八章 閉幕 8
アンジのそばにシャヌがいないことに気が付き、アーチャは辺りを見回した。膝を抱えて小さくうずくまるシャヌがいた場所は、草の禿げかけた丘のふもとだった。
「今だけはやめておけ。今だけは……」
シャヌに駆け寄ろうとするアーチャの後ろ姿に向かって、アンジは静かに声をかけた。アーチャはコクリとうなずき、悔し紛れに草をむしり始めた。
「何もできなかった……。俺は、周りにいた群衆と同じ、ただ見ているしかなかったんだ」
渾身の力を込め、雑草を根元からごっそり引き抜いた時、アーチャとアンジは明るいライトによって照らし出された。追っ手が来たのかと思ったが、そうではなかった。ファージニアスが、車のライトをこちらに向け、なだらかな斜面を下りてくるところだった。
アーチャ、アンジ、シャヌは車へ乗り込み、一行は、ファージニアスの運転する『カメレオン』でアジトへの帰路を辿った。
自動車のエンジン音がより一層けたたましく感じるほど、静かな夜道が続いた。ここまで閑静なのには二つの理由があった。一つは、ここが田舎道だということ。もう一つは、車中の雰囲気が重苦しく、誰も口を開こうとしなかったことだ。あのファージニアスでさえ、事態の重大さをひしひしと感じているらしく、黙りこくったまま運転に集中していた。
こうなると、アーチャの行き着く場所はやはり星空だった。たとえ、ほんの数秒前に死ぬほど怖い体験をしていたとしても、この満天の星空を眺めれば一瞬で忘れることができる。その意思のせいで、助手席に座るアーチャはずっと顔を上げっぱなしだった。
森を抜け、カボチャ畑の果てへと続いていくあぜ道を走行中、突如として沈黙が破られた。
「車を停めて!」
そう叫んだのはシャヌだった。乱暴なブレーキで車が急停止し、その反動で四人全員が前のめりに突っ込んだ。
「何だ? え? シャヌか?」
アーチャは突然の不意打ちに面食らい、間の抜けた声を出して周囲をキョロキョロと見回した。ルームミラーに映っていたのは、降車しようとするシャヌの思いも寄らない姿だった。
「シャヌ、どこに行くんだよ?」
アーチャは聞いたが、シャヌは無視してそのまま来た道を戻り始めた。アーチャは車から降り、シャヌの後を急いで追った。アンジとファージニアスが黙って見守る中、アーチャはようやくシャヌに追いつき、腕をつかんで歩くのをやめさせた。
「気でも狂ったか? シャヌ、一体どうしたっていうんだ……」
「どうして?」
シャヌの声は、涙を含んでいるかのように悲しみに満ちていた。
「私は、みんなと同じように過ごしたいだけなのに……みんなと同じように生きていたいだけなのに……どうしてみんな、私のことをあんな目で見るの?」
アーチャの心臓は、アンジの硬質な手で平手打ちされたかのように激しく痛んだ。
「それは……シャヌ、それは違……」
「私が滅びたはずのマイラ族だから?」
森の入口を遠くに眺めながら、シャヌは小さな声で言った。返す言葉さえなかった。
「ピゲ族の三人が言ったの……お前は珍しい生き物で、金になるから、この大会が終わったら国軍に高値で売るって……私、悔しかった……すごく悔しかった」
シーツに覆われたシャヌの後ろ姿を見つめたまま、アーチャはただ黙然と突っ立っているしかなかった。アーチャが恐れていた以上に、シャヌの心の傷は深かった。アーチャは不甲斐ない自分をますます責め立てた。
「それで、分かったの……背中にこの翼がある限り、私は誰とも関わっちゃいけないんだって……一人で生きていかなきゃいけないんだって……もう、私のせいでアーチャたちを困らせたくないの」
『そんなことない!』
『シャヌのためになるなら、どんなことだってする』
『すぐに助けてやれなかったこと、本当に悪いと思ってる』
『言っただろう? 俺はシャヌを守るって』
心に思ったことを、何一つ言ってやれなかった。思いつくすべての言葉に自信がなく、そんな綺麗事を並べただけの曖昧な言葉が、更にシャヌを傷つけてしまいそうで怖かった。
『シャヌ……ごめん』
言葉にできない思いをかみしめながら、アーチャはシャヌの腕をそっと離した。
「さようなら、アーチャ」
肩からシーツが滑り落ち、ふわりと宙を舞った時、もうそこにシャヌの姿はなかった。魔法で姿を消し、どこかへ……アーチャの手の届かない、どこか遠くへ、シャヌは行ってしまった。