九章 記憶の中の英雄 2
「アーチャ!」
中に入ってくるなり、アーチャの名を呼んだのはアンジだった。枠から外れた扉を握りしめるアンジのその表情は、ここにきて最も青ざめて見えた。
「扉を壊してまで伝えたいことって、何なの?」
アーチャは少し非難がましく聞いてみた。
「あいつが……あいつがいるんだ」
アンジは急激に声量を落とした。
「ゼル・スタンバインが、街の広場にいる」
その名を聞いた瞬間、アーチャは反射的に立ち上がっていた。そして、アンジのそばまで詰め寄り、そのゴツゴツとした体を盾にアジトの外を覗き見た。そこから見えたのは、カラッとした晴れ空の下、ファージニアスが自動車『カメレオン』の窓拭きをしている姿と、じいさんが植木鉢をしげしげと眺めている姿だけだった。
「ゼルの他には?」
「海底で見かけたことのない兵士が一人だけだ……スタンバインの部下だろうな」
アーチャは顔を上げてアンジを見た。
「確かなのか?」
「俺は目だけはいいんだ」
不安げな表情のカエマを尻目に、アーチャは黙々と考えた。
アンジがゼルの名を口にした時はどうやって身を隠そうか迷いもしたが、思い返してみると、今ここでこうしていられるのはゼルのおかげでもあるのだ。シャヌを連れ立とうとするアーチャをゼルが捕らえていれば、アーチャは今頃、本物の闇の中にいたはずだ。
ゼルがアーチャたちの脱走を大っぴらにしていなければ、シャヌが地下から姿を消したことはともかく、そのことがアーチャたちの失踪を関連付ける要因になるとは誰も考えつかないはずだ。それは、アンジの言っていた『スタンバインの部下』らしき人物が、例えアクアマリンで勤務していた兵士だったとしてもだ。
「俺、会いに行ってみる」
アーチャは勇敢な答えを導き出した。
「正気かよ。相手は国軍だぜ? いくら相手が少人数だからって、脱走者だってことを自分から打ち明けに行くバカがどこにいる?」
アーチャは聞く耳持たずだった。アンジの背後をすり抜け、外へ踏み出すと、一度深呼吸してアジトを振り返った。
「大丈夫、ゼルは俺たちの味方さ」
そう言って、アーチャは街の中心部へと続く長い一本道を歩き始めた。
「どういうことだ?」
軽快な歩調で行進を続けるアーチャをドタドタと追いかけながら、アンジが聞いた。そのすぐ背後から、カエマのか弱い足音が重なる。
「俺がシャヌを救い出した時、ゼルは手を貸してくれたんだ。だから、彼ならきっと信用できる」
アーチャが言い終わらないうちに、背後で低いエンジン音がうなりを上げた。三人が振り向くと、こちらに向かってゆっくりと近づいて来るカメレオンの姿が視界に入った。
「さあ、参りましょうか!」
運転席からファージニアスが陽気に呼びかけた。
「グレア・レヴへやって来た、珍しいお客さんにお目見えするために!」
アーチャ、アンジ、カエマは車へと乗り込み、じいさん、ファージニアスと一緒に広場へと向かった。
「ゼル・スタンバインって、誰なの?」
カエマが我慢できずに聞いた。
「アクアマリンくらいは聞いたことあるだろ?」
アーチャは自らも質問するという形式で答えた。
「ええ、もちろん」
カエマの口調は自信たっぷりだ。
「前に、街の図書館で読んだことがあるの。そこにはこう書いてあった。『アクアマリンは、マープル族が大昔から守ってきた魔の力を持つ鉱石である。主の瞳は透き通る青に輝き、体内を巡る血液は繊細な魔力で満たされる。その神秘の力は十の指先より放たれ、万物を念じる強い精神と肉体の間より生まれる。海底に眠り続けるアクアマリンは、アクアマリンを糧とするマープルによって守られている』」
ここまで言い終わると、カエマを含めて全員が深呼吸した。そして、まだ続く。
「別の本にはこうも書いてあったわ。『隠されし世の最後の秘宝“アクアマリン”は、マープル族の長グランモニカによって、光をも寄せ付けぬ海底の洞窟で今も尚、輝き続けることを忘れてはいない。アクアマリンの眠る海域がグレイクレイ国によって統治されたのは、つい最近のことだ』……以上だけど?」
カエマは、「アクアマリンがどうかした?」とでも言うような語調で締めくくり、車中の全員をぐるりと見回した。みんな唖然としていた。
「ようするに、君はもう少し外で遊んだ方がいいってことだ」
アンジが結論を述べた。
「俺が聞きたかったのは、海底にある奴隷収容所のことだったのさ」
カエマに感心しつつも、アーチャは本題を忘れてはいなかった。
「俺、アンジ、シャヌ、おじいさんは、人魚たちの住み家を改造した奴隷収容所で生活してたんだ。その海底洞窟はアクアマリンと呼ばれていて、敵国を支配するための殺戮機械が作られたり、そのために科学的な生体実験が繰り返されたりしていて、世界中からたくさんの血族が集められていたんだ。俺たちはヘンテコな神殿作りに余念がなかったけどな……。ゼル・スタンバインって人はそこに勤務していた兵士のことで、俺たちがアクアマリンから脱出するのを手助けしてくれた人さ」
「それじゃあ、ゼルって兵士はあたしたちの味方ってわけね」
カエマが安心しきった声でそう言い終わってから、街の広場に到着するまでの時間は、至極束の間だった。車が広場の中央で停車すると、焚き火から立ち昇る細い筋のような煙が、そこに集まっていた人々と共にざわざわと揺らめいた。タイヤ痕から砂埃が舞い上がり、アーチャの視界の一部を黄土色に染め上げた。そして、息苦しいほどの砂埃に見え隠れしているのは、間違いない、ゼル・スタンバイン少佐だ。