九章 記憶の中の英雄 4
「捜索隊がスラムにやって来るって、どういうことだ?」
ゼルの後ろ姿を目で追いながら、アーチャが率直に尋ねた。
「今までの話の流れから、みなさんはもう大方お気付きでしょう」
意味ありげなユイツのこの言葉は、アーチャたちだけでなく、焚き火を囲んで聞き耳を立てていた多くの住民にさえ、不吉な戦慄をしっかりと抱かせたのだった。そんな大勢の不安を尻目に、ユイツは話し続けた。
「明日、滅びの一族に宿る強大な魔力を求めて、特別捜索隊がこのスラムへシャヌを取り戻しにやって来るのです」
アーチャは耳を疑った。シャヌを公の場に明かしてしまったことで、まさか、ここまで多大な影響を及ぼすなんて想像もしていなかった。
「これから、俺たちはどうすればいい?」
アーチャの背後から、アンジが静かに尋ねかけた。この深刻な事態を目の当たりにしたアンジは、身も心も縮んでしまったかのように見えた。
「僕たちは、警告するためにこのスラムまでやって来ました。上官を出し抜くのはそれなりに大変でしたが、彼らからシャヌを守ることに徹するのであれば、僕たちは身の危険を顧みません。かつて、君がそうしたように」
過去を見透かすようなユイツの視線は、アーチャにとってとても耐え難いものだった。楽しかった過去も、辛かった過去も、悲しかった過去も、すべて筒抜けにされているようで、とても怖かった。
「明日、捜索隊がここを訪れる前に、君たちはシャヌを連れてどこか遠くへ逃げて下さい。そして、しばらくの期間はそこに身を隠し、ほとぼりが冷めるまで下手に行動を起こさないでほしいのです」
「しばらくの期間って、その捜索隊ってのがここを離れるまでか?」
アーチャがぶっきらぼうに聞いた。ユイツは首を横に振って応じた。
「ジェッキンゲン大佐の目的は、シャヌの捜索だけではありません。もう一つ……」
「それ以上は国そのものに関わる極秘情報だ」
再び姿を見せたゼルが発した第一声は、ユイツを厳しく咎めるものだった。ユイツは肝を冷やしたような表情でゼルを振り返った。
「すみません、大尉。ただ、ここに住む彼らになら知っておく権利はあるかと……」
「それは私が決めることで、お前の役目ではない」
ユイツを説教するゼルの口調には一切の甘さを感じなかったが、その表情からは、わずかな慈愛の気配をかいま見ることができた。
「もういいから、お前は先に車に乗って待機していろ。すぐに出発だ。朝から部隊をほったらかしにしたことで、ジェッキンゲン大佐は心底ご立腹の様子だからな」
ユイツは姿を現した時と同様、爽やかな笑顔でアーチャたちに別れを告げ、クルリと背を向けて広場から去った。ユイツを取り巻く不思議なオーラが、彼の後を追いかけるようにしてアーチャの元から離れていった。
「これからのことはユイツから聞いたのだろう? 行動するなら早い方がいい。今日中にでも荷物をまとめてこの町から離れるんだ。アーチャ……シャヌがなぜここにいないのか、その理由を追求しようとは思わない」
まっすぐにアーチャを見据えながら、ゼルは静かに言った。
「だが、私は信じてる。世界から無意味な争いが消え去る時を……シャヌが平和と呼ばれる世界で自由に空を舞える時を……私は信じてる」
「それだけじゃない」
アーチャの瞳は燃え上がらんばかりだ。
「信じて、必死に戦うんだ。正当な戦いってのが何かを、国軍に教えてやるんだ。これからは、俺たちが未来を築き上げていかなきゃいけないから……だから、海底に今も囚われている仲間のためにも、俺は絶対に諦めたりしない。やってやる!」
そんなアーチャのやる気を消沈させたすべての発端は、アンジが弱々しくアーチャの名を呼んだことにあった。アーチャが振り向くと、そこには、アンジ、ファージニアス、カエマのひどく驚倒する表情があった。だが、それらと一緒にアーチャの視界に飛び込んできたのは、誰あろう、あのじいさんだった。よたよたとおぼつかない足取りで、アーチャのいる方へ向かって歩み寄って来る。
アジトの床に散乱する調度品の中に埋もれ、もうすっかり色あせてしまった東国の地味なお祭り衣装を、現地住民よりもピシッと着こなすじいさんのその表情は、まさにお祭り気分とでも言いたげだった。眉は溶けるように垂れ下がり、口元は痙攣しているかのようにヒクヒクと笑い、虚ろに輝くその瞳は、確かにゼル・スタンバインを見つめて離さない。
アーチャがこんなにおかしなじいさんを見るのは、これで二度目だった。一度目は、アーチャとじいさんが初めて出会った時に起きた、あの絶叫事件だ。だが今回のじいさんは、前回とはまるで様子が違う。何らかの喜びに、魂さえ抜け出てしまいそうな表情をしている。
こいつはただ事じゃないぞと、アーチャは息を呑んだ。
「ゼル……スタンバイン……少佐」
両腕を伸ばし、震える指先をゼルに向けながら、じいさんは荒い息遣いでそう言った。じいさんにいつもの平静ぶりは微塵もなかった。
「もう少佐ではない。重大な失態をしてしまい、降格したのだ」
ゼルはじいさんのことを何も知らなかったおかげで、ここまでおかしな彼を目の前にしても、いつもの冷静さを失ったりすることはなかった。じいさんのことに詳しいアーチャとアンジなら、今のじいさんに声をかけることさえためらうだろう。
しかし、こんな状況下でも、アーチャの脳味噌は完全にその活動を停止させていたわけではなかった。ゼルの言う『重大な失態』が、シャヌを逃がしてしまったことを言っているのだろうと、アーチャはとっさに気付くことができたのだ。
「わしは……思い出した。かつて……わしの、心の中に存在した……英雄の、その名を……ゼル・スタンバインという、英雄のその名を」
じいさんの口から『英雄』という言葉が発せられた時、アーチャの中で何かが大きく弾け上がった。そして、その“何か”が、アーチャの遠い過去の記憶から抜け落ちてしまった、ある出来事が深く関係しているということも、同時に思い出すことができた。
「私が英雄?」
ゼルはいよいよ困り始めた。
「私は、英雄などと呼ばれるような正義を、かつて一度だって見せたことはない。主人の命令どおりに動く犬そのものだった。吠えろと命令されれば吠えるし、噛めと命令されれば見境なしに噛みついた。だが、私は今日、自分の意思でここにやって来た……誰の命令でもない、自分の意思で」
ゼルの言葉の真意をちゃんと理解できたのは、おそらくアーチャしかいなかっただろう。アクアマリンでの別れ際に自らのことを語ってくれたゼルの姿は、アーチャの心にまだ鮮明に残されていた。
最後に(おかしくなったじいさんを差し置いて)、アーチャはもう一度ゼルとの誓いを交わし、「絶対にシャヌを守ってみせる」と豪語した。そうして二人は、二度目の別れを遂げたのだった。