一章 アクアマリン 4
そう言って、アーチャはドレイ服から土埃を払い落とした。シマウマのような服を見つめれば見つめるほど、自分が惨めに思えてくる。だがジャーニスは、そんなアーチャにいささかの興味を持ったようだった。
「ルースター・コールズという窃盗団の名は聞いたことがないが、君はたくさんの地を訪れて、自由な生活を送っていたんだろうね。羨ましいよ……僕はここに来る前からもずっと、軍の下でドレイのような生活を強いられていたんだ」
返す言葉がなかった。確かに、かつては束縛のない自由な生活を送っていた。だが、それはもう過去の話だ。地上では当たり前だったことが、ここでは幸せと思えてしまう……そんな地下世界に、アーチャは突然、何の予告もなしに落とされてしまったのだ。今のアーチャに、わずかな希望の兆しさえ与えられることはなかった。
互いに思い耽り、そのせいでしばらくの沈黙が続いたが、やがてアーチャが静寂を破った。
「そういえば、俺がここへ来たことをどうして知ってたの?」
ジャーニスがアーチャを『新人くん』と呼んだのを、アーチャはまだうっすらと覚えていた。その質問を受けて、ジャーニスはゆっくりと顔を上げた。先ほどと何ら変わりない、優しい笑顔がアーチャを見つめ返した。
「聖地にあった湖を覚えているかい? あの湖は海とつながっていて、よく外界から潜水艇がやって来るんだ。新たなドレイを連れて来たり、交替の兵士が乗り降りしたりするためにね。つまり、アクアマリンと地上とをつなぐ出入り口のようなものなんだ。無論、アーチャくんもその潜水艇に乗ってここへやって来た。僕はたまたまその現場に通りかかっただけさ」
「通りかかったって……ただそれだけの理由で、俺をこんな所までつれて来て、色々と親切に語ってくれるっていうの? そりゃ有り難いけどさ……」
アーチャが飛びっきり怪訝そうな視線を送り続けると、ジャーニスはあっさり観念したようだった。朗らかな笑みが真剣な顔つきに変わり、誰か聞き耳を立ててはいないか、扉の向こう側を透かして見ているようだった。
「見ず知らずの君を手厚くもてなす理由……」
ジャーニスは低音の小さな声で、仰々しく切り出した。吐息の音すら立てまいと、アーチャは自分なりにジャーニスを気遣った。
「それは、僕の計画に君の力が必要だと考えたからだ。追々分かってくるとは思うけど、ここには君のような若者は数少ないんだ。それに、みな長期の肉体労働でかなり疲労している。この秘密の計画には、アーチャくんのようなたくましい若者の力が必要不可欠なんだよ」
「その計画って?」
アーチャはすばやく聞いた。
「アクアマリンからの脱走さ」
ジャーニスはもっとすばやく答えた。
その時、扉が音もなくパッと開いた。その向こう側で、ドレイ服に身を包んだ青白い顔の男が、おずおずと二人を見つめて立っていた。
アーチャは思わず飛び上がった。血色の悪い肌をした貧相な顔つきの男が、腰をわずかに曲げて低い入口をくぐり、部屋に入って来る……。
「コッファか……ノックぐらいしてくれよ」
大丈夫、とアーチャに目配せした後で、ジャーニスはコッファという男と向き合った。コッファは後ろ手で扉を閉めると、アーチャとジャーニスを交互に見下ろした。なんとこの男、頭髪が天井をこするほど背が高いのに対し、横幅は小柄なジャーニスより細い。マッチ棒のようだとアーチャは思った。
「彼はコッファ。僕と同じルーティーの血が流れる混血だよ。コッファ、彼はアーチャくんだ。昨日来たばかりの新人だよ」
アーチャは小さくお辞儀をし、コッファを見上げた。不安げな表情でアーチャを見つめ返している。
「ジャーニス、おめえ、まさか、この子にも?」
鼻の詰まったようなくぐもり声に弱い東部なまりを交えながら、コッファは恐る恐る聞いた。予想どおりの軟弱な喋り方だ……しかも、言葉を発する毎に唇は震え、何かに怯えているようだった。
「外で聞いてたんだろう? 察しのとおり、アーチャくんにも僕らの計画に参加してもらうことに決めたんだ。聞けば、彼はいっぱしの盗賊だって言うじゃないか。きっと頼もしい仲間になるよ」
「ちょ、ちょっと待てよ。まだその計画に乗るとは……」
「アーチャくん。君だって、こんな所で一生を終わらせたくはないだろう? 君だけじゃない……僕だって、他のみんなだって同じ思いだ。僕は二年も待った……もう待ちくたびれた」
ジャーニスの決然とした口調と真剣な眼差しに、アーチャは二の句が継げなかった。それはコッファも同じだったらしく、うつむいたままドレイ服の汚れた裾を指でこすっている。
「それはそうと、僕に何か用でもあったのかい?」
コッファの顔を覗き込みながら、ジャーニスは穏やかに聞いた。
「ジクス、元気ねえ。昨日から、部屋で寝たきり。病気かどうか、ジャーニス分かるか?」
コッファの青い顔が更に青くなるのをアーチャは見た。
「残念だけど、コッファ、僕は医者じゃないよ。だけどもし午後の休憩時間までに、レクイテッド占領地から送られてきた膨大な量の暗号文を解読できたら、二人で見舞いに行こう」
コッファは気の乗らない声で「分かった」とだけ言い、訪れた時より更に顔色を悪くして部屋を出て行った。
「ジクスって誰?」
扉が閉まるとほぼ同時に、アーチャは聞いた。
「僕と同じルーティー族だよ。僕たち三人は昔からの長い付き合いでね。コッファとジクスは脱走計画の参加者として数えているんだけど……コッファがさっき言ったとおり、ジクスは近頃体調が思わしくないようでね。そうか……とうとう床に就いたか」
無理もない、とアーチャは心底納得した。こんな陽の当たらない所でドレイ生活を強いられていれば、風邪の一つも患ったことのないアーチャでさえ油断はできないだろう。
「さて、そろそろ時間かな」
懐中時計で時間を確認しながらジャーニスは言った。アーチャはドキリとした。
「いいかい? 決して兵士たちに逆らってはいけないよ。彼らは血に飢えた野獣そのものだ。ムチを振るための口実探しに余念がなく、相手が誰であろうと、理由がどうであろうと、暴力でねじ伏せてくる。……これを持っていきなさい」
ジャーニスは机の引き出しからもう一つ、銅製のくたびれた懐中時計を取り出すと、それをアーチャの首にかけた。かなり年季の入った懐中時計だが、まだ元気に動いている。『12』という数字の右上には、太陽の絵が描かれている。おそらく、朝と夜とで絵柄が変わる仕組みになっているのだろう。
「時計なんて、何の役に立つの?」
懐中時計をしげしげと眺めながら、アーチャは不思議に思ってそう聞いた。
「よく考えてごらん、アーチャくん。太陽の存在しないこの地下世界で、他にどうやって時間を知ることができるんだい? 兵士たちは気まぐれで、決まった時刻に休憩や睡眠の時間を挟んではくれない。休憩無しの上に朝まで労働……そんな状況はまれじゃないんだ。ここで正確な時間を知らないと、次第に体内時計は狂わされる……そうなれば、精紳状態が不安定になるのも時間の問題だ」
錆び付いたチェーンを手に握り、時計を服の中にしまい込みながら、アーチャは嘆息を漏らした。
「俺って今、かなり面倒なことに巻き込まれちゃってるみたいだな……まじで」
二人は扉の前までやって来ると、もう一度顔を見合わせた。アーチャは、まるで戦地へ出兵していく兵隊の一人にでもなった気分だった。
「労働の開始時刻は朝の六時から七時までと不規則だが、寝坊はしちゃいけないよ。三秒の遅刻が命取りになるからね。食事は十二時から十六時の間に一回。味に文句を言わず、全部しっかりお食べ。睡眠開始時刻は零時から六時まで……とにかく、睡眠をしっかりとること、いいね?」
「分かった、ちゃんと守るよ」
返事をしながら、アーチャはジャーニスが父親のような存在に感じて、ちょっぴり嬉しかった。十年前に両親を亡くして以来、ずっとみなしごだったアーチャを拾ってくれたヴァークスは、とうてい父親と呼べる柄ではなかった。忘れかけていた親の温もりを、アーチャは少し思い出すことができた。
「例の計画についての詳細は、また後日、君と二人で会える時間があったら話すよ」
アーチャは肌寒い岩肌の通路に一歩踏み出してから、もう一度ジャーニスを振り返った。できればずっと一緒にいてほしい……そう言いたかった。だがアーチャには、それが叶わぬ願いだということが分かっていた。
「ジャーニス……ありがとう」
アーチャはもごもごと言った。ジャーニスは「さあ、行って」とだけ言い、アーチャの背中を軽く押し、笑顔で送り出してくれた。
これから始まろうとしていることが、アーチャにとってどんなに過酷であったとしても、それを乗り越えるための勇気と力を与えてくれる、そんなジャーニスの笑顔がそこにあった。