九章 記憶の中の英雄 3
彼の姿はまるで、一年前にグレア・レヴへやって来た、『スラム救済団体・ベルネップボランティア』そのものだった。ぐったりと座り込む人々に話しかけ、各々の要求を聞いてあげては、できる限りの誠意を尽くしている。水が欲しい者には水筒の中身を分け与え、食べ物が欲しい者には自分の昼飯を食べさせてやり、毛布が欲しい者には着替え用の服を布団代わりにかぶせてやる。
時に笑いかけ、時に険しい顔つきで人々に話しかけるゼル・スタンバインが、そこにいた。
アーチャが車から降りると、アンジ、ファージニアス、カエマがそれに続いた。
「やあ」
ゼルの常盤色に染まる短いマントを見つめながら、アーチャが呼びかけた。ゼルは振り向くと同時に立ち上がり、怒りに満ちた鋭い目つきでアーチャを睨んだ。どうしてゼルがこんな表情をするのか、アーチャには察しがついていた。
「話は人づてに聞いている……すべてな」
「……シャヌのことか?」
アーチャは恐る恐る聞いてみた。ゼルは返事をする代わりに、アーチャにぐいぐいと歩み寄って来た。いや、もしかしたら、これがその返事だったのかもしれない。
「軍の中枢で活動する貴重生物保護管理局に昨夜、興味深い情報が飛び込んできた」
ゼルは呟くように切り出した。眉がますます吊り上がり、その瞳にはより一層怒りが込められていった。
「トワゴという街に突然、絶滅したはずのマイラ族の少女が現れたそうだ。その情報を入手した私は、自らトワゴへ赴き、事件の詳細を探るべく聞き込みを始めた。そして、ここへ辿り着いた。ルースター・コールズの一味であるアーチャ・ルーイェンを求めて」
ゼルは後ろで手を組み、これ以上は無理というくらいアーチャに接近した。アーチャは目に見えない重圧感で押し潰されそうになった。
「アーチャ。君は確かに『シャヌを守る』と、そう私に言ったはずだ。『誰も救えない奴に、自分を救う資格はない』とも言った。そして私は、その言葉を心から信じた。その結果がこれか?」
アーチャは面目ないとばかりにうつむいた。何と弁解してよいやら、その言葉さえ見つからなかった。
「アーチャは悪くねえよ、兵士さん」
その様子を見ていたアンジが、声を張り上げて口を挟んだ。イクシム族のアンジを見て、ゼルは少し驚いたようだった。細く鋭かった目が、丸く穏やかになったのだ。
「アーチャはシャヌを助け出そうと必死だったんだ。仲間に裏切られて、シャヌがトワゴに連れて行かれた時だって……」
「アンジ、もういい」
アーチャの声はとても小さかったが、その一言は、アンジから次の言葉を奪い取ってしまうほど強烈な印象を与えた。
「俺の考えが浅はかだったんだ。シャヌのこと、生活のこと、今後のこと……みんな浅はかだった……でも、シャヌと一緒に地下から脱出したことに関して、俺は後悔してないし、間違った選択をしたとも思ってない」
ゼルの厳しい顔を見上げながら、アーチャは勇敢にもそう言い切った。トク、トクと、胸が小さく脈打つのを感じた。
「シャヌの捜索はすでに始まっている」
強面はそのままに、呟くような重々しい声でゼルが言った。
「次にシャヌが軍の手に渡った時、その魔力は悪用され、世界は破滅への第一歩を踏み出すだろう。殺戮機械が人々を支配し、大地は赤く染まるだろう。私たちは、多くの恐怖と共にこれからを生きていくことになるだろう。アーチャ……なぜ私が君にシャヌを託したのか、もう一度よく考えてほしい。そして、自らの意思で見出したその答えで、シャヌを守り続けてほしい」
そう言って、ゼルはあたりを見回した。何かを探しているようだった。
「シャヌはどこだ? 彼女にも話したいことがある」
これはまずいと、アーチャは焦りの色を隠せなかった。『守り続けてほしい』と言われた矢先、『シャヌはここにいません』だなんて、死んでも言えない。
「あの子なら、もう少しでここに戻って来ますよ」
瓦礫の山を踏み越えてこちらに向かってくるかたわら、明るい声色でそう発言したのは、緑の軍服を丁寧に着込んだ兵士だった。アンジの言っていた『スタンバインの部下』とは、きっとこの人のことだろう。確かに、アーチャは地下でこんな凛々しい顔立ちの兵士を見たことがないし、今まで出会ってきたどの兵士よりも若い。アーチャよりもわずかに年上のようにも見て取れるが、その容姿や言動から、ずいぶんとませた感じの青年なのは明確だった。
アーチャはしばらくこの兵士を観察するのに夢中になっていたのだが、突如、そんなことはどうでもよくなった。なぜなら、どうしてこの見ず知らずの若者が、シャヌがここにいないことを知っているのか、そして、もう少しで戻って来るなどと断言できるのか、疑問に思ったからだ。
「お前、一体何者なんだ?」
名前を尋ねようと思っていたのに、アーチャの口を突いて出たのは、えたいの知れない者に対するいつもの荒々しい言葉遣いだった。驚嘆するアーチャに向かって、兵士は愉快げに微笑えみかけた。
「僕の名はユイツ。兵士の見習いです」
ユイツから放たれる何とも言い難い不可思議なオーラをひしひしと全身に浴びながら、アーチャは半ばぼんやりして彼の声を聞いていた。そして、こいつはただ者ではないと、アーチャはそう直感した。
「ゼル大尉。先ほど、本部から無線に連絡が入りました」
アーチャたちの自己紹介が終わると、ユイツは不意に話題を切り替えた。
「至急、場所を移動せよとのことです。ここら一帯は僕らの管轄ではないですし、何より今回は、ゼル大尉の勝手な行動があだになってしまいましたからね。ですから、ここはおとなしく従っておいた方が良いかと思われます。明日になれば、捜索隊がこのスラムにもやって来るでしょうし……今後の内密な活動に支障を及ぼさないためにも、これ以上ジェッキンゲン大佐を怒らせない方がいいですよ」
最後の一言は、耳を澄まさなければいけないほど声が小さかったので、すべてを聞き取るのに苦労した。内密な活動とは、軍に反感を抱くゼルに深く関係していることなのだろうか?
「私から直に話そう。しばらく待っていてくれ」
ゼルはそう言い残し、ユイツが来た道を戻って広場から足早に去って行った。