事に終わると、アーチャはやっと用件を伝えることができた。


「仲間の一人が軍に追われてるんだ。俺はその子をどうしても守らなきゃいけない。そのためには、どこか身を隠すところが必要なんだ。北のグレア・レヴというスラムに住んでるマニカ・アグシールに、あなたのことを聞いた。だからここを訪ねた」


「マニカさんが? そう……」


 フィンはカウンターの隅に重ね置きされていたガラス製の灰皿の一つを手に取り、それをレッジの手元に置いた。


「マニカさんは、私のことを何も知らなかったものね」


 どこか浮かない顔でフィンは言った。


「私が軍に追われていること、そのために都を捨ててここまで逃げて来たこと……そのことを知っていたら、わざわざ私のことを教えたりしなかったはずよ」


 レッジはそんなフィンの事情をすべて承知のようで、彼女が語り続けるかたわら、何でもないような表情で葉巻をくゆらせるばかりだった。

 この二人にならすべてを話せる。アーチャはそう思った。


「海底のドレイ収容所、アクアマリンをご存知ですよね?」


 フィンの顔が再び強張ったのを、アーチャはしっかりと見た。強面だったレッジでさえ葉巻を咥え忘れた。


「心配しないで」


 アーチャはすぐに言い添えた。


「別に、あなたを連れ戻しに来たんじゃない。俺もアクアマリンから脱走したんだ。仲間と一緒に……つい二日前のことだ」


 フィンとレッジの表情がより一層険しくなったので、アーチャは焦った。


「どうしてそのことを?」


 フィンが物静かに尋ねた。


「ジャーニスから聞いたんだ。あなたの同僚だった、あのジャーニスに」


「ええ、覚えてるわ……でも、あの時のことはもう二度と思い出したくない」


 フィンの声は沈みきっていた。


「ジャーニスはいつも私のことを気遣ってくれた……勇敢で、誠実で、どんな時だってくじけたりしなかった」


「……ジャーニスも一緒に脱出できたのか?」


 レッジが聞いた。ジャーニスのことを知っているような口ぶりだった。


「いや……ジャーニスは……その……死んだんだ」


 アーチャは躊躇しながらも最後まで言い切った。二人の顔は動揺の色を隠しきれなかった。


「ジャーニスが死んだ? あいつが?」


 レッジはカウンターから身を乗り出して叫ぶように聞いた。アーチャは小刻みにうなずき、レッジの赤くなった顔を見た。


「コッファとジクスはどうした? あの三人はいつも一緒だったはずだ」


 アーチャは間近に迫ったレッジの目をしっかり直視し、首を横に振った。その単調な行動一つで、レッジは全てを悟ったようだった。


「グレイクレイ国軍め!」


 レッジは握り締めた拳をカウンターの上に振り下ろした。その振動で客が残していった空のグラスが倒れ、灰皿が音を立てて跳ねた。


「ジャーニスには……あいつには家族がいた。今もあいつの帰りを待っているはずだ……」


 レッジが絶望しているその脇で、フィンが深々とため息をついた。


「人を人として扱わず、自分たちの利益になることならどんな卑劣な行為だって繰り返す……それが国軍のやり方よ。そうして、私たちのような混血種が生まれ、悲劇が始まった……」


「あなたもルーティー族?」


 レッジに聞いてみると、怒りで血走った二つの目がアーチャを睨んだ。


「そうだ。人の手によって作られた汚らわしいルーティー族だ。俺たちは、ただ戦争のために作られ、今をこうして生きているんだ。軍に見つからないよう、ひっそりとな」


「なぜ軍から逃げなければいけないのか……そう聞きたいんでしょう?」


 アーチャの質問したそうな表情を敏感に読み取ったのはフィンだった。アーチャはこっくりとうなずいた。


「過酷な労働、無視される人権。この二つが揃えば理由なんてそれで十分。だけどそれは、私たちが軍から逃げてる理由にしか過ぎない。軍がなぜ私を探すのか……それは、私が軍内部の極秘情報を知っているからなの。誰にも言えない、とんでもない情報をね」


 アーチャは生唾を飲み込んた。ジャーニスも軍の内部情報については詳しかったが、フィンの語る『極秘情報』はそのどれをも上回る代物らしい。


「そんな私たちにできることといったら……」


 レッジの肩に手を添えながら、フィンがゆっくりと言った。


「この店の地下にある空き部屋を、あなたたちに貸してあげられることくらいかしらね。それ以外のことは、自分たちで何とかするしかないわ」


 アーチャの顔に自然と笑みが広がった。


「ここの地下を? 本当に? ありがとう!」


 思わず立ち上がりながらアーチャは礼を言った。


「アーチャ……だったか?」


 レッジが葉巻の先をアーチャに向けながら、たどたどしく話し掛けてきた。


「他にもまだ仲間がいるんだろ? この街は治安が悪い。夜に外をうろつくのは危険だぞ」


 アーチャはレッジの視線の先を見た。窓の向こうに、こちらを心配そうに見つめる三つの顔があった。シャヌにアンジ、それにじいさんだ。心配して様子を見に来てくれたらしい。


「誰なの? アーチャが守らなきゃいけない子って。今度ゆっくり紹介してよね」


 フィンはそう言って、窓の向こうにいる三人を店の中に招き入れた。

 この街に来て以来、アーチャは初めて心からほっとすることができた。

 アーチャたちはその夜のうちに酒場の地下へと招かれた。そこは地下というだけあって肌寒かったが、長期滞在において必要なものはすべて揃っていた。二人分の布団に、みんなが囲えるだけの大きなテーブル。小さな厨房は使い古されて朽ちていたが、水も出るしガスも使える。換気扇の調子もバッチリだ。食器にはほこりがかぶっているが、大した問題ではない。浴室も便所も完備されていて、都会の安い宿泊施設と大差なかった。だが唯一の問題は、電気がないということだった。


「水は井戸から供給してるから、使いすぎには注意して。日照りが続くと渇水になったりするから。火の不始末には気をつけて。それと、一世帯辺りで使える電気の量が限られてるから、この地下では換気扇を回すだけで精一杯なの。我慢してね」


 フィンは一つ一つの部屋を紹介しながら、アーチャたちにあれこれと注意点を指摘した。最後に辿り着いたのは倉庫のような部屋だった。何にもない空っぽだ。


「ここをよーく見て」


 フィンは入り口正面の岩壁を漠然と指差した。アーチャたちは覆い重なるようにして壁を見つめた。


「……あ」


 アンジが何かを見つけた。


「取っ手だ」


 地下全体がほの暗いせいで、その取っ手を見つけるのはとても容易なことではなかった。だが、確かにそこには小さな窪みがある。


「隠し扉よ。この先には階段があって、建物の裏まで続いてる。もし何かあったら、ここを通って外へ出て。……これを使う時がこなければいいんだけどね」


「フィンさん……色々とありがとう」


 アーチャは改まって礼を言った。フィンはクスッと笑った。


「お礼なんて全然いらないよ。だってあたしたち、もう同志じゃないの。ね?」


 レッジと店の後片付けをしなければいけないからと、フィンは急ぎ足で階段を上ったが、その途中で振り向きざまに立ち止まった。


「私たち、普段は向かいの家にいるから、何かあったら訪ねて来て。でも、目立つような行動は厳禁だからね。車は一目につきにくい裏に停めておくといいわ。それじゃ、おやすみ」


 階段を上っていくフィンの後ろ姿を、アーチャたちは見えなくなるまで見送っていた。今から始まる、地下での生活をしめやかに案じながら。


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